武平は大正10年10月4日から22日まで全国中学校校長会の朝鮮・満州視察旅行に参加している。その視察旅行で求めた絵葉書が300枚ほどきちんと整理され、3冊のアルバムに収納されている。そこには行程地図、都市間の距離と汽車による所要時間のメモもある。

この視察旅行は関連資料がなかなか見つからず困っていたのだが、ふとしたことから『満洲日日新聞』『京城日報』という二紙が当時、奉天、京城(今のソウル)で発行されていたことが分かり、勇躍国会図書館へ行き閲覧した。そこにかなり詳しくこの中学校長たちの朝鮮・満州視察旅行についての事が出ていた。そこから得た知見をもとに朝鮮・満州視察旅行についてちょっと詳しい報告をつくろうと思うが、これはこれからの宿題にして今はまず家に残された絵葉書を紹介することを急ぐことにする。しかし、簡単に『満洲日日新聞』『京城日報』によるこの朝鮮・満州視察旅行について書いておく。

『京城日報』には朝鮮・満州視察の「中学校長團総員93名」とあり、全員の名前と所属中学校の名前がでている。この93名には朝鮮、満洲、台湾、青島の校長が含まれている。このあたりがまさに時代を表すものである。大人数なので、全体を15班に分け、これを二つに分けて、京城到着6日夜と7日朝に分けたらしい。ここに不思議なことに小松武平の名前がないのだ。これは如何なる手違いか今となっては調査の方法もないが、不可思議である。ちなみに長野県の中学からは、松本、上田、飯山、長野の校長が名前が挙がっている。長野県の中学で諏訪中学の校長を落とすというのはちょっと考えられないことではある。

当時、満洲朝鮮へ視察に行くということはいかに大変な仕事だったかということは、まず府立一中校長が団長になったのは当然だろうが、その川田校長は京都で体調不良になり、ここで帰京せざるを得なくなる。ちなみに当時名古屋・神戸間は7時間半かかっていた。次の団長広島中学の弘瀬校長は奉天で脳貧血を起こし、病臥する。三人めに神戸三中川田校長が任務を遂行することになったことからおおよそ予想ができる。小松武平も記録によれば奉天で病臥したらしい。叔父のはなしでは何でも便秘であったらしいが。

全国中学校校長会の朝鮮・満州視察旅行の行程だが、大体以下の様であった。

10月6日釜山着
10月6、7日京城着。
10月9日夜、京城発奉天へ。
10月10日~14日奉天。撫順を参観。
10月15日~18日大連
10月19日 湯崗子、鞍山、長春、哈爾濱へ行き、その後は一部は帰国、多くは北京へ行き、一部は青島、南京、漢口へ足を延ばす。

全国中学校校長会の朝鮮・満州視察旅行は90人以上という大部隊であったが、大正10年10月8日『京城日報』で、団長の広島中学校長弘瀬時治は以下のように語っている。

全國校長会議と云ふのですからドンな大會議が初まるのだらうかと一般の視聴を引いているやうでありますが内容はさう大袈裟なものではなく朝鮮殊に満洲を視察しやうと云ふのが其主目的になっています。

奉天の会議が主な行事であるが、そこにおいて何か重要な決定がなされるという訳ではないと言っている。大正10年ではこういうのんきなことが可能であったようである。

旅行中の主な会議は以下のようであった。

10月8日京城の朝鮮ホテルでの朝鮮総督府主催の講演会。
10月11日奉天の満鉄小学校講堂での8項目の議案可決。
10月13日奉天教育庁長謝蔭昌教育会長戴裕沈主催歓迎会

家族への手紙

諏訪の家族あての手紙があるので、これで旅程を少し検討できる。

1絵葉書「奉天城門と城郭」これに「大正十年十月十一日、満洲第一報」とある。宛名は「長野県諏訪市上諏訪町 小松武平宅 一同」発信は「南満洲安藤恭平氏宅 小松」文面は「十日奉天に入る。此日内地拾月初めの気候なりしに今日は拾月終の気候となる。新奉天は盡く石造煉瓦造の西洋風建築なり。日本人にて木造家屋に住む者一人もなし。オー緑江一筋にて朝鮮と支那と分く量なり。十分にて白衣米作の国より黒衣■ツヤウの国に入る。林檎も栗も日本よりウマシ。」

2絵葉書のキャプションは「南満洲湯崗子温泉玉泉館ト淸林館ノ一部」宛名は「長野県諏訪市上諏訪町 小松武平宅 一同」発信は「満洲鞍山 小松」絵葉書余白に温泉の説明が「大正十年十月十九日 此満洲に多量ニ熱き湯の出づる事想像外なり 家の宏大美麗内地に見られず」文面は「十月十九日営口へ行った 港は遼河河口七万ば可り人口のある所である遼河は蒙古一円の水を持ち來す濁流の大河である 旅順以来風に吹かれて口も目も砂だらけである昨夜は此湯崗子温泉へ有った日本には見られぬ美しき温泉である」

旅行から持ち帰った資料一覧。

絵葉書の他に各地でその地の資料などをもらったものが残っているので、書き出しておく。

統計便覧 大正十年 朝鮮総督府
普通学校教科書編纂趣意書 第一編 大正五年六月 朝鮮総督府
中學校長歡迎會 有志名簿 (仁川府) 大正十年十月九日(ガリ版刷り)
南滿中學堂奉天中學堂一覧表 大正十年十月調
京城工業專門學校規定竝學則
旅順案内 大正十年六月廿日訂正発行 旅順市青葉町三四 山縣文英堂
關東廰學事一覧 大正十年 關東廰内務局學務課
營口事情 全 大正九年五月二十日 營口實業會 A五判 312頁
輸入貨物品名別表(明治四十一年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸出貨物品名別表(明治四十一年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸入貨物港別表(明治四十一年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸出貨物港別表(明治四十一年中) 埠頭事務所 (一枚表)
大連港出入船舶隻数及乗客員数表(大正二年中) 埠頭事務所(一枚表)
大連埠頭著離汽船国籍別表(大正二年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸入貨物品名別表(大正二年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸出貨物品名別表(大正二年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸入貨物港別表(大正二年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸出貨物港別表(大正二年中) 埠頭事務所 (一枚表)
大連埠頭著離汽船国籍別表(大正五年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸入貨物品名別表(大正五年中) 埠頭事務所 (一枚表)
大連港輸出貨物品名別表(大正五年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸入貨物港別表(大正五年中) 埠頭事務所 (一枚表)
輸出貨物港別表(大正五年中) 埠頭事務所 (一枚表)
大連港出入船舶及乗客表 関東都督府海務局調査 埠頭事務所(一枚表)
沿線写真帳 大正八年四月 満洲日日新聞社
各小学校児童数竝ニ出席歩合表 大正九年下半期分及一箇年平均 (一枚表)
各小学校尋常科児童竝ニ出席歩合表 大正九年下半期分及一箇年平均(一枚表)
会社付属地小学校児童保護者府県別及学校別 大正十年三月末調(一枚表)
会社付属地小学校児童保護者職業別及び学校別 大正十年三月末調(一枚表)
支那人朝鮮人教育各学校在籍児童数竝ニ出席歩合表 大正九年下半期分及一箇年平均(一枚表)
小学校尋常科児童入退学調査表 大正九年下半期分及一箇年平均(一枚表)
小学校高等科児童入退学調査表 大正九年下半期分及一箇年平均(一枚表)
中等学校、専門学校生徒数竝ニ出席歩合表 大正九年下半期分及一箇年平均(一枚表)
実科女学校生徒数竝ニ出席歩合表 大正九年下半期分及一箇年平均(一枚表)
中等学校、専門学校生徒数竝ニ出席歩合表 大正九年上半期分(一枚表)
実科女学校生徒数竝ニ出席歩合表 大正九年上半期分(一枚表)
幼児運動場幼児数数竝ニ出席歩合表 大正九年下半期分及一箇年平均(一枚表)
通俗読物編纂趣意書 朝鮮総督府 大正九年十月
新施政と教育 朝鮮総督府学務局 大正十年五月
日支人共同生活と満蒙文化開発案の提唱 南満洲鉄道株式会社学務課 飯河道雄 

3冊のアルバムをA、B、Cとして分けて置く。大体旅行の順序で整理されているようだ。

Aは釜山から始まり、京城、朝鮮風俗、奉天、旅順、大連、大石橋、営口、湯崗子温泉、鞍山、遼陽で、Bは吉林、哈爾濱、後は支那風俗絵葉書(満洲、支那、蒙古)、撫順、四平街、Cは北京の名所、古物陳列所の絵葉書、長春、蒙古となっている。なかにはかなり歴史的な価値の有る物もありそうだが、おいおい調べてみたい。

アルバムA
アルバムB
アルバムC