小松家について

小松家は16世紀末あたりから諏訪の埴原田に住み始め、働き者が続いたのだろう、
徐々に耕地を増やして行き、そのうち代々名主を務めるこの地方の“おでいさま”の家になっていったようである。
その歴史を物語る様々な文書や生活用品などがかなり残されている。
特に文書類は代々日本農村の知的水準の高さを物語るような正確な記述がみえ、
また記録好きの性向も伺え、かなりは襖の下張や焚き付けなどで失われたにせよ、
普通の農民の家にしてはかなり例外的ともいえるかもしれない程の文書が蓄積されている。
戦後私の祖母が1955年ここで亡くなって以来、しばしの人に貸したりしたが、
その後、家は無人になり文書類は手つかずに土蔵に保存され、廃棄処分からまぬかれたことも大きかっただろう。
これまでなら活字媒体の形で保存が図られるのが常道だが、
今では文書のデジタル化による保存が文書保存の方法と新しい可能性を開いている。
さしあたり私以外にはこの整理作業を完成させる者はないので、
私のライフワークとしてこの作業をぜひ完成させたいと思っている。

小松家の歴史

先に述べたように諏訪の埴原田の篤農家として営々として
この地で農業に携わってきた小松家は米治(1852-1920)の代に男の子がいなくなり、
明治15年生まれのいさのが一人娘としてこの家を継ぐことになった。
彼女は(明治38年)笹岡家の二男武平を養子に迎える。
武平は同年、東京高師を出て、29歳で大阪の新設小学校の校長として赴任するというかなり珍しい人事により、教育界に入る。
従って埴原田で農民としてとどまる男が無くなり、明治十年に分家した米治の弟造之助が実際の農業的な仕事を引き継いでいたようである。
地主・小作関係は戦後大きく変わる。小松家は農地改革により田畑をほとんど全部失う。
いさのは三男・二女をもうけたが、男は三人とも大学をでて、誰一人として農業には従事しなかった。
娘たちも埴原田に戻ることはなかった。
かくして小松家はここでのこれまでの名家としての地位を完全に喪失する。
わずか200坪の土地に古い家一軒と土蔵が残された。(山林は農地改革の対象外であったが、これものち売却。)
この家は私が父摂郎の死後1975年に父から受け継いだ。
この小松家文書整理の仕事はかつて20年ほど前、
三溝国学院大学教授と彼のゼミ生の手によって整理が始められたことがあったが、
私の方も十分な覚悟もなかったために途中で停止状態になってしまった。
いまや私も定年退職し、いよいよ自分の残り時間を考えて行動する必要のある段階に立ち至った。
小松家の歴史を考えてみると小松いさのという私の祖母になる女性が一家の歴史を大きく変えていったということが分かる。
それまでは埴原田の地にあって、この地では名家として安定した存在を保ってきたのだが、
いさのは農家の女としてはあまりに知的に優秀でありすぎたようだ。子供の頃の絵が残っているが、
その筆致の繊細さはこの道でも名を残せたのではないかと思われるほどのものである。
裕福な農家の一人娘として自分の生き方について時代の限界の中でではあるが、
あるイメージが強くあったのではないかと思われる。
このイメージについて彼女は何も言い残してはいないが、学問の世界に対する強いあこがれがあったのではないか。
いさのの子供たちがいずれも学問の世界に進んだり、
(三男は建築を専門とし、ちょっと違う経歴をたどったが、公団退職後、一時金沢工業大学で建築の講義をした。)
娘たちもいずれも学者の妻になっている。
そういうところにはやはりいさのの強い願望があったように思える。
この願望が小松家の光と影の交差を物語るようである。

いさのの生活

いさのには実は一人異父兄がいた。
いさのの母とくの前の夫は長田浅右衛門といって、保吉という息子を一人もうけた。
保吉はよねとの間に4男3女があり、その次の代が私の同世代ということになるが、30人にのぼる数の繁栄を見せている。
このいさのの孫たちのまことに寥寥たる様子と比べると、あまりの差の激しさに驚くのである。
かたやこの地に土着的に生き続け、子孫を増やしていき、かたや先祖の地をはなれ、
教育方面に進出していったいさの・武平の世代も3男2女という立派な一家を形成した。
しかし、いさのの時代には武平が校長を務める松本二中の二名の生徒の美ヶ原の遭難死と
それが引き金になった武平の病臥と死という事件が1930年に起こり、1938年には長女澪子が病死する。
戦後は小松家にとって決定的なダメージとなる茅野の農地改革と1949年におこるいさのの長男、
摂郎の神戸大学におけるレッドパージ事件がある。
いさのからの小松家には何か悲劇性ともいえるものが感じられてならない。
いさのが村で農業に従うような男を養子にもらい、
田畑を作っていくような生活をすれば戦後の事態も被害はもっと少なかったに違いない。
しかし、いさのの生まれた時代は変革の時代であった。
教育という方面がこういった知的なことに傾く性格の農村出身の人々を引き入れていったのも時代であった。