曾祖父の買った柱時計
この家にかなり古い柱時計があって、まだちゃんと時をきざみ、まめに時刻を間違えずボンボンと鳴らしてくれている。ここでは朝5時と夕方6時にお寺の鐘がなる。この時計もそれに合わせて、ちゃんと5時には五つ、6時には六つなる。曾祖父の明治27年8月7日の記録に時計を買うという記述があるので、この時計はその時曾祖父が買ったのかと思っていたが、証拠がない。しかし、この前曾祖父の残した雑物を整理していたら、なんとその証拠が出てきたのだ。買った店の保証書があった。保証書では曾祖父が買ったという日にちの一週間後の8月12日になっている。時計の写真と保証書をみてほしい。なかなかの古物であり、特にこの保証書は価値がある。買ったときのと、明治32年と明治35年の修理の保証である。

P1020136 時計保証書明治27 - コピー

時計保証書明治35

小松いさの「女教育者の自省」について

この一万余字の文章はいさのが長野県師範学校女子部で明治三十六年二月に学校に課題として提出した文章である。いさのは明治三十六年四月同校を卒業し、その後小学校教諭の経験をし、その折に作った教案が数冊あり、それとともにこの作文があった。二十歳のいさのが女教育者たらんとして些か大げさな見解を述べたものである。(「女教師」という言葉は使っていない。まだ「女教師」という言葉は定着していなかったのだろうか。)

始めに日清戦争の勝利と北清事件で日本が東洋の小国から世界の大国へ発展する時期に至ったことが誇らしげに述べられる。このあたり日清戦争の勝利が日本にもたらした高揚感というものが如何に大きいものであったかを思わせるもので興味深いものがある。そういう国家の情勢において女も家庭だけでなく、何らかの家庭外の社会的貢献をせねばならないと考えたようである。

明治30年代は長野師範において教師・生徒が非常な積極性を発揮した時代であり、女子部においてもその雰囲気は伝わっていたことであろうと思われる。女子部の友人は一生の友となり、友情はいさのの死去まで変わらなかったようである。

いさのがどのようにして教育者としてやっていこうという考えに至ったかははっきりはわからないが、女というものは子供を産み育てるという天職があり、これが女が小学校教育にとっては生来的な適性を持っている由縁だとも言っている。

本論では、七つのテーマをあげる。一、力が足りない。二、確固不抜の主義と勇気を有するや。三、広く目を宇宙に放ち度量を広くすべきこと。四、元気と研究心に乏しきこと。五、卑俗に流るるなきか。六、身を以て卒ゆべきこと。七、家庭につきて。

以上であるが、師範女子部ができて以来、女教育者も増えてきたが、現実は女教育者が十分に力を発揮できるような状態ではない。女教育者自身が努力も不足しているし、女教育者を育むような体制も全く不十分である。そういう中で師範女子部というのは一般のこの時の女性を囲む環境のなかでは女の解放区のようであり、そこでは非常に自由に発言し、研究がなされている。しかし、この彼女たちが卒業して教育現場に入ると一転して彼女達はすっかり元気がなくなり、上からの要請に唯々諾々の存在になってしまうのが現実である。これは一体どうしたらいいのだろうか。社会自体が男中心になっていて、男の教師はそれに乗っていれば安泰でいられる。しかし、女はそうはいかない。どうしたら女が教育界において発展することができるだろうか。六の中でこういう一文をいさのは引用している。

良家ノ女子ヲシテ小學校ノ教員タラシムルワ利益実ニ多クシテ若シ遠慮ナシニ其所望ヲ云ワシメバ女子ノ小學校ノ教員ノ職ニツクコトワ男子ノ兵役ニ於ケルガ如クニシテ未婚ノ女子ヲシテ必幾年ノ間小學ノ教職ニ服スルノ責ヲ負ワシメタシト迠思エド斯ル事ノ容易ニ行ワルベキニ非ラサレバ責メテ女子ノ教職ニ従事スルヲ以テ世間一般ノ風習トナシ此風習ニ従ツテ一度教員ノ職ニツキタル者ニ非レバ容易ニ他ニ嫁スルコトヲ得ザルコト尚裁縫ノ心得ナキモノノ他ニ嫁シ難トニ同様ニ感ズルニ至ラバ大ニ婦女ノ面目ヲ改メ啻ニ小學教員ノ不足ヲ補フニ余リアルノミナラズ女子ヲシテ自営自活ノ道ヲ得ラシメ廣ク人ニ交リ又母トシテ愛児ノ教育ヲ主ドル上ニ無限ノ益スル所見ルベシト

これは出典がないので誰の発言かは不明だが、いさのは読んでハタと膝を打ったに違いない。男子の兵役と女子の小学校教育経験を並べるという考えは女子の社会的地位を男並みにする上で大変な英断であろう。実際はとても実現はしないだろうと発言者も言っているがこれは画期的な考えであろうといさのは思っただろう。

いさのは地元の小学校と武平と結婚して行った大阪の小学校でしばしの教員生活をしたが、教員生活は長くはなく、子供ができて仕事から撤退した。武平は同じ村の出身で東京高等師範を卒業した人で彼との結婚はこれ以上の人はいないという思いであったろう。自分の教育的思想を彼に託したという面もあったのであろう。

 

女子日誌

明治丗九年五月ニ十日
午前一時女児出産
大阪市東区東雲町二丁目一六〇番屋敷、伊吹堂ト云フ骨ツギ医ノ裏手ニ当ル小屋ニ生ル
五月廿七日海戦記念日マデト思ヒシガ遂ニ今日生ル、而カモ男子ナレカシト祈リシニ女子ナリ、喜ビ従ツテ少ナシ
母ハ三日前ヨリ産婆ノ言ニテ出産近ヅキツツアル事ヲ知レリ 産婆ハ毎日来宅、此レ前ハ一ヶ月ニ三四回ヅツ)
十九日早朝ヨリ看護婦一人ヲモ仕ヒ置ケリ、産婆看護婦皆河野婦人科病院ヨリ来レリ
十九日午后学校裁縫教師ナド頼ミ布団ヲ作ル
産婆看護婦ノ其他ノ人ノ出入多キヲ以テ隣家目ヲ側立ツ而カモ妊婦ハ戸外ニ時々出ヅルヲ見テ驚ケルモノヽ如シ
午后九時布団整ヒ一回入浴シ食事ヲ済シ十時頃就辱ス 十一時ヨリ妊婦腹痛ヲ叫ブ 十二時ヨリ痛ミ増シ出産ノ傾向明ナリ 寝室ヲ便所側ニ移ス
看護婦 産婆俄ニ■ニシテ大ニ困難ス
余電話ニテ看護婦ヲ呼バントセシモ公衆電話所十時後ハ許サレズ 依ツテ車夫ヲ走ラス
産婆来ラザルニ正ニ出産ノ■■アリ 小児ノ頭見フ
機迫ルヤ産婆来リ直チニ出産ス
家ノ狭キト不ナレノ者ノミニテ大ニ困難ス
気候ノ暖カキハ大ニ好都合ナリ 戸ヲ開キ外気ノマヽナルモ何等ノ故障ナシ
生児ハ女児、隣家二歳ノ男子ノ泣声ヲ聞キテモ感触ヲ起ス位ナリ
生児ノ健骨格ノ堅固肉附ノヨキ産婆モアキレ居レリ「母ハ気丈夫ダカラヨイガ随分難儀デアツタロー」ト
母ノ経過極メテ良好出血モナク安臥談笑ス
夜明ケ朝食後若手看護婦用事ニ出デ晝迄帰ラズ 家内一同立腹ス
谷川ト云フ人大サ二尺斗リノ タイヲ持チ来リシモ切ルニ手ヲ傷ケ二時間苦シミシモ遂ニ切レズ 魚屋ニ持チ行キ切リ貰ヒタリ、 食ヒキレズ腐敗セシムル恐レアリ
味噌ヅケトセリ
牛村氏ヨリカン入スープニ、瓶入アメヲ持チ来ル
午后産婆又来リ手当ヲナス

五月ニ十一日
学校教員ヨリ祝品ヲ受ク 戸塚和気二氏見舞ニ来ル
武井勝■二氏ヨリ祝品ヲ受ク
母子更ラニ異常ナン
生児ノ目方ヲ見シシニ 七百六十九匁アリ
カゴナドニ入レ計リシ コツケイサ 頗ル面黒シ
産婆来リ湯アゲシノ際行ヘり
身長五十センチ位アラント産婆云フ
生母辺縁ノ傷ノ痛ム発熱アラバ医師来診ヲ乞ヘト産婆任意(注意)アリ

五月廿二日
生母乳タマリ張ル 看護婦吸出ニツトム 中々労多キ仕事ナリ
生児稍母乳ヲ吸フニ■■
武居陸路ニ婦人ノ見舞アリ
立入婦人ノ見舞アリ 祝品ヲ受ク
陰山裁縫教師来リ 児衣枕ヲ作ラル
産婆来リ説ク常ノ如シ

五月廿三日
産婆来リ説ク事常ノ如シ
生児黄胆ヲ始ム 之レ生児ノ常ナル由、始メテ知リヌ 田舎人ハ知ラズ
生児日ト夜トヲ違ヘテ終日眠ルハ不都合千万ナリ

五月廿四日
生母損傷尚止マズ 熱度七度六分ナレバ産婆又来ル
中村氏ヨリ祝品ヲ受ク
生児吸乳大ニ巧ミトナルモ尚乳出多キ過ギ乳房ノ張リ過分産婆生母ニ少シク養分ヲ扣ヘル事ヲスヽム
横傷手当ノ際痛ミ烈シキヲ訴フ
神経過敏小事ニ怒リ甚シ 夜電話ニテ産婆ト相談ス

五月廿五日
久保氏ヨリ祝品ヲ受ク
和気訓導母祝品ヲ持チ来ル下婢ノミ面会セシガ下碑来■■人ナルニ目ヲ廻ワシ驚キ居レリ
産婆来リ丁寧ニ手当ヲナス
生児黄胆ヲ始ム 之レ初生児ノ皆ナス所ナリト云フ

五月廿六日
生母損稍痛ミ減ジタルヲ云フ
臍帯取レルベシト云ヒテ浴セシメズ
岡林博太郎氏祝品ヲ持チ来ラル 児名ニ付種々相談スルモヨキモノナシ 難波津ニ咲くや木の花冬ごもり今を春べと咲くや木の花ノ王仁ノ歌ヨリ取リ 冬籠(フユロ)トシテ如何ト云フ

五月廿七日
臍帯尚取レズ 産婆来リ又■セシム
児名ニ付相談スレドモ良名ナシ 古事記ヲ探シ 王仁ノ歌ノ文字ヲ見ントセシモ右ノ歌フ古事記ニナシ

五月廿八日
此日臍帯去ル
渡辺■氏ヲ清水谷高等女学校国語教師ノ許ニ遣リ歌ノ出所ヲ正サシム 万葉集ノ序文ニアル旨ヲ知リ得
名ノ候補、摂子、茅渟子、茅江子、瓢、幸子、みを、等ナリシガ遂ニ 澪子ト決定ス
大阪ヲ澪標(みをつくし)ト云フヨリ採レリ

五月廿九日
出生届ヲ東区役所ニナス
生児ノ目方ヲ見ントシ衡ヨリ落ス 母驚キ赤面ス、目方七百八十二匁
河野病院庶務ヨリ薬價及看護婦費通知来ル
廿日ヨリ廿五日迄ノ費用拾弐円斗ナリ(産婆費ハ含マレズ)

五月丗日
中村清彦氏ヨリ祝品ヲ受ク

五月丗一日
長谷川君ヨリ祝品ヲ受ク
竹内区役所書記ヨリ祝品ヲ受ク
出生十二日ニナルモ生母傷所全快セズ当看護婦ヲ置ク事ニ決ス

六月一日
産婆休日ナリトテ通常婦人服ニテ来ラレ話ヲナス
郷里ヨリ電報来リ鋳物師屋女死去ヲ報ズ

六月二日
生児眼ヲ開キ泣カズニ居ル事多キテ加フ
吸乳量昼多シ、黄胆全快ス

六月三日
南区青■第三校ニ展覧会アリ 生徒ヨリ生母ヲ招クモ行キ得ズ遺憾ナリト云フ
午后余展覧会ニ行ク計画中々ニ大キク経費八百円ニテモ大ナルヲ知ル
松家喜■氏祝品ヲ持チ来ラル
看護婦十五日雇ヒタルモ最早用ナシトテ辞シ去ル、茶菓ニテ送別ス、生母終日起キ働キタレバ疲レタリト云フ

六月四日
産婆来ル 湯ヲアブシ生母ヲ診察ス
河野病院長最早生母ニ薬ヲ要セズト云フ
陰山氏ヨリ祝品ヲ受ク
生児目方八百三十五匁トナル
臍帯腹帯ヲトル

六月五日
看護婦来リ湯ヲアブス種々用事ヲナシ夜ニ入リテ帰ヘル

六月六日
看護婦来リ湯ヲアブス
毎日湯アブシヲ自宅人ニテナスベクスヽムルモ為シ得ルモノナシ
生児午后泣キ方例ヨリ多シ何力異常アランカト疑フ

六月七日
生児早朝ヨリ親ノ顔ヲ見ツメテ能ク笑フ
看護婦来リ見シニ生児臍少シク痛ミ赤色液ヲ分泌スルモヨフ湯アブシヲナサズ 生児泣キ方稍多シ
陰山裁縫教師来リ 小布団ヲ作ラル
生児ノ知恵付キ人ノ顔ヲ見テ笑フニアキレタリ
立入婦人来リ 之レヨリ湯アブシヲナシクレント云フ

六月八日
産婆モ看護婦モ来ラズ 湯ヲアブサズ
学校医ヲ頼ミ来リ 生児ノ臍ヲ見テ貰フ別ニ心配スルニ及バズト云フ
生後廿日ノ児トシテハ大ナリト云フ

六月九日
産婆モ看護婦モ来ラズ 湯アブシヲナサズ
石井鈞三郎君祝品ヲ持チ来ラル
本日ハ生児ノ臍全快セシ如ク見ユ
チリメンヲ買ヒタリ衣ヲ作リ■■ノ用意ヲナサントスルナリ
立入婦人来リ相談セラル

六月十日
立入君来リ祝ニ付相談シタル、看護婦来宅
他家ヨリノ祝品ヲ見積リシニ十三■金額廿余円ナリ

六月十一日
秋田氏ヨリ祝品ヲ受ク
生母始メテ湯ニ入ル 明日病院ニ行準備ナリ
夜泣多ク睡眠不足ス

六月十ニ日
母子車ニ乗リ病院ニ行キ診察ヲ受ク
生母尚少シ傷アリ 生児ノ臍少シスリ傷アリ 他ニハ不都合ナシ

十三日
立入婦人ヨリ湯アブシヲシモラフ

六月十四日
立入婦人湯ニ入レラレシニ熱カリシト見エ泣キタリ

六月十五日
生母自ラ湯アブシヲナス

六月十六日
生母湯アブシヲナス
祝返礼ノ用意ヲナス

六月十七日 小使二人 及び下婢ヲ
返礼ニ廻ハラシム
返礼品物ハ鰹魚節ヲ主トス 立入氏内旋ニヨル 價格ハ豫定ヨリ減ジテ品トナス 立入氏ノ忠告ニヨレルナリ
貰ヒシ祝品價格大畧左ノ如シ
一五、〇立入君 三〇、〇秋田君 一五〇 不破君
五〇〇 学校教員 一〇〇 ■丁中 一二〇 岡村君
一五〇 石井君 一五〇 松家君 一五〇 伊吹堂
一五〇 中村君 一〇〇 武井■■家 一〇〇 和氣君母
一〇〇 陰山君 五〇 竹内君 五〇 長谷川君

井伊掃頭部様
昨三日五ツ時御登城之砌外桜田御門外松平大隅守様御屋敷者つ連(はずれ)ニ而御駕籠江左右ゟ及
狼藉候もの有之五六人雪中桐油ニ而平伏いたし候處御通行御駕籠前ニ而桐油笠等取候而下ニ白布ニ
而鉢巻襷を掛け抜打ニ御駕籠を目掛ヶ切付候處御駕籠脇之衆ふ意之事ニ而相支候得共抜合せ候間合
も無之六人程深手即死等も有之趣ニ御座候直ニ御駕籠者跡江立戻ニ相成候得共陸尺(?)逃去御国
仲間侍分之者表門ゟ奥迄御乗込ニ相成候よし且又狼藉之もの共同處ゟ日比谷御門江出八代洲川岸増
山河内守様辻番前ニ而弐人深手負候者自殺同所辰之口ニ而壱人切腹外ニ手負人壱人遠藤但馬守様辻
番勝手外ニ而相果右之外辰之口切腹ㇵ酒井雅楽頭様ゟ戸板囲立番警護ニ御座候遠藤様辻番前脇(破損)
引小笠原右近将監様ゟ御固メ人数御差出ニ相成候昨日之處荒増如是御座候以上

小松与兵衛の御用日記および「我が家の歴史 小松家」について

小松家には「大正4年8月創起 我が家の歴史 小松家」という16ページからなる家系をしるした冊子が残されている。筆者の名前が明記されていないが、多分養子になって小松家に来た笹岡武平の手になるものであろうと思われる。中々見事な筆跡であり、武平は小さい時から字が上手かったらしい。「此記録は自家保存の戒名札、紫雲寺過去帳、墓所石碑及小松長兵衛氏所蔵の古記録により摘録したるものなり」とある。ここに書かれている戒名札は正徳元(1711)年から大正九(1920)年にいたる二百余年の17枚のものである。正徳元(1711)年から明治八(1875)年のものは大きさが一致しており、(152㎜×43㎜)である。大正九(1920)年の米治と昭和6年(1931)の妻とくの札は長くなって(175㎜×42㎜)である。正徳元(1711)年から明治八(1875)年のものは両面が利用されていて、一枚に二人の戒名が書かれている。
小松家はこの冊子の記録によれば、16世紀末あたりから諏訪の埴原田に住み始めたようである。それには「天正十五年上諏訪灰原田に住居定むる 小松理兵衛家度タリ」と書かれている。働き者が続いたのだろう、徐々に耕地を増やして行き、そのうち代々名主を務める家になっていったようである。その歴史を物語る様々な文書や生活用品などがかなり残されている。ここに紹介する小松与兵衛の「御用日記」も小松家に残された文書の一つである。
「大正4年8月創起 我が家の歴史 小松家」では以下のように初代から第七代までの当主が記されている。

第一代 正徳元(1711)年四月八日亡 清與浄本信士 俗名茂右衛門有忠
第二代 寛保三(1743)年十一月七日亡 昌與宗(般の下に糸)信士
第三代 寛政四(1792)年十月十四日亡 松與漢月信士 茂右衛門
第四代 文政九(1826)年九月六日 盡與松嚴信士 吉之丞
第五代 安政二(1855)年十二月三十日亡 徹與映松浄安居士 与兵衛
第六代 明治八(1875)年九月五日亡 儻與虧負清生居士 吉蔵
第七代 大正九(1920)年十一月十八日亡 念與西岸智海大徳 米治

第七代米治が私の曽祖父にあたる。与兵衛は第五代当主で生年は不明だが、没年は安政2年(1855)12月30日となっている。没年から数えると天保14(1843)は12年前である。この冊子には与兵衛から人物の性格に関する短い記述がある場合があり、それによれば与兵衛は「性剛毅村人を威服したり」と書かれている。大正4年にこの冊子が編まれたころはまだそういった過去の人物の言い伝えが生きていたのであろう。
与兵衛の妻は冊子によれば66歳で明治10(1877)年2月5日に没している。従って妻は文化8年(1811)生まれとなり、与兵衛の生年は、例えば妻より5歳上とすると、1806年となり、没は49歳となる。(しかし明治6年1月31日の日付の千鹿頭社の札では、与平亡妻もととして文化4年4月8日生まれとなっている。したがって明治6年には与平の妻はすでに亡くなっていることになる。没した年齢が66歳だとすれば、明治6年に死んでいる可能性はある。)与兵衛には政吉と吉蔵という二人の息子がいたようだが、政吉は「学ヲ好ミ其師モ之ニ教フルニ堪ヘズト嘆ジタル程ナリシモ年少ニシテ父ニ先ツテ死セシハ惜シムベシ」とあり、弘化3年(1846)に没している。天保14年の御用日記にもその名がみえている。長男として時折父の仕事を引き継ぐべく父に同道することもあったのだろう。しかし、その死は父に先んずること9年であった。そして次男吉蔵が第6代当主になる。吉蔵は「性豪傑肌ニシテ酒ヲ嗜ミ常ニ悠遊シ時々働ク時ハ大ニ働キ人ヲ驚カス如クナリ維新前後当諏訪藩下筋一万石ノ蔵番ヲ勤メタリ是ヲ以テ武田耕雲斎ノ戦争ニモ出デズ」とある。没年は明治8年(1875)9月5日、45歳である。吉蔵死去の後米治が家督を引き継ぐが、その折の役所への書類には吉蔵は急に腫物が出来て十日余りで死ぬという急死であったことが記されている。
この家系を記した時は米治が当主であり、第7代の米治は後から書き加えられた形跡がある。この冊子が書かれた大正4年の小松家の状態はどうかというと米治が当主で、一人娘のいさのは笹岡武平を明治38年(1905)養子に迎え、当時は奈良県師範学校主事として大阪の小学校長から転勤した小松武平に従って奈良に住みすでに4人の子持ちであった。米治の弟、造之助は埴原田で明治10年に分家して隣に住んでいた。米治という人は大変温和な人であったらしい。妻のとくは米治の前に長田淺右衛門との間に一人男の子をもうけている。どういう原因でそこの家を去ったかははっきりしないが、何らかの原因で米治の所に来たという訳である。そういうこともあり、いさのがひとり娘になったのである。やはり小松家はいさのの代に大きな変化を遂げる。いさのの夫、笹岡武平は東京高等師範学校を卒業と同時に小松家に入り、大阪・奈良・上田・諏訪・松本と各地で教員の生活を送り、農業に従事することはなかった。明治という大きな時代の転換は小松家にも大きな影響をもたらしたというべきだろう。
この与兵衛の残した文書は結構がいろいろあり、天保14年についてもこの外、御触書御廻状帳、宗門帳、大検見にかんする文書などがある。御用日記を見ると名主の生活もなかなか忙しそうである。日々農事はあり、あちこちに出かけねばならず心身ともに頑強でないと務まらないであろうと思われる。
小松紘一郎記
2014年2月
2019年9月改定

これは大正4年八月に小松武平が作り始めたらしい,小松家歴代の当主の年代記である。大正4年と言えば武平は奈良師範学校に奉職しており、
大正五年には上田中学の校長に転じる。やはり諏訪に近い上田に来てから作られたものであろうか。まず年代表あり、江戸時代の開始、
元和から始め、明治に至る。次に「過去を明にして将来家系の永續と子孫の繁榮とを図り以て邦家に報ぜしめんとす」という前書があり、
この記録の元になった諸資料を述べる。ここに出てくる「小松長兵衛氏所蔵の古記録(安永年間の記録ならん)」というのが出てくるの
だが、今の所これは探し得ていない。次に系図があり、平重盛から始まっているが、このあたりは十分フォロウできない。生没が詳しく
書いてあるが、どれほど信頼できるかな疑問である。重盛の次に資盛の名前があるが、資盛は壇ノ浦で25歳(又は28歳)で死んだことに
なっているが、この系図では嘉禄二年六十七歳でしんだことになっている。重盛から10代目に忠実がいて、元亀三年に63歳で死すとある。
この人が甲斐国へ西国から来て天文十三年武田信虎から「忠義有」として「永拾貫文」を貰ったとある。天正十五年小松理兵衛が上諏訪
灰原田に住み始めたとあり、その次男茂右衛門が第一代当主ということになっている。没年が正徳元年(1711)だから、17世紀半ばぐら
いから埴原田に住み始めたということになろうか。私はそれから十代目になる。

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気分はだんだん与兵衛さん
                            小松紘一郎       

 タイトルはなかなかうまいこと付けたと思うが、さて本文のほうはどうか。与兵衛さんというのは、私の父方の5代前の先祖である。たぶん18世紀から19世紀に変わる頃に生まれ、死んだのは1855(安政2)年12月30日である。政吉(1823-1846)、吉蔵(1829-1875)という子供がおり、1843年と1844年に村の名主をやっており、1849年から1851年までは、年寄役であった。その村は埴原田村といい、今の茅野市の西北4キロくらいの所にある、当時人口300人ぐらいの村であった。
 一昨年の夏、私が相続している与兵衛さんも住んだ家が余りにもひどくなって、ほうっておくと本当に倒壊する感じになってきたので、ついに修理に手を付けた。その前にある建築家に見てもらった。すると、これは相当古い、創建は17世紀にずれ込むかもしれないということであった。民家の年代決定には証拠になるようなはっきりしたものがあればいいが、なかなかそういうものは残りにくいようで、私の家の場合もみつからなかった。ただ古い位牌があり、その一番古いのが1711(正徳2)年であったので、この建築家のいうことも、だいたい正しいのかも知れぬという、傍証にはなった。直すことに決めはしたが、どういうふうにするかではなかなか決まらず、大分頭を悩ましたが、出来るだけ古いままの感じを残しながらということでやった。
 家の方が一段落したので、蔵の整理を始めた。かなりいろいろな物が出てきた。一番古い文書は、1749(寛延2)年の畑の買い入れ証文で、代金二両、年季八十年という記載があった。いろいろ漁っている間に、1枚のきれいに茶色、黄色、緑、青、墨の5色で書き分けたこの村の地図が出てきた。これは『諏訪の近代史』によると、一村限村地図というものらしく、1733(享保18)年、藩主から各村に村地図を出せという命令が出て各村で地図を作ったらしい。これがその下絵となれば、随分と古いものだが、それにしては色が鮮やかである。しかし、その絵の端にある記載事項は、村の家数、お城からの距離、石高が書き込まれている。家数は、九十二軒、距離は「御城ヨリ弐里弐十八丁四十三間五尺寺前まで」(寺というのは村にある浄土宗紫雲寺のこと)、元高四百五十石、高六百四拾六石六斗六升六合七夕、物成参百拾六石壱斗参升六号、内三斗四升七夕山役米とある。280年前のものにしては色が鮮やかすぎる気もするが、その考証は後日の宿題としよう。
江戸時代村では毎年、役所に宗門帳というものを提出していたが、与兵衛が、作った天保15(1844)年の宗門帳が出てきた。正確に書くと「浄土宗宗門御改並人別帳」という。最初に前書きがある。一つは、キリシタンおよび悲田宗の者は村にいないこと、もう一つは、よそ者が居着いた場合も寺で宗旨改めをすること、最後に、流れ者や商人は家に泊めないこと、たとえ親類縁者といえども泊める場合は年寄り五人組に届けるということである。次に、五人組の名前が列挙されている。全部で68人である。それから人別帳が続く。この宗門帳は、名主の控えであり、その後の異動を当該人物の所に張り紙を貼って記録している。江戸へ出稼ぎ、嫁を貰った者、他村へ嫁に行った者、誕生、死亡などである。ちなみに村ではこのは女5人、男3人が生まれている。 宗門改めについては、まず正月十五日に宗門改めについての廻状がやってきて、すると名主はこの控えを取り出して、村を回り、異動を調べ、変わったところは張り紙をして訂正し、これを下帳として提出する。すると奉行の手下の書き役がそれによって新しい帳面を二通作って名主にわたす。名主はそれぞれに各人の認め印を押させ、寺の証明印をもらう。そうして、当日改めの席上で宗門送状、請け状とともに奉行に提出する(『諏訪の近代史』)ということであった。天保15年は2月2日に与兵衛は鋳物師屋新田の万右衛門と一緒に役所に行きこの下帳を出し、四日に同僚の孫兵衛がそれを貰いに行っている。3月4日には「御宗門御奉行様山田左太夫様御出被遊古役鬼場迄御出迎致し」とある。その日、宗門帳が提出されたのであろう。御なになに様が目立つだけに、与兵衛さんも緊張したのだろう。宗門帳も何冊か揃うとおもしろいが、残念ながら1冊しかなかった。まあしかし1冊でも当時の村のことがなにがしかはわかる。これによると、村の人口は男153人、女162人、計315人。家族数は、89である。その内訳は≪1人もの≫12、≪2人≫17、≪3人≫16、≪4人≫18、≪5人≫12、≪6人≫9、≪7人≫4、≪人≫1である。意外に大家族がない。男の平均年齢は33・1歳、女は35歳になっている。年齢構成を表にすると以下のようになる。

 年齢   男 女   年齢    男 女
1~9   16 22  50~59   19 18
10~19   29 21  60~69   10 14
20~29   26 33  70~79   4 11
30~39   33 18  80~89   2 1
40~49   20 21  90~99   1

40代、50代は男女だいたい同数だが、それ以上になると、女のほうが多くなってくる。男は70代の4人のうち、一人は27年前から行方不明であり、80代の一人は29年前から、90代の一人にいたっては54年前から行方不明となっている。これらの男は生存の可能性はあまりないとすれば、年寄の女性優位はさらに強くなる。
 男女を年齢別に並べてみる。女のほうは平仮名2字の名前、くら、たつ、ゆき、あさなどという名前が続き、18歳くらいからその中に女房という漢字が入ってくる。そして女房が続くようになり、その間に適齢期だがなんらかの理由で2字のままでいる女が挟まっている。さらにたどっていくと、こんどは後家が現れ、母が続くようになる。つまり結婚した息子の母ということである。この時代の女が、女房、母という役割で一括されている様子に今更ながら感じいった。 
さて、与兵衛さんの公務日誌といったものが残っていた。「御用日記帳天保十四癸卯年八月五日植原田村」、同じ日付の「御廻状書留帳」があった。これは役所や宿駅からくる命令の文書の写しである。日記は翌年の11月26日まで続いている。村の名主というのはそうとう忙しい役のようであり、農業と両方はなかなか大変なようだ。したがって小作人を使いながらということになるのであろう。とにかくお上からいろいろな要請がやってくる。やれ年貢だ、やれ人足だ、やれ金を貸せ、役人がやってきては飯を食っていく。これだけの仕事をこなすのは、かなり大変である。もちろん役得もあったに違いないが、そう楽な役ではなさそうだ。このことについては、もう少し時間を貰ってまた考えてみたいと思う。

 追記 ここのところ、都会生活の疲れからか、私は気分的にずいぶん田舎への傾斜が激しい。江戸時代、人口300余の村は、今、人口500人である。都会に比べればその人口の変化は少ない。都会生活者の妄想といわれるかも知れないが、このくらいの規模を単位にした単純な生活が、結局は人間にとって一番いいのではないかなどと思ってしまう。与兵衛さん調べもそういう気分のしからしむるところということだろう。
           (1942年生 出版社勤務)
注:これは1987年8月発行の御茶ノ水女子大学の中文科を卒業した人たちがやっている雑誌「誌上同窓会」という雑誌の7号に載せてもらった駄文です。一番最後にのっけてくれて、「戦いがない」という批判を頂きました。そういわれれば確かにそういう気がします。小松家の文書を扱い始めたころで、与兵衛さんの「御用日記」や宗門帳をいろいろいじくっていました。ワープロの時代で「ゟ」など自分でドットを処理して作ったりしました。御用日記は出来るだけ早く文書館にきちんと載せたいと思っています。早くしろと与兵衛さんに叱られそうです。

私の履歴書⑥ 弊衣破帽
明石康
 終戦になって、進駐軍のチョコレートやチューインガム欲しさに英会話を勉強するのは、なんとなく卑屈に見えたので、そうしたグループの中に入り込む気がしなかった。そのため、後で苦労することになった。岩波英和辞典を編纂した田中菊雄氏がいる旧制の山形高校。一九四八年、英語教育に期待して入学したが、田中先生は古めかしい独特の抑揚をつけて発音した。点数のやたら辛い深町という先生は、イギリス随筆の味わいについて教えた。好き嫌いが激しい私はドイツ語教師になじめず、いまもってドイツ語ができない。
 ひもじいせいもあって、寮の部屋に万年床を敷いて、図書館から借りた本を手当たり次第に読むことにする。分厚いショーペンハウエルやモンテーニュを深刻な顔をしてよむ。左翼思想が学園を風靡していた。小松摂郎というマルクス主義哲学者の講義はむんむんとして立錐の余地もなかった。校内に共産党の細胞ができたという噂だった。今まで幅を利かせていた思想が、ガラガラ崩れた後で唯物史観は確かにわかりよかった。
 講堂ではダンスの講習会が開かれ、私は講師の大胆で優雅なステップにみとれるばかり。羽仁五郎という有名な思想家もやってきて、滑らかな口調で自由主義について熱っぽく語った。秋田から持ちかえったまっ白い米を校庭の片隅で焚火をし、飯盒で炊く。車座になって納豆をかけて食べた。旧制高校らしく弊衣破帽、草履をはいて街を歩く。安い焼酎を上級生に飲まされ、屋台の前にしゃがんで雪の上に吐いた。バンカラ学生のまねごとをしているうちにつまらなくなり、みんなと一緒に寮歌を歌うのはやめてしまった。
数人で十和田湖に旅をする。秋の湖畔は紅葉がみごとだった。泊めていただいた十和田神社で、ついでに御神酒も頂だいしてしまう。八幡平に登山した時は遭難しかけた。地図にあった道は山崩れで切断されていて、迷ったあげく寒さと空腹で休憩。深夜になってたどりついた救援隊により救出された。眠ったら凍死していたにちがいない。
いまの蔵王をしらない。リフトの一つもない時代。山を一歩一歩登って山小屋に到着した。交代で薪をくべて暖をとり、寝袋に入って眠る。ロケの時に原節子が使ったという寝袋の取りあいだった。朝、樹氷の間を新雪に跡をつけてすべった醍醐味。
学制改革になり、東京の大学を受験したものの、すべって浪人をした。秋田中学が新制高校になっていたので、司書として採用される。実に勝手な司書で、自分の読書や勉強のために図書室のドアを閉めてしまったりした。
社会科学や文学を語る仲間がいた。ひとりは憂鬱な詩を書いていた。やさしいまなざしの男だった。別のひとりは、無頼の文学者気取りで、虚無的な目をしていた。もうひとりは、少学校時代の喧嘩仲間。その後大きな商店を開いて繁盛したが、夭折した。心のやさしい人は、神に愛されて早死にする傾向でもあるのだろうか。
郷里に帰る度に、同級生たちが集まってくれる。酒を酌み交わしながら、一別以来のよもやま話に花を咲かす。民謡も歌うが、秋田音頭には替え歌がほとんど無限にある。なかにはかなりきわどい文句のものが交じっている。
一緒に歌いながら、こうした歌にはどこかとぼけた素朴さと土の臭いのするユーモアがあると思う。秋田はまぎれもなく東北地方の一部なのだが、東北的な質実剛健さよりも、地中海的な明るさと楽天性をただよわせている感じがしてならない。(前国連事務次長)
(注:ここでは小松摂郎の講義が大変学生にもてたことが書いてある。新時代の論客として大もてであったが、それだけ反感を持った人も多かったに違いない。それが1949年以降の反共時代になって噴出するのである。明石康は後に国連で働いて著名な人となる)。

書架散策 千田夏光 
戸坂潤 科学論 雷鳴のごとき観念論批判
 
敗戦三ヶ月後の某日。学徒出陣でとられた軍隊から解放されたものの家は「満洲」。帰るべきネグラはない。放浪のはて、やっと雨露をしのぐ三畳間をえたが金はない。その日の全財産は二十円だった。新宿にでた。東口の焼け跡にできた青天井のヤミ市でなにか食べ物を考えたのだった。五本十円の蒸し芋が目に入った。十円はその日の全食料費である。よし、と思ったとき、すぐ脇へ地ベタにゴザを敷き古本を山と積んだのがいた。
後から考えると戦時中に逮捕した人の家から押収した“蔵書”、それを敗戦後のゴタゴタのなか警察からカッパラって来たものらしかったが、ふとなかの一冊が目にとまった。十円だという。著者の戸坂潤がどんな人物かなど知らなかった。ただ科学の二文字にひかれたのだった。蒸し芋はあきらめた。夜、空の胃袋を抱えページをめくると心酔しきっていたカントがばさばさと論破されている。『純粋理性批判』『実践理性批判』をとおしカントのいう「物自体は知りえない」となることばを信じきっていた観念論の信徒へ、そこにある「しからば知りえないものをどうして想定しうるのか」のことばは雷鳴のごとくひびいたのであった。さらに四項目にわけ“物の考え方”をじんじんといていくくだりは、二度三度よみかえすなか、いつしか今日の思考方法になっていったのだが、それは後のことだ。
奥付けに三笠書房刊『唯物論全書』第一巻とあった。おろかな私はこのときはじめて唯物論なることばを知ったのだった。
それにしても戸坂潤とはいかなる人物か。翌年二月、ヤミ米担ぎでえた金で彼にくわしいという山形高校(現山形大)の小松摂郎教授をたずねにいった。山形は雪だった。途中で寝ているところを名人技をもった泥棒にはいている靴を盗まれた私は、はだしで雪を踏み先生をたずねた。
戸坂潤が、日本の哲学者のなかでその思想的理論活動のゆえ獄死した最初の人であること、場所は長野刑務所、敗戦直前の八月九日、四十六歳であったことを静かな言葉で教示してくださった。帰りに「これしかないので・・・」とわら草履を下さった。
先生はのちに甲南大学に移られたが『科学論』は三笠書房で復刻され、さらに『戸坂潤全集』全五巻におさめられている。ものの考え方を知りたいという若い方にすすめたいこと切なるものがある。(作家)『戸坂潤全集』第一巻所収  

注:当時私は三歳。こんなことがあったのは知るよしもないが、面白い記事なので、文書館に採用させてもらおうと思う。裸足で山形駅から雪の中あの家まで歩いて行ったのは大変である。靴は無いが草履ならと、草履を与えたというのも何とも時代を彷彿とさせる話ではある。甲南大学に移るというのは間違いだが、関西方面という認識は著者にあったようである。摂郎の日記では残念ながらこの日が何日かは確定できなかった。著者は2000年に亡くなったが、従軍慰安婦という言葉を始めて提起した人として、名を知られている。)