前書
摂郎の日記は大正9年からある。9年、10年は半紙を自分で綴じて日記帳を作り書いている。諏訪中学の1,2年である。これは「子供たちの記録」にコピーで出してある。そして大正13年(1924)の元日に日記の欄外にこう書いてある。「今年で日記帳を使ふのが三年目である。年はよく書いたが、昨年は百五十六日書いただけだ。英語であったから。今年はもう三年目であるからよく書きたい。」ということで、大正11年から日記帳を買って書き始めたことになる。この年は諏訪中学3年である。大正11年の日記は非常に几帳面な楷書でかいてある。よほど気合を入れて書き始めたようである。しかし、9月あたりから書体がやや崩れてくる。また風を引いたりすると字が乱雑になるようである。大正11年から死ぬ1975年まで書き続けた。日記をつけるという作業は摂郎にとっては完全に習慣であり、楽しみでもあったようだ。1931年3月31日の日記には「日記も十年近く書いて来ると、書くは樂しみで腹ふくるるのが治り、書かぬは苦痛である。」とある。戦後の4年間は日記帳が発売されず、やむなくノートに(11冊のノートの内、7冊は学用ノート統制株式会社なる会社の発行物である)書かれてある。死去の一か月前まで書き続けられ最後の日記は1975年4月1日で、衰弱のためミミズがのたくったような字で、判読が困難だが、「陽子ひろこ来る」のように見える。これは喉頭癌のため食事がとれず、衰弱しきって町田中央病院に入院してから一週間後のことであった。2015年7月現在で入力済の部分は1926年から1931年までと戦後の1945年から1959年までである。さしあたりこれを公表した。
1926年は摂郎一高の2年に進む、1931年は東大哲学科卒業の年である。卒業後、大不況の時期、就職は出来ず、大学院に進む。その後大学院を出て東大の副手をしたりしたが、1935年に山形高校教授の職を得て、山形に赴任する。山形には1949年まで務め、その後神戸大学予科教授として神戸に移住する。そこでレッドパージで大学を追われ大変な苦労をすることになる。神戸大学への復帰はどうしても進まず、大状況の転換と自分の復帰を直接結び付けるしかできない状況が日記にはみえる。万策尽きて、東京へ移転するが、なかなか苦境を脱せない。1962年東海大学短期大学部から話があった。最初は名前だけ貸せという失礼な話だったが、なにはともあれ職に就けるのはありがたいので受けて、そのうち講義もしてくれということになった。1968年町田の公団に入れることになり、やっと住宅問題が落ち着いた。神戸大学追放はいかにも摂郎一家には被害甚大であった
大正15年 昭和1年(1926) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和2年(1927) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和4年(1929) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和6年(1931) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和20年(1945) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和21年(1946) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和22年(1947) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和23年(1948) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和24年(1949) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昭和25年(1950) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
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昭和27年(1952) 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
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