御柱大祭を觀るの記 小松攝郎
大正十五年四月四日五日六日と三日に渡つて御柱大祭を見物した。今、其心覺の爲に其の記を書かうとする。此は人に見せる爲でなく自らの心覚の爲に書きつらねるのである。
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此御柱大祭と云ふのは官幣大社諏訪神社式年御柱祭典と稱するのであつて、六年に一回宛四月より五月に亘つて執行されるのである。官幣大社諏訪神社は上社下社の二社に分れ、上社に本宮前宮があり、下社に春宮秋宮がある。祭典は上社下社別々に行はれる。上社の山出しは四月一日二日、里引きは五月一日二日に行はれ、下社の山出しは四月七日八日九日に行はれるのである。祭典に際し、上社に屬する村は、永明・宮川・玉川・豊平・米沢・湖東・北山・中洲・湖南・四賀・豊田・原・泉野・本郷・境・落合・富士見・金澤の十八箇村であつて、下社に屬するのは上諏訪・下諏(ママ)の兩町と湊・川岸・平野・長地の四箇村とであつて、此で諏訪郡全部の町村が屬する譯である。祭典は、山より巨木を切り出して來て、之を引いて境内に立てるのである。其數は上社の本宮四本、前宮四本、下社の春宮四本、秋宮四本計十六本である。各柱への割り宛ては二村又は三村を一組としてあるのであつて、祭典毎に受持の柱が変るのである。本年度の割に(ママ)当ては本一(永明・宮川)前一(玉川・豊川(ママ))本二(米沢・北山・湖東)前二(中洲・湖南)本三(四賀・豊田)前三(原・泉野)本四(本郷・落合・境)前四(富士見・金澤)である。下社に就いては自分は見なかつたのであるから、以下略する事とする。
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御柱祭山里(ママ)しの行程は、三十一日に山へ登り、四月一日拂曉引き出し、一日の中に子の神迄来て、二日の中に安国寺迄引き付けて、山里(ママ)しは終り、五月一日から里引きとなつて、神皇(ママ)寺の社の境内へ立てるのである。が、色々の都合で後れ勝ちである。
木を切り出す所は御小屋と云ふ事であつて、綱置場迄は、順序なく競爭で引き來り、其處から順序を正して、本一・前一・本二・前二・本三・前三・本四・前四と云ふ順で引き出すのである。新聞に依つて見るに、四月一日綱置へ著いた順は前一午前五時本一午前五時三十分本三午前六時十分であつて、午前八時迄に八本共揃つたと云ふ事である。三日は雨で休の為随分遅れたが、途中を略し、直ぐ四日僕が見物した時から始める。
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四日午後零後(ママ)五十二分發上諏訪驛の臨時列車に乘り茅野驛に下りる。同勢は父・母・姉・妹・弟二人と女中と計八人である。茅野驛を出て見ると、もう非常な人出であつた。上川橋を渡つて、少し行くと、丁度其處へ五味染八氏奉納騎馬が來た。其を見物して、木落し下の方へ行つて見た。もう、村旗が崖の上へ出て居た。見よい所に棧敷を構へてあつたので、皆で其處へ上り込んだ。御柱は晝休であつたので、父と僕と和郎と妹と女中とで御柱を見に、崖を登つて行つた。御柱を見屆けて、其場で逢つた久保田隆君を連れて棧敷に歸る。尚、御柱の大きさは次の如し、
口徑 周圍根廻
本一 四尺五分 一一尺六〇
本二 三・九〇 一〇・七〇
本三 二・八〇 八・九〇
本四 二・五〇 七・×〇
前一 三・九〇 一二・二八
前二 三・一〇 九・五〇
前三 二・八五 八・九一
前四 二・八〇 八・八二
尚長さは本宮前宮各一が五丈五尺で順次五尺落ち即ち四は四丈である。
兎角する中に綱渡りとなつて、段々綱が出て來たが、もう少しと云ふ所でどうしても出て來ない。此は御柱が窪へ突き掛つたのであつて、一時間も掛つて、やつと上げたのである。かくして、落ちたのが午後三時三十五分である。線路が直ぐ下にあるので、汽車の時間を計つて落さなくてはならないので、手間が取れる譯である。げにや、上川をはさんで横内から茅野より木落とし附近一体の黒山の如き觀衆は身動きも出来ない程であつた。木が落ちる時メドテコへ大勢乘つて下りた。柱がズーツと空中へ突き出た時にはどんな気がするだらう。本一には木遣りは余り良いのがなかつた。かくて、持参の壽司で晝食をすまし、午後五時半頃茅野駅を出る臨時で歸つた。(一九二六・四・六)
汽車から見たら、前一が崖の上に來て居たので、其の落ちるのを見れば良かつたと思つたが仕方なく歸つたら、当日は落ちなかつたと新聞に見える。
非常に多忙に就き以下大略に止める。
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四月五日、午前九時五十四分上諏訪駅発の列車に單身危く飛び乘る。同列車に、長坂端午君・林毅一君・手島嘉門君等乘つてゐた。
茅野で下りて、直ちに木落しに行つて前一の木落しを見る。直ぐそばで見たので良く見えた。此日曇であつて風又寒く、昨日に劣る事數等。正午前一は木落し上に達したが、めどてこ準備に手間取れて觀衆あせり気味。かくて、午後零時五十分落つ。線路を越えた所で休んでゐた。此時もう本二の村旗が崖上に見えた。
こヽで町へ行つて、パンを買つて晝食としてたべた。此時もう本二の綱が崖を下つて来たので、又崖下に引き返して見物する。本二は割合に前手際良く余り手間取らずに落ちて、線路を越して休んでゐる。すると、前二も負けずに本二を圧迫気味に直ちに後ろに迫り、村旗を立て綱を引き下ろし初めた。抑々本二は力弱く初めから前二から圧迫を受け勝ちであつたのである。前二は本二が線路の直ぐ向に本二が居るので綱を長く引く事が出來ず、非常に綱が短かかつたが其でも頑張つて引き下して、坂の中途から少し下位の所にゐる。と、もう後の本三の村旗が崖上に現れ、綱が坂を下り初めた。が、前ののが動かないので落ちないだらうと思つて、宮川渡しを見るべく宮川に向かつた。新聞で見るに、新聞に依るに、此日本三も前三も落ちたとあるから、今日は五本落ちた譯である。
宮川川越しを見るべく宮川に向ふ。途中本一に逢ふ。景気よく動くので、先に失敬して父に言はれた通り向側へ行つて、待つてゐる。本一は家を離れてからは少しも止まらずに一気に川に来て、午後四時川へ掛つて、重々しい太綱を河の中へ投込み御柱は徐々に這上がつたが折柄中河原堤より鬨の聲を作つて前一は曳き來り、双方茲に先陣爭ひを行ひ、河中に揉合つた。前一は四時卅分本一の東方廿間の距離で堤にのぼり、勇士の面々が水深四尺の激流に踊り込み綱を伸ばし木遣り音頭勇ましく曳き出したので茲に本一前一の先陣爭となり、本一で本餘名の面々は飛び込み曳き出しを演じたが男づな女づなが番手に切れたので本一は遂に川に曳き込が出来ず斯て前一の大御柱は、二名の勇士を柱頭に乘せて現れるや「ドシン−」とばかり激流の中に落下し見る間に御柱は川の勇士を乘せた儘向ふ岸に着き五時二十五分前一は向岸に上陸して一番槍の功妙を演じ同卅五分安国寺注連掛場に安着し、千五百の兩村氏子は一齊に鬨の聲に万歳に天も割れん許りだつた。抑々宮川は今迄は土手が低くかつたので、川に直角に渡して、さう困難でもなかつたが、今度はコンクリートで石垣を困めたので中々渡らず、且多くは岸に横に着けて渡す様になつた。尚、川渡の競爭の時には、後から川に着いたのの方が追ひ越さうと云ふ気がある為景気の良いのが常である。
斯くするうちに本二は忽ち川越しの綱渡しとなり前一の渡り場へ飛び込み力一杯ひき出すやそのすきに乘じて又もや後方より突進し来つた前二は本二の場所へ飛び込み、四本の綱が一緒になつて了つた。本二はケンカを避けてか、解散して了つた。今度は本三は本一の下方に突進し來つた。此間何れも廿五分であつた。初は本一・前二の競爭であつたが、其中に本三が来て三本の競爭となつた。
此時景気から言へば、前二が一番よかつたが遂に本一が勝ち、約三時間を費して激流と戰ひつゝ午後七時十分上陸し同廿分二番先陣で注連掛に安着となつた。此三本競爭の時、岸から下りて注連掛の所へ行つて、歸りがけに川岸にあつた家の前で長田優子氏及妹さん達に逢ふ。寒かつたので、日向の所に来てゐたらしい。斯くして、前二と本三との競爭となつたが、本三が勝ち向岸に上陸し、堤を曳き下し注連掛に安着した時に午後七時卅五分。
今迄幾度も歸らうと思つたが、競爭につられ見てゐたが、後前二だけになつたので歸途に向つた。此時はもう暮色蒼然として、電燈が遠近に輝き初めた。停車場に着いたのが七時頃であつてもう少し早ければ六時二十六分のに間に合つたのだが、遅れた為一時間余りも待つて、午後八時三十某分発で上諏訪に歸つた。
新聞に依るに、前二はセメン工事の急石垣に御柱を横たへた儘約一時間を困難し夜遅くなつて八時半漸く安着したがこの比類なき川越しの壮舉を觀んと兩岸堤塘に山なす觀衆は約數万と註せられつなに追はれ堤に轉び安国寺より中河原に至る廣き一帯は人の波を打ち、夜は提灯の海と化し光景は壮絶を極めた。
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四月六日、午前十時五十七分上諏訪驛發で父・母・姉・妹・和郎と六人で御柱見物に行く。茅野へ着いて人に聞くに本四はもう落ちて了つたの事、で後は前四だけ。然し、仕方ないと前四の木落しを見に行く。五日は四日に劣らず觀衆も多かつたが、今日は觀衆も少く、最後の御柱の為觀衆も曳子も熱がない様であつた。然し落とし方は随分上手であつた。八本中一番だらうと言はれた。御柱にめどてこを付けるので手間取り尚泥の中へ入つて了つて尚手間取つたが遂に二時近く木落し上に顔を出した。一体、顔を出すともう後は楽に落ちるのだが、此處で一旦止めた。此は手際の良い所である。見ると、左右のめどてこの綱に人が寄麗(ママ)に付いてゐて、左右の平均がよく取れてゐた。本四は一人も乘らずに落ちたさうだが(一人も乘らないのは此だけ)此には相当乘つてゐた。そこから、徐々に傾かずに引き下ろした。此が上手に落ちたのは、上手にやつたと云ふ事もあるが、御柱の小い事、溝が出来てる事も関する。然し兎に角最後の花であつた。前二などは向かつて左の方へ傾き其方に乘つてる人達は泥まびれになつた。此處で皆で川越しを見る為宮川に向つた。途中で聞くに、本二・前三はすでに渡つて了つたと云ふ事なので何処かで休んで晝食しやうと思つてゐると本四が動き出したので、其処で御柱の平地を動くのを見て、先に宮川に著いて、川のこちら側の岸の影の所で饅頭と菓子とを食つて晝食とす。其中に本四が来たので岸に上つて、見物する。横綱を川岸を曳いて来るので非常に押されて田の方へ下りたりした。其中に前四が非常に急いで来て同じく川へ掛つて競爭となつた。前四の方が景気が良かつたが川下の方の本四が勝ち二分先に上陸した。時丁度午後三時。本四が川へ入る時、御柱と石垣との間に入り、御柱と一緒に川へ落ちて人事不省に陥つた人があつた。後數日にして死亡したとは悼むべきである。
斯くて御柱大祭山出しは終了したので直ちに歸路につき、午後四時五十二分茅野駅発で上諏訪へ歸つた。列車は非常に込み、〆切を行つた程であつた。乘つた者も先世紀の様な車へ牛々詰めにされた。姉や父は空いてはゐたが客車の腰掛けを抜いて作つた牛車兼用の様な奴へ入れられた。可々大笑。
以上で御柱大祭見物記終り。
(一九二六・四・一一)