前書

この摂郎の日記を全部公表するつもりだが、大正11年、一高生時代から死ぬ1975年まで書き続けたので、並大抵の量ではない。日記をつけるという作業は摂郎にとっては完全に習慣であり、楽しみでもあったようだ。1931年3月31日の日記には「日記も十年近く書いて来ると、書くは樂しみで腹ふくるるのが治り、書かぬは苦痛である。」とある。戦後の4年間は日記帳が発売されず、やむなくノートに(11冊のノートの内、7冊は学用ノート統制株式会社なる会社の発行物である)書かれてある。死去の一か月前まで書き続けられ最後の日記は1975年4月1日で、衰弱のためミミズがのたくったような字で、判読が困難だが、「陽子ひろこ来る」のように見える。これは喉頭癌のため食事がとれず、衰弱しきって町田中央病院に入院してから一週間後のことであった。2015年7月現在で入力済の部分は1926年から1931年までと戦後の1945年から1959年までである。さしあたりこれを公表した。

1926年は摂郎一高の2年に進む、1931年は東大哲学科卒業の年である。卒業後、大不況の時期、就職は出来ず、大学院に進む。その後大学院を出て東大の副手をしたりしたが、1935年に山形高校教授の職を得て、山形に赴任する。山形には1949年まで務め、その後神戸大学予科教授として神戸に移住する。そこでレッドパージで大学を追われ大変な苦労をすることになる。神戸大学への復帰はどうしても進まず、大状況の転換と自分の復帰を直接結び付けるしかできない状況が日記にはみえる。万策尽きて、東京へ移転するが、なかなか苦境を脱せない。1962年東海大学短期大学部から話があった。最初は名前だけ貸せという失礼な話だったが、なにはともあれ職に就けるのはありがたいので受けて、そのうち講義もしてくれということになった。1968年町田の公団に入れることになり、やっと住宅問題が落ち着いた。神戸大学追放はいかにも摂郎一家には被害甚大であった

 

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