明治35年5月23日、皇太子(後の大正天皇)は長野県師範学校に行啓する。その際、学校が皇太子に送った生徒の書いた絵の画冊にいさのの書いた物も採用された。彼女はそのことに感激し、以下のような文章を書いている。両親にあてた手紙のようだが、残念ながら欠損があり不完全だが、歴史的資料として記録しておく価値はあろう。

 

一枚目

一筆申上候いつしか春も過きはて青葉のかげなつかしき頃と相成候ところ御両親様には御変りもあらせられ候ずや御伺申上候次に私事いつに変らず無事まかりあり候間はばかりながら御安心下されたく就ては先日は御入湯に入らせられ候ところ其為何の御変りもなく道中無事目出度御帰宅遊バされしよし何よりの御事と御よろこび申上候

只今ㇵ植付前にてさぞさぞ御多忙の御事と御推し申上候私どもに田植等無き変りに追々試験も近より来りそれが為に心せわしく暮し居り候

も早や御承知の事とは存じ候へども此度皇太子殿下の行啓につきてくはしく御話申上候殿下には群馬県の方より去廿一日当地に御着あらせられ候其日皆停車場迄御出迎に参候殿下には御研学の為に入らせられ候御事とて誠に御質素を旨とせられ御召物の如きㇵ御一行(一枚目終了、続き不明)

欄外(粗末なる習字二枚入れおき候 まゝ御覧なされたし)

 

二枚目

第一とお(破損) 多くの人々(破損)られてお答へを遊バされ候翌二十二(破損)松代に行啓あらせられ川中島より妻女山等の古蹟を御さぐり遊バされ候 翌二十三日には当師範学校へ入らせられ候当市にても中学校。高等学校。長野学校等。多くこれあり皆準備に手をつくして御待ちうけ申上たるに行啓あらせられしㇵ当師範学校のみにて殊に御みづから我等生徒の授業を御覧遊バされ候其の教室数十個体操場へ二回理科標本室等へも入らせられ候幸にも私どもㇵ裁縫の授業を御覧遊バされいと近く僅か一間許の間にて拝し奉り候かゝる事は又と得難き有難き事と存じ上候以上のみでさへあるに其上に尚当校へ金一百円御下賜これあり重ねがさねの幸栄(ママ)実に何とも口にも筆にも表す能ㇵず候其節御休啓(ママ)所に飾りつけて御目にかけたものㇵ本校教諭浅井先生の作になれる

 

三枚目

殿下行啓のことほぎ(ことほぎ傍線あり)の歌及び信濃国の歌当師範学校生徒の作画長野縣殊(トクの読み仮名)産の植物 各小学校作書画などに候其中にて獻上を許されたるものㇵ浅井先生の歌及び本校生徒の作画に候此生徒の作画ㇵ生徒の平常かきたるものの中より撰び全校生徒四百人許りの中にて十七八人の作画を以て画帖をつくりたるものに候実に恐れ多くも有難くも其中の一人に私も入る事を得申候あゝ此れㇵかしこくも九重の奥深く御持ち返り遊バさるゝものにて誠に我等の身に余る幸栄(ママ)只々涙にむせぶより外これなく候何卒御両親様にも一編のゑみ(ゑみに傍線)を御もらし下され度く候廿四日には殿下の当地をお出発遊バさるる事とて又前の如く皆々御送り申上げ候 あゝ未来の天皇陛下とならせ給ふ貴き御方に実に親しく三度まで拝し申候

何やかやうれしさ有難さ心にみちみちて(以下遺失)