昭和二十九年二月半 思ひ出の数々
母ㇵ豊平村宮原から嫁して来た人でした 其母の父なる人
私にㇵ祖父に当る人髪の毛が白く(長命なりしならんか)て
私が見れば泣いたそうですから いつも来訪しても障子を
細目にあけてのぞいて見て帰つたそうでした祖父の面影少しㇵ覚えて居ます
小さい時にㇵ母の床の中に だいてねて貰つて居たが母か朝早く
起きる時にㇵ父の床の中へ移つた事を覚えて居ます こだつ
にㇵ誰もねず沢山に夜具ふとんをかけてねた様でした
祖母なる人(宮原の)の面影も少しㇵ覚えて居ます
自宅の祖父母ㇵ早く死去せし由にて何も知らず
遊びに出て 帰宅して(四五才なりしか)誰も居らず家のまハりを
大きな声で泣き歩きし事を少し覚えて居ます
六七才頃か 毛糸を沢山買つて貰ひへそ巻にて置きしに
友たちが来て 私の見ない間に中から引つ張り出して持つて
帰つた事も有りました
親子三人でした 色々御馳走を作つてㇵ食べた様でした
父がうまいものㇵ小勢で食へ仕事ㇵ大勢でやれ等
とじよう談を云つたのを覚えて居ます
八才の四月入学 父につれられて行つた様でした とてもゑ
らくなつた様に思ひうれしく すまして行つた様でした
行つた順か席順でした 九人入学で最後の九番でした 一学期の終り
だと思ふが何か試験でも有つたですか 一番になりました
それからずつと一番を通したと思ひます 二年生から北大塩へ
通つたです男女一緒でしたがいつも一番でしたと思ひます
叔父造之助氏分家したのですが 私の覚えの有る頃迄同居して
居た様でした 叔父の長男秀三氏ㇵ二つ位年下なりしがよく遊ん
だりけんかしたのも覚えて居ます 新やの倉を新築して其
かべ塗り 大勢の手伝ひが来て大さわぎでやつた様でした ねんど
を丸めて下に居る人に投げる事もお祝ひの意味ですか やりました
私も一つ投げつけられた事を覚えて居ます
分家ㇵぜいたくぶしんと云ふ様で沢山の人手伝ひに来てくれて
内の奥十畳 三間に二通りに御馳走を並べて一日に二度
づヽ接待をしたよし母ㇵ其苦労を思ひ自分の方ㇵふしんを
仕様と思ハなかつたと話しました
亡母ㇵ私始め親類の小供大人等が何かよからぬ事を
仕出かした時 悪るい事をしたと叱る事ㇵ決してなかつた
間違ひだわいと云ひ それておしまひ 人がいろいろとよからぬ事
を云つたりしたりする事を聞いても あの人ㇵ悪人たとかいやな
人とか等云ハず 性分だわいでおしまひにする
人の噂をしたり悪口を云つたりㇵ一寸もしない人でした
学校の無い時に育ち 何も習ハせて貰はなかつたと残念かりました
母の叔母なる人ㇵ昔でも裁縫が上手で人の上等の衣類ㇵよく縫つて
居たが そのそはで遊んて居つて教江様とも習はうともしなかつた
昔の人ㇵ馬鹿たつたと幾度も聞かせられました 私がいろいろの習ふ
事にㇵ賛成してくれました とうして習ひしが 平常の衣類ㇵ結構
立派に仕立てた様でした結婚祝タン生祝等にㇵ立派に仕立てヽ上げ
た様でした ハタ織は興味も有り上手にやり冬間には沢山織り上げ
た様でした 木綿のふとん地ㇵ勿論つむぎじまも立派に織りました
まゆの非常に値の下つた時か有りました そんな時にㇵ 本まゆも売
らず糸にして節なしのつむぎしまを織りました今も有りなつかしいです
私等大阪に居る時も其後も 主人の着物 羽織 私の衣類 子供の
衣類等沢山織つてくれました白生地ㇵ染めて 澪子 百枝の着物羽織
にしたり横に太りを使つた縞も有り 今も其布ㇵ残つて居ます
母はおせ志は云へない人でしたが親切心ㇵ有りました 村の伊藤家へ嫁した
叔母はやかましい人でしたがよく来ました身体に故障の有る時にㇵよく
内へ来ました母が一生懸命手当をして上けて居た事を見ました
叔母ハ性質ㇵ至つてよかつたがにぎやかの人でした田村源衛氏辺迄来る
と大きなよい声であいさつしたり話したりして来るので内によく
判り(ワデノオバサマ)が来ると云つて居るとすぐに来ました
昔は婚礼や葬式法要迄隣家迄招いたり手伝つたりしました
(現在も葬式丈ㇵ手伝ひますが)母ㇵ子供ㇵ一人きりだし 役に立つたのでせう
隣家親類等に客よせの有る時ハ早く手伝ひに行き 勝手元を
引き受けて切りまハして居ました
わかし湯ㇵきらひ云つて家の水風呂に入つた処ㇵ見ませんでした 上諏訪の松の湯
が身体に合つてよいとよく上諏訪迄入浴に行きました 又小*の鹿教湯
中気の湯と云ひぬるい湯でした 毎年正味一週間位入浴に行きました 三十年位つヾけた
と思ひました
農家の主婦なれとも殆んど農耕にㇵ出ず八月(ヤツキ)の雇女ㇵいつも居ました
足が冷えると云つて夏でも白足袋をはいて居たのて有名でした 朝起き
るから足を始め諸方へ灸をす江肩へㇵ私がす江て上げましたアンマ
にも通ひ私もよく肩をもみました 食物に栄養を取る事にㇵ熱心で
雞の骨アラ等上諏訪の島梅から五六羽分一背負ひ買つて来て
大鍋で煮出しスープを沢山飲みました 売薬も色々飲みました首より
上の薬を始めいろいろ買つて来て飲んで居ました 七十三才位でしたが
父死去 それ迄も其後一二年養蚕をして居ました 養蠶はすき
でした平素身体についてどこが悪い こヽか悪いと云つて居ましたが蚕が
出ると我然元気が出て面白いらしくやつて居ました 亡主人ㇵ此母の為めも
考へて家族ㇵ長く上諏訪に置きましたが其内に松本へ主人か転任した後
も上諏訪に長く居りました 松本へ家を移してからも母ㇵ時々行く位でした
松本市へ一人出で道に迷ひやつと帰つた事も有りました 主人に死なれ
るㇵ非常に力を落し気の毒でした 主人の死去の年の十月でした
か皆で上京母にㇵ三越を見せて上げるからと云つて東京へつれて
行きました四月頃諏訪へつれて帰るつもりでしたか 三月から病気か出て
四月東京で死去気の毒でした
八十八才位迄ㇵ大丈夫と皆思つて居ました 三月病気か出て下古田
の姪よし江さん看病に来てくれて有り難かつたです よし江さんが
もうすぐだから早く病気をなほして八十八の御祝迄生きなくてㇵ
と云ひました時に友だちの名を沢山上げてみんな死んだ わしも
もうお沢山だと云つて居ました八十六才でした 諏訪の家に居た
ら八十八才迄生きられたかと残念に思ひました