前書き

 前書というよりは2017年の中間報告です。小松家文書館を2013年の末に立ち上げてからもう4年あまり経ちました。かなりのボリュームのものになりました。いさのの記録、武平の記録、摂郎の記録、子供たちの記録、家について、という具合にいろいろ載せてきました。これを全部読むのはなかなか大変です。一友人は讀めども読めども終わりませんと印象を語ってくれました。しかし、文書館はこれからが勝負です。私は今年2017年、75歳になりました。まず80歳までの5年で明治、幕末とさかのぼり、いよいよ先祖の記録を掘り起こそうと思っています。明治時代の小松米治さんの「惣代日誌」というのがあるのですが、これが字が読みにくく、非常に難儀をしております。むしろ天保時代の方が御家流できちんと書かれていて読みやすい。これはどういうことでしょうか。面白い問題です。
 茅野の家で時折、家の前を流れる小川に三段の石段を下りて行って農具などを洗ったりします。そのとき思うのは、この川の流れは300年前も同じ、先祖もこの私の動きと全く同じことをやっていたはずだということです。そして思うのは明治から昭和にいたる小松家のここ米沢を離れ、転々とした3代の人たちの生き方は何だったのだろうか、ということ考えたりします。これがこれまでの小松家文書館の記録たちがも私にもたらす思いなのでしょうか。私事ですが小松家は私で後が絶えます。祖母いさのは小松家のために5人の子供を生み、育てました。しかし、その次の世代は何故かひどく生産性が低く特に男の方の生産性はまことにさみしいものがあります。このことが私に文書館への思いをかきたてるのかもしれません。私がこの世を去り先祖と来世で会った時、全く面目ないが、何とか先祖の事績をまとめてきたので、これで勘弁してくれよ、ということにするつもりです。先祖たちはよくやったと言ってくれるか、お前は駄目な奴だと言うか。多分代々篤実な働き手であった先祖たちは、よくやったと言ってくれるのではないかと思っています。

小松米治の記録

 小松米治は私にとっては曽祖父にあたる。幕末の嘉永5(1852)年4月生まれで、明治天皇と同い年、没年は大正9(1920)年11月、68歳であった。父は小松吉蔵、母は不三。吉蔵は明治8(1875)年没、母は明治4(1871)年没ということで、米治は20歳代前半で両親に死なれている。兄弟は姉富代(1850年生れ)、妹てい(1857生れ)、弟造之助(1863生れ)の4人である。子供はいさのが一人娘であった。明治38(1905)年、いさのに同じ村の笹岡武平を養子に来てもらう。武平とは大変気が合っていたらしい。その後次々と五人の孫にめぐまれ、孫からも好かれて幸福な生涯であったようだ。60歳ぐらいになると段々体調的に不調になったようで、明治45年には痔の治療のために、大阪で小学校の校長であった武平を訪ねている。大正9(1920)年10月24日脳溢血で倒れ、11月18日死去する。農民として日々の仕事をこなしながら村の有力者の一人として村の公共的な仕事に精出し、また俳句をやったりちょっとした言葉遊びの冊子を作って楽しんだりして公私のバランスが取れた生活であったように見える。
 文書はかなり多くあって、村の役人としての日誌が残っているもので、明治19(1886)年から明治37(1904)年まで8冊、その他手帳の個人日誌が数冊明治43年から大正4年まである。また、『口伝呪集』と題する60ページほどの自作の冊子がある。口伝のまじない的な言葉を集めたものでこういう民俗学的な趣味があったようである。
 農民としては篤農家と言えるだろう。明治26年の第一回諏訪郡物産品評会では米の部門3等、第二回でも4等の賞状を受けている。明治33年には諏訪郡種苗交換会で稲頚状で3等賞になっている。養蚕も熱心に取り組んだようで友人からの葉書にそのことが書かれている。
 人となりにおいては養子の武平が米治の死去の翌年死去50日の折に、「亡父は怒りと泣き言の愚痴を言ひし事なし。子供もも之を称す。」と言っている。写真が一枚あるがいかにも朴訥な風貌が印象的である。亡くなったときのことは、武平、長女澪子、長男摂郎にそれぞれ記録が残されている。

いさのの記録

いさのは私の祖母である。明治15年に生まれ、昭和30年1月に亡くなっている。72歳、今の私の年だ。そうまとまった記憶はないのだが、小学生のころ夏休みに一家で帰省して一緒にしばし生活をする機会があった。孫のことであるから優しくしてくれた。彼女の一生も苦労の多い一生であった。故郷を離れた土地で五人の子供を育て、夫の勤務する学校が変わるたびに転居を余儀なくされ、その夫も松本二中の校長で55歳という若さで悲劇的な死を遂げ、さらに長女が一人息子を生んだあと昭和13年、33歳で結核で死に、戦後はただ一人茅野の家に戻り、農地解放の嵐に翻弄された。また山形から神戸大学へ移った直後の長男摂郎のレッドパージ事件と十年の紛争と失職という思わぬことで心労は大きかった。結局、彼女は茅野の先祖代々の家を守る最後の人になり、そこで一生を終えた。私の父の摂郎は田舎が嫌いであった。しかし、もう一代下がると私のようにしょっちゅう行って楽しむという田舎になっている。そういう事情で孫が祖母の一代記を編纂するということになった訳である。時代は変わるものである。

1.年譜
2.小学校・長野師範学校女子部時代の絵
3.澪子病床日記
4.亡き夫の思出
5.気丈な婦人 強盗を走らす
6.料理レシピ昭和8・9年一覧
7.農地改革への疑問
8.いさの日記 昭和26年(1951)~昭和29(1954)年
年(1953)

9.父母のこと 昭和二十九年二月半 思ひ出の数々
10.いさのへの弔辞 上林てう 1955.1.5
11.手紙
12.いさのアルバム

武平の記録

小松武平は私の祖父である。6尺の大男でどこでも大変目立ったらしい。しかし、気持ちはたいへん細やかで、優しいひとであった。結局最後の奉職の場である松本二中で生徒の美ヶ原で遭難事件が命取りになった。記録をみると今なら死ぬようなことはない腰痛がもとのようである。彼は明治10年5月11日長野県諏訪郡米沢村鋳物師屋に笹岡初右衛門、わかのの二男として生まれた。明治38年米沢村埴原田の小松家に入籍し、いさのと結婚する。同年東京高等師範を卒業、直ちに大阪の新設第四高等小学校の訓導兼校長として赴任する。27歳である。その後奈良師範学校、長野県上田中学、諏訪中学と転勤し、大正12年松本第二中学校長となる。昭和4年松本二中生徒2名が美ヶ原遠足で道に迷い遭難死する。その対策で疲労激しく病臥し、昭和5年9月死亡する。子供は5人長女澪子、次女百枝、長男攝郎、二男醇郎、三男和郎。

1.年譜
2.大阪勤務時の文章など
3.大正10年10月全国中学校長会の朝鮮満洲視察旅行の記録
4.武平大正10年10月全国中学校校長会の朝鮮・満州視察旅行のアルバム
5.浪蕐観と女子日記
6.大正10年日誌

摂郎の記録

小松摂郎は私の父である。名前はウィキペディアでも見られるほどの人物だが、今はそれを見る人もあまりないだろう。専門は哲学で大学でヘーゲルを研究した。
小松武平・いさのの長男である。姉澪子、弟に醇郎・和郎、妹に百枝がいる。明治41年(1908)2月生まれ。
大正14年(1925)一高入学。昭和3年(1928)東京大学文学部哲学科入学。昭和10年(1935)旧制山形高校教授として赴任。昭和24年(1949)神戸経済大学予科教授として神戸へ赴任。昭和26年(1951)神戸大学免官。
昭和34年(1959)東京へ転居。昭和38年(1963)東海大学短期大学部教授。昭和50年(1975)5月喉頭癌で死去、67歳。
戦後神戸へ転居して思わざるレッドパージで失職し、生活苦は長く続き、かなり命を縮めた。これがなければ普通の大学教授として無事一生を全うしたと思うが、諏訪の地主の長男として、母親も勉強さえすればいいという方針であったので、非常時の世渡りはうまくはなく、不遇時代が長くなった。著作は多いがこれというものはなかった。同期に清水幾太郎がいるが、彼の様な才能は無かった。
東海大学に職を得た頃からやや生活の条件も好転し、孫も出来、一息つくことができたことがせめてもの慰めと言えるだろう。

1.摂郎日記
2.神戸大学事件の記録

子供たちの記録

  子供たちの記録という一章をつくることにしたが、時代的には大正8年から12年あたりの頃のことである.ちなみに大正10年は長女澪子は諏訪高等女学校5年(16歳)、長男摂郎は諏訪中学2年(14歳)、二男醇郎は同中学1年、三男和郎は6歳、次女百枝は11歳であった。長女澪子はもう子供とは言えないかもしれない。事実、どうも他の4人の連中とは違う別格のようであったらしい。まず初めは「高島小学校生徒尋常六年生小松摂郎」署名のノートで、これは綴り方の時間での作文で大正8年秋から卒業年の大正9年3月までの25編で、この時間は作文と漢字の書き取りが授業内容であったらしい。当時の子供の作文能力が伺えて面白い。得点と先生の評がある。それと同人の大正9年5月26日から10年6月17日までの日記である。次は大正9、10年の「筆の力」という大変大袈裟な題の「子供會」編集の文集二冊、近所の子供と摂郎、醇郎が中心になって「子供会」を作り、随分多くの文集をだした様だが、現存するのは二冊だけである。次に長女澪子の諏訪高女3年と4年の時のやはり学校へ出した作文3編、大正10年らしい、9,10,11月の日記・メモである。次に次女百枝の女学校時代の学校へ出した作文になる。最後は末っ子和郎の小学生の時の作文がある。
 
 小学生摂郎の作文は途中で放棄したのや、誤字などままあるが、教室の描写や家族の生活のことなど、けっこう面白い。摂郎日記は筆で丁寧に書かれたもので、諏訪中学に入ってばかりの彼の生活ぶりが色々伺え興味深いものである。当時父の武平は諏訪中学の校長であった。この時の武平は伝統ある諏訪中学ではあまり仕事で力を発揮する余地もないという不満があったようで、諏訪湖での魚釣りが唯一の楽しみであったような話を私は父摂郎から聞いたことを覚えている。実際この釣りの話は小学校の作文にも中学時代の日記に出てくる。この頃は小松家は比較的安定した楽しい一家であったようだ。私も父摂郎から諏訪中学時代の話は時折聞いたことがある。大正9年11月18日には摂郎の祖父小松米治が死去している。「木曜午前一時四十五分、常に余等を可愛がられし祖父様遂に此世を去られぬ」とあり、初めての肉親の死に出合ったのであった。
 「筆の力」は一冊は大正9年8月1日発行で第1巻第2號「夏休み號」、もう一冊は大正10年8月31日発行で第2巻第7號となっている。大正9年8月1日発行号には巻末に編集者の名前があり、右からいくと、小松醇郎、小松百枝、福泉精一、中川智也、渡邊朝ニ、小松攝郎となっている。大正10年8月31日発行のには三男和郎が登場し、ちょっと意味の分からない絵を画いており「カヅロー氏筆」とかいてある。これは和郎の自筆かどうかちょっと不明だがヘタな字なので自筆かもしれない。大正9年8月1日発行号には次女百枝が、「ある朝」と「今の様子」という作文で前者は祖父母の住む埴原田での事らしく、「水車がごとごとしずかに動いている」という叙述があり、後者では自分の一家五人がそれぞれ色々に過ごしている様が「ほんとに面白い」と書かれていて、何となくほほえましい文章になっている。
 長女澪子は文集には参加していないが、澪子は下の子供達とははや格がちがう大人的な女になっていて、子供たちの所業には参加しなかったのであろう。諏訪女学校時代の作文3編は全般的に悲しい、さみしいという感情が表明されている。日記も母が病気だったのか母親役をやらされて自分の努力が認められないのを嘆いているのが印象的である。昭和13年33歳で亡くなる彼女の不幸が何となく伺えるような記録にも思えるが。
 小松百枝は次女で明治43年(1910)生まれである。百枝が生まれた当時一家は大阪市東区東雲町に住んでいた。その後武平の勤務先が変って奈良、上田と転居し、大正8年(1919)武平が諏訪中学に転任し、作文が書かれた時は上諏訪町湯の脇に住んでいた。百枝は大正12年(1923)4月諏訪高等女学校に入学、昭和2年(1927)に卒業する。ここで記録する学校に提出した11編の作文は諏訪高等女学校時代の物である。諏訪高等女学校の用箋で書かれたものが、7編ある。「九月一日」、「私の名前」、「繪書きのみち」、「なべの下」、「夏のえんがは(夜)」、「心持ちよき朝」、「淋しい夜」で、そのうち、書かれた時が分かるのは「九月一日」が「第一学年二部」とあり、これは関東大震災の諏訪での様子を書いたもので、諏訪高等女学校に入学した年で、大正12年である。「私の名前」には「二年一部」と書かれているので、大正13年であることが分かる。全部に教師の評がある。その字から判断すると、「私の名前」と「なべの下」が二年の時、で他は一年時ということかもしれない。
 こまごまとした家庭の状況が書かれているのも面白いが、「繪書きのみち」では朝鮮人が追いかけてくるという恐怖心が書かれていて、震災の時の朝鮮人虐殺を連想したが、諏訪あたりでも朝鮮人への偏見が強くあったのか、調査研究が必要であろう。「言葉」では母いさのが「おまえの悪いくせ」だと言って長男の摂郎を叱るところ、なかなか興味深い。母いさのの存在感がこれらの作文でよく分かる感じがある。

1.六年生の作文(摂郎)
2.大正九年日記(摂郎)
3.大正十年日記(摂郎)
4.筆の力
5.作文と日記(澪子)
6.作文(百枝)
7.作文(和郎)