建築年代

何時頃この家が建築されたかについては、はっきりしない。
構造的には塩尻にある国指定重要文化財の小松家住宅が我が家と大変似た構造をしている。
小松家住宅は17世紀にさかのぼるとされており、可能性として我が家もそこまでさかのぼることもありうる。
先祖の戒名札が正徳元年(1711)から大正九年(1920)まで17枚ある。
正徳元年(1711)のは「正徳元(1711)年四月八日亡 清與浄本信士 俗名茂右衛門有忠」というものであるので、
小松家も17世紀からこの地に暮らしていた可能性はある。

間取り

間取りについては長い時間の中で何回も改築されてきたので、本当の最初はどうだったかはよほど厳密な調査でもしない限りもはや分からなくなっている。
塩尻にある国重文の小松家住宅は参考にはなりそうで、上座敷の縁側の作りは当家の上座敷の縁側と大変にている。
ただし当家はこれも数年前改築したので、現存しない。
この間取り図は小松武平が書いたものなので、武平がこの家に養子できた頃のものであれば、明治末年頃のものであろうか。
はっきりは分からない。
ただ、この図をみると私が小学生の頃、夏休みに一家で帰省した当時はこの図の通りの間取りであったと記憶する。

間取り1  間取り2

茅葺時代の写真

茅葺時代の写真が4枚ある。
其一
ちょっと不思議な写真だが、祖父の武平が亡くなった昭和5年ごろのものだろうと思われる。
水車小屋と家の右の方に大きな木が見える。
これは栗の木で秋に実がなると風に吹かれて落ちた実を子供たちが拾いにきたということである。

7

其ニと三
この二枚は同時にとられた黒白写真である。そう傷んではいないようで、どうも私が撮ったらしいが、記憶がない。
二の写真では隣にトタン屋根の長い平屋がみえる。これは今は無いが、梱包材を作っていた工場で、今もバス停「製板前」という名前が残っている。

3  4

其四
これは夏のようで、家の庭に豆らしい作物が出来ている。これは多分私が学生のころで、1960年初頭だろうと思われる。

写真1

其五
其五、六、七は其四よりは新しいようだ。其五の右端に製板工場が見えるが建物が其二よりは背が高いようである。追加された建物らしい。
其五

其六
これは家の先祖の墓がある墓地へ行く道の途中で撮った写真だが、今は右側に家が建っていて小松家の家は見えない。そして道の突き当りの工場も無くなっている。
左右にある石柱もこの道の北の紫雲寺の入り口に移動している。
其六

其七
これはたしか玄関の前に車を置かしてくれと頼まれた記憶があるので、その頃の写真だが、何年ごろかちょっと不明である。車は日産スカイラインGTRのようなので、1970年代始めだろうか。
画面左、塀の前に置かれている太い材木は製板工場で梱包材として板になる前の千葉港から運ばれてきた原木である。家の前の川の上を置き場にしていた。
其七

大改修

茅葺屋根の撤去とトタン屋根、その後の大改修
祖母の死後、放置状態だったので茅葺の茅が痛み、雨漏りがしてきた。
土台が腐ってしまえば改修不能になるので、茅を撤去してトタン屋根にした。
これは1960年代半ばかと思われる。
その折は叔父の小松和郎がいろいろ世話をしたようである。
それからかなりの間放置されたためにさらに傷みがひどくなり、何とか手を打たないと崩壊する可能性もあるような状態になった。
私の1984年4月29日の日記には以下のように書いてある。
家の傷みひどし。山側の壁すっかりくずれる。裏の塀トタンが数枚はずれ、横木がなくなっている。
屋根の雪止めが雪の重みで下に落ちている。この雪止めが塀を壊したらしい。
下の写真はちょうどこの日記に書かれたころ物である。

2

そこで1984年6月に友人の紹介で建築家の藤木良明氏に相談した。
工事は藤木さん紹介の前川工務店さんにお願いした。
第一次改修を1985年の8,9月に、第二次改修を87年5月から6月半ばにかけてに行った。
下の写真は荒れ果てた台所である。

1

つぎの写真は左が改修直前で、右が改修の現場の写真である。

6  5

これでともかく構造は出来るだけ昔のままにしながら実際に生活できるような家になった。
上座敷といわれる客間は一番変更が少ない部屋である。襖は変えたが引手も昔のままになっている。

家の絵

父の摂郎が大正10年、中学時代に描いて学校に提出した「田舎の家」という題の絵が一枚と同じく「田舎の家の倉」という題の今もある土蔵の絵がある。
そこに描かれている梯子は今も土蔵の前に置かれている。

2  3

家についての文章

二つの文章がある。
一つはいさのの長女澪子が書いた「思ひ出すと」という文章と末の娘の百枝が書いた手紙の中に出てくる家の描写がある。

「思ひ出すと。」

夏の真晝、石の飛び出して居る田舎道を私は一人ぎりで歩い
て居た。道に添つて流れて居る小川で、手拭いをかむつ
た女の人が鍋を洗ひながら首をあげて、通る人を珍しそうに
眺めて居た。一つの村を過ぎると次の村迄に人家の無い
所がある。左手には山の鼻がぐつと突き出して、道はその鼻
先を廻つて居る。其處だけ黒い影が道迄さして居る。こ
の外には焼け付く様な日の光をさへぎる物は何も無い。右手
には青い田圃が廣がつて、其の向かふに濃い緑の岡が長
く續いて居る。岡の後ろには美しい青と白の山脈が重なつて
見える。行く手には三々五々茅葺の屋根のかたまりや、
森や、火の見等が近く遠く見えて居る。その中にお祖母様の
家の栗の木が高く立つて私を呼んで居る。そこへ白い道
がうねうねと続いて居る。生き生きした緑色の山、真白な雲
、廣い田の面、低い屋根、細い銀色の流れ、總てが真青
な空の下に、「思ひ切り」と言ふ様に輝いて居る。體より大
きな籠に桑を一杯人れて背負ひ、雪袴をはいた女の人が
稀に通る外、めったに人に會はない。輝いた村はずれの景色
が本當に大好きだった。今校庭の木々は明るく光つて居
る。それは私の胸に美しい村はずれを何時も思ひ出させる。
どんなにのびのびして、美しいだらう。早くそこへ行き
度い。(六月十九日)

これは私の伯母にあたる、昭和十三年十月に三十三歳で病死した小松澪子の追悼書『追想』の附録として巻末に載せられた文章である。
私はかなり昔これを読んで良い文章として記憶に残っていた。
「その中にお祖母様の家の栗の木が高く立つて私を呼んで居る」
というのが今や栗の木は伐採されて切株が残っているだけになり、
茅葺も茶色のトタン屋根になってしまったが、茅野市米沢埴原田の家のことである。
彼女にとってもこの家は母の家ではなく、「お祖母様の家」ではあるが、懐かしい故郷の家であったようだ。
この家の古い写真が一枚あり、それには栗の木と水車がみえる。
たぶんこの写真は祖父の小松武平が死去した昭和五年ころの写真であろうと思われる。

以下のは「百枝の手紙」である。

如何お暮しで居らっしやいませうか。あまりお裁縫をし過
ぎてお母様にほめられすぎない様に。私は今、山の中の涼
しい森の影の祖先代々の家に来て居ります。ぽつんぽつ
んとしか家はありません。そして川に水車がゴトンゴトン
と廻って居ります。屋敷の出入口は草が茂って通りみちも分
らない程です。大変冷たい水が流れて居ります。ここを今
日去りまして又賑やかの我が家へ帰ります。夏休みも目
にみえて減ってしまいます。だんだんおあひする時も迫り
ます私の家若しかするとこのお休みには松本へ引越しま
す。父の勤務地ですから。くはしい事はおあいしてからお
話致しませう。多分寄宿に残る事にならうと存じて居りま
すがたしかの事は分りません。
先ずは右まで                 かしこ

これは父摂郎の妹の百枝が大阪の岸和田に住む友人の川崎美代子に書いた手紙であるが、
何故か投函されなかったようで残っていた。
ここに当時の埴原田の家のことが書かれている。
これは大正十二年の夏休みのことであるらしい。
この年百枝は諏訪高等女学校に入学しているので、川崎美代子は実家の大阪に帰っていたのであろう。
周囲に家も少なく、水車が静かに回っている田舎の模様がよく分かる。
かなり草が伸びていたらしく、家の手当てが十分でないようすである。
父武平は諏訪中学の校長で上諏訪の湯之脇に住んでいた。
この年武平は松本二中に転勤になる。
百枝が松本に転居するかもしれないというのはそのあたりの事情であろう。