作文について

25編の短文がある。大正8年9月から大正9年3月までのもの。上田から諏訪へ引っ越して高島小学校へ
転校した直後からの作文。大正8年10月14日の「思ひ出」に「青島かんらくかんらく」という件がある。
こういう号外がでたという。これは大正3年10月31日から11月7日に至る第一次世界大戦で日英連合軍が
ドイツ領の青島を攻略した事件で、連合軍の勝利の号外が出たのであろう。一家は明治45年大阪から奈良
に転居する。大正3年は摂郎8歳。号外がでたのは8日か9日だろうか。まだ確認していない。
11月18日に「弟の病」という作文がある。『小松武平追想録』には大正8年7月に「三男和郎腸カタルにて
危篤に陥る」という記事があるがこれは10月の誤りであろう。大正5年7月には「次男醇郎疫痢に罹り危篤に
陥る」という記事もあり、当時は幼児の病気が多かったことが伺われる。摂郎も一生体の不具合には悩まされ
つづけた。一家中どうも体には恵まれなかったようである。大正9年3月16日の作文は「春」と題して小学校
卒業の思いが書いてある。

作文

高島小學校生徒尋常六年生 小松摂郎
ひよこの死    九月二十六日

この間家のひよこが死んだ。其の時家には女中と妹が居ただけだ。父と姉は學校へ、母は矢ヶ崎使に僕と弟二人は魚つりに行つてたるす中だ。僕等のかへつた時には外のひよこはおやとあそんで居たのでかぞへもしなかつたからわからなかつたからわからなかつた。その中に弟はひよこをすの中に入れてしまつた。母がかへつて来て弟に「ひよこは皆いるかへ」ときいた弟は「一匹たりない」と言ひながら平氣でざつしを見て居るのん氣なやつだ母は「それはいけない早く見つけなければいけない」と言ったそこで皆で見つけたその時はちやうどおぢい様もおばあ様もかけのゆへ行かれた後だから母は大へん心ぱいされた。ねこかなにかに取られたのならだいたい羽根がおちてるはづだけれどなきもしなくていくら羽根も見つけても見あたらないその中に母が小便所から死體を見つけ出した母は「かはいさうだからはかをこしらへておやり」と言はれたので僕等ははかをこしらへてやつた。(終)

魚つり   六月三十日
 僕は弟と二人で父につれられていもじやへ魚つりに行った。とちうで弟ははりをきつてしまつたいもじやへつくと今日は日曜日だから子供が大ぜいあそんで居た。はりをきつてしまつたのでいもじやでははりをかしてくれた。それからいもじやの人とつりに行つたがいもじやの人が一つつつをだけあまりつれなかつたからかへつたそれからかへりにはつりながら来たが一つもつれなかつた。(終)

(注:大正8年6月13日 上諏訪町湯之脇二三七に移る)
こんどの家    七月四日 雨
 僕等はこの間上諏訪へ來たこんどの家はせまいがすぐそばのひろい家があくまでそこに居るのださうだ父と母とが話をして居るのを聞けばじきあくやうな様子だ母はそれでもそれも病気にならないでけつかうだと言うて居る、僕は奈良に居た時は大へんよわかつたが上田へきてからは大へんじやうぶになつた上諏訪の家は内湯があつて毎日一度づつゆにはる(ママ)から大へん氣持ちがいい

大水    七月八日
 二日降りつゞいた雨はつひに大水となつた僕が學校からかへつて家に居ると家も者が皆學校からかへつてきてどこだかは大人のこしまであつてそっちの方の者は家へかへられないと言つてこまつて居るなどゝ話をしだした父は中學の者は皆しりまくりをしていつてしまつたと言はれた。夕方五歳の弟が氣車を見に行きたいと言つてくざつたので僕は弟をつれててい車場へ行つたていしやばには至急ほうちちとして小野とたつ野の間が不通になつたとかいてあつた それからいくらまつてもなかなか氣車がこなかつたので家へかへらうと弟に言ふと「なんちゆつたつて一つ見なければかへらない」と言つたのでていしやばの時計を見ると後三十分ばかりで五時四十九分のがくるのでその氣車がくるまでまっていたその中に氣車が來たのでかへらうと弟に言ふとでるまでと言つたので出てからかへつた。家へかへつて氣車の不通になつた事を父にはなすと「あつちの方からくる者はこまるぞ」と言はれた。

魚つり    七月十一日
 私は昨日父と弟と三人で魚つりに行つた 行つたばかりにはさっぱりつれなかつたが日が西の山へかくれてからは大へんつれるやうになつた 私か一生懸命につりながらたくさんつれゝばいゝと思つたその中にどこかの人が来てつってあるさかなを大ぶくれたそれから父が十匹私が八匹つつてから家へかへつたもらつたのは十五匹で皆合はせれば三十三匹である母は一匹か二匹よりつれないと思って居たと言つた

魚つり    八月一日
 昨日私は父と弟と三人で三またへ魚つりに行つたしかし三またはもうちっともつれなくてただ父が一匹つれただけであつたおまけに弟は糸をさきからきり私は針を二度までもきったりしたのでこんどはそのまづうつと下へ行ってつつた。下へ行って見ると今に雨がふりさうであったからたいへんつれて父はもう七匹までつつた。私はまだ一匹もつれないその中にぐうーとうきがしずんだから上げて見たらぷらぷらとあかずの大きいのがつれた 私はその時大へんうれしかつた。しかし父はそれからもいくつもつつてもう十匹以上つつた 私はまだ一匹もつらないその中に雨がすこしふつて來たがまたやんだのでつりはじめたが又ふつて來たのでいそいで家へかへつた
 家へかへつてからかぞへて見たら十七匹あつたその中私は一匹つっただけであつたのでしやくにさはつてしかたがなかった

めりー    八月十日
 めりーとはとなりの犬の名であるめりーはまだ子であるあたゝかな日に私の家のえんがわから顔を出してなにかほしいやうなかかをして居る 私等が魚のほねなどをくれゝば尾をちぎれる程ふつてよろこぶ たべてしまふとこんどは前足だけをえんがわへのせて入いつて來そうな風をするけれどもまだ小さくてのぼる事ができない めりーはかわいので皆このくらいで大きくならなければよいなどと言う

 八・九・二一
我教室
 我教室は學校の約中央にある 教室の西の方にトバンが二つきちんとならんである 兩方のトバンに前の時間書いた算術がのこって居る、上の向つて右の方には年代■がかゝげてある東がはの後の方には■畫が六枚はってあるが皆何れもうまい北がはには中央にまどが三つあいてある。南はまどで火あたりがよいまどからは新かうしやの家根や遠くの山が見へる先生は今萬年筆で何か書いて居られる 生徒一同は今綴方を一心に書いて居る 三十分のたいこが鳴った 先生は「話をしてはいけないと言って出て行かれた」僕の附近には一ぱい鉛筆のけづりくずがちらばつて居る
よくかけて居る、終りの方がよいと思ふ。(注:先生の批評)

四賀との野球
 時は九月の二十九日午後三時空はどんよりと曇って今にも雨が降りさうであるこの時上諏訪對四賀の野球戦のつづきは行はれた 昨日一点敗けて居る我技せん手はそれは取りかへさんとて敵を攻撃し初めたが四賀もなかなかかたく守りて我軍苦戦をしたれども点をなすあたはず終に交代となった 我軍もやすやすと敵を上げる様な事はしないその中に四回になったしかし四回も我軍得点なく前のまゝ二對一であるさあこんどは我軍最後のふんとうをなす五回が來た ■四賀はこんどあげなけれは優勝するのであるから一生懸命に守る我軍も今あがらなければならじとせめるしかし四賀は実力あるのか遂に我軍は二對一にてふたゝび無ざんの最後をとげたそれから閉會式があって我等は我家へとかへつた。

八・一〇・三
夕景色
 大やうは今にも西の山へぼつしさうである。湖面は赤くひかって金の波が立って居る。かうもりがあちらこちら飛びあるき日は西の山へぼつした家々では雨戸をしめ初め汽車もねむさうの音を立てて下諏訪へ下諏訪へとはしつて行く。あたりはもう大ぶくらくなつた。風はヒューとあたりをはらつたと共に草木はサワサワと波はベチョベチョとものすごい音を立てた 今しも汽車はえきえついて上諏訪上諏訪と言ふこえがきこえる。我等は我家へ我家へともどった。

八・一〇・七
出発の朝
 東の空が白白と黒いまくは上った。空は今日もわつとばかりに泣きさうである。我のは停車場へといそいだ停車場には最早大ぶ友の顔がみえた。校長先生もその他の先生も皆晴々しい顔をして居られる。その中に追々顔が揃ったのでならんだがまだこない者が少々あるので少しまった。困ったはるか北方の山は我等一行を困らせん雨がしとしとと降って居るしかしそんな事を氣にしては居られる ちこくをする者を待たづ我等は出発した此時母は心配して僕にかうもりを持って來てくれた。その中に北へ北へと長ひ列をなしてゐさみにゐさんで一行は出発した。此時だけはさすがいぢ惡のはるか北方の雨も泣くのをやめて我等一行をよろこんで送つてくれなければならなかつた。これに力づいて我等一行は北へ北へ長く長く進んで行つた。
よし。

八・一〇・一四
思ひ出
(一) チリンチリンチリンと何かのがう外が來た。何だらうと拾ひ上げて見れば初の所に大文字に「青島かんらくかんらく」としるしてあつた 私はハツとむねをおどらしながら母の所へ持つて居つて私は外へ出て見たらあちらでもこちらでも自転車や車へ一ぱいはたなどをつけてあたりをまはりながらよろこんでゐた。それから次の日學校へ行くと主事先生に戰に勝つた話をきゝ明日ははた行列だと言ふのではたを二つもらつて家へかへり朝は早く起きて先生及友達と奈良市中を全部まはり若草山へ行つて萬歳を三唱して各我家へかへった。
(二) 私と姉と妹と弟との四人で裏山へきのこを取りに行った たくさんできて居る所へ行つてすこしつんで居た どこからともなく一匹の荒犬が飛出して私等へとびついて來た 妹はもう大ごゑをだして泣きだした 弟はどこへ行つたかと思つて見るとちやんと木のかげへかくれてのぞいている私は下の方へどんどんにげ行った 姉はそこらじゆうにでまはつて居るその中にそとの人が來て犬をおつぱらつてくれた。

八・一〇・二一
後一分間
 ピーと音を立てゝ氣車はちのえきへついたやうである。私はこの間の日曜日に米澤へ行ってかへりがけである停車場まではまだ大ぶあるの最早氣車は來た。私はもうおくれると思ってゆつくりあるいたが停車場が見えるやうになっても氣車がまだ出ない。よく見るとすれちがいであつたからだ大ぶ近くなったがまだでないので私は少しとんで行った今にも出さうであるこの氣車におくれたら一時間もまたなければならないもう一度米澤へかへつても一里あるから二時間かゝるそれはとてもだめだ私の胸はドキドキした こんな事を思ひながらきつぷを買ってからのつた 足をかけるが早いかピーと言ふきてきの音とともに氣車はゆるゆるうごき出した私は一時間またないでよかつたと思った。後一分間でもうおくれたのであるそうすれば一時間またなければならない 私はこんな事を思ひ出した。氣車は■に黒えんをはいてガタガタと上諏訪へ上諏訪へとはしつて行く 私の胸はやうやうおさまった。

八・一〇・二九
きのこがり
 此間の日曜日に私はきのこがりに行つたいもじやの親類の人につれて行ってもらった一日じゆう取って居ればいゝが上諏訪へかへらなければいけないから取った時間は少しであったさて山へ入って大ぶさがしたがきのこなどは一つもないあまりないから少し奥へ行った奥へ行ってかやの根元を分けて見たら栗たけの大きいのがかぶになってあったので私は喜んでそれを取った それから近くを見るとあそこにもこゝにも一ぱいあったのでそれを取ってびくへ入れてから何の氣無に向ふを見たらびっくりぎようてんおどろいたおどろいた大きい大きいたらひぐらいの栗たけが私の方をむいてこつちへこいこいと言ふやうなふりをして居る私は眞青になつてしまつた少しの間はびつくりしてものもゆへなかつたが少したつてからおそるおそる近づいて見ると近づけば近づく程大きくなる二三間の所へ行ってよくよく見るとそれは紅葉したうるしであつた 私はおかしくておかしくてとうとうふきだしてしまった。それから少し取っていもじやの親類へかへり晝飯をたべて上諏訪へかへつた。

八・一一・一八
弟の病
 十月三十一日夜五歳の弟は急に頭がいたいと言ひ出した。熱をみたら三十九度位あつた其夜はそれで少し薬をのませてねたが夜中に入って惡くなりだして四十一度にもなつたのでいそいで茅野さんをよんで來て見てもらったそして薬をのませたらよくなつて一日二日と日に日に快方に向って行つたが四日のばん又急に惡くなって熱は四十度以上になりみやくはとまつてしまった驚いていしやをよんで來てちゆしや(ママ)なども幾本もやつたがきゝめがなく朝になっても少しもよくならなかった其中に小澤さんと茅野さんと二人來て見てちゆしや(ママ)を二本やつたが少しもきゝめがなく九時頃にはくちびるや爪は黒くなつて來てもうだめであるから二人ともかへつてしまつたそれから十一時頃まではそのまゝで行つたが十一時頃又院長さんが來てみやくなどはいゝから二時間ぐらいおいてちゆうしやをすればなをるかもしれぬと行つたので二時間ぐらいおいてちうしやをしたら朝にはどうやら助かりさうになつたまくらもと親類の人や叔父様も叔母様も來て居た。それから段々よくなって今はもう少しは起きるやうになつた今日はちやうと弟の四年目のたん生日である父母は和郎は命があつたのだと言はれた。

八・一一・二五
マラソン競走を見た事
 決勝■■がはにはこしかけがならんだ。群衆はこしかけの後にならんでもう來さうなもんだと言って手にあせをにぎって待って居る人々は色々の話をして居る中には「萩原と云ふ人は後そかつた」とか「一着は荻原と言ふ人なんだ」とか色々の事を言つて居ると間もなくかく隊が初まった 群衆はこしかけをのりこしてたちまちの中に道をせまくしてしまつた。そこへ先頭の自轉車が來て續いて荻原と言ふ人が來た決勝■へ入らうとする所を寫眞をうつしたそれから待つ事十分近くで二着が來た二着は近くで三着をぬいたさうだ。だから二着と三着は續いて來たそれから四着五着とつづいて四十二着まで來た四十三着から五十三着まではぼつぼつ來た四時半頃から賞品授よ式があつて五時頃終へた一着の荻原と云ふ人は私が上田に居た時■■■専門學校や■■業學校の参観人競走の(注:ここで中断)

八・一二・二六
學校まで 小松 摂郎
 家から學校まで少しの間僕は毎日往復するのである。まづ家を出て路傍の雪をふみしめつゝ學校へと向った下駄で雪をふむとギウギウと言つて氣持よい空は青々と晴れて快晴である下を見れば皆銀世界になって居る 新聞配達は新聞のわきにかゝへて家々にくばつて足いて居る
牛乳屋は車をがらがらと引て乳をくばつて居るやがて左にまがつてきざはしを上つて學校前へ來た運動場は銀の粉をまいてやうに■白であつたそれからしょうかう口へ下駄を■てで中へ入った。

八・一二・二六
冬景色
 紅に緑にかざつつて居た手長ノ森に最早木葉は落ち色は消えて寒さうな冬木立となつてしまつた廣々とした運働場には人の影もみえずただ白い雪が残って居るばかりである此運動場に遊び廻つて居る大勢ノ生との■は何時とはなく体操場へうつつてしまつた遠く望めば湖は所々にこほつた所もある歩む道々にはしも柱が立つて居る日本アルプスは頭に白ばうをいたゞいて平然自若として立つて居る 雀はチウチウと寒さうにないて居る。
急いでかゝなくてよい。落付いて考へたり見たりした事思い起してかいて見よ。(注:先生の批評)

二五八〇・一・六
正月
 七時を知らせる時計の音と供に僕は床を離れた。先づ美しい湯で顔を洗つてから、東の山から美しくかゞやいて出て來た初日を拝んだ。家の中ではもうざうにの用意が出來たやうである。そこへ親類の人で東京の三越へ行つて居る人が來た。そして八時の汽車で來て九時の汽車で古里の米澤へ歸へると言つて居たので母が一晩位はとまつて行くやうに言つたら其人は「私等はいつでもかうゆうんですからあんまりいそがしいとは思ひません」などと言つて居て其上「又二日の夜行で又東京へ行かなければいけない」などと言つたので僕等はいそがしい事だと思つたそれから其人は「少しお湯をおかり申したい」と言つたので僕が寄内した。親類の人も湯から歸へつてから皆でざうにを食べた。僕等は學校へ行く用意をして家を出た。學校へ着いてから少し遊んで居ると太鼓が鳴つたので講堂へ並んだ、そして新年の歌やいろいろの歌を歌つて家へ歸つた。

二五八〇・一・二〇
利息
 利息と言ふ事は普通では銀行などへ金をかす時のかし先のやな物だがこゝではそれとはちがう。僕の近所の席には面白い事があるそれは人から物をかりる時少しづつの利息を附けてかへす事であるその利息が又面白いそれは片切なりごむけしなりなんでもかりてかへす時片切ならけづりくずごむけしならけんたくずでその様にそれぞれの物をかへす僕の近所の度ではこんな事をして

豫防注射
 硝子戸はあいた弟ノ病氣の頃は幾度も來てくれた人のニコニコした顔がぬっと現れたそして僕と弟と二人と妹の四人を見渡して「さあいらしやい」と言った妹や弟は「いたければこまる」など言つて困つた様な顔をしたが皆立上つて注射をするへやへ入つた中には茅野さんがニコニコしながら僕を見て「大きい人から先やりましよう」と言つて針を持つた 僕の心臓はどきどきし初めたそして「〇、二五」と言つてやがて僕のうでへチクリと計(ママ)をさした僕はヒヤリとしたが少しもいたくはなかつた小さい方の弟は病の時に注射をしていたかつたおぼへがあるので泣き出しさうな顔をして居た。

九・一・三〇
私は何んだらう
 「私の体は全體眞黒である骨は計金(ママ)で出來てゐる私は食物もたべないだから何にもやつかいでなくてかつておかなくても一人でちやんとして居る私は昔は計金(ママ)と布に分れて居たのが主人の人間に二つをよせて作られた物だ近頃惡い風がはやり出してから使用されるやうになつた私にはもう一つ自まんの事があるそれは主人がいつでも外へ出る時私をつれて行かない時はないけれどもこれからだんだん暖かになつて風が下火になると私などは見むきもされなくるに(ママ)きまって居る私は何物だろう

九・二・二四
綴方の時間
 綴方をして居れと言って二部の先生は出て行かれた僕は一生懸命に題を考へたいくら考へても題が考へつかないその中に半時間の太鼓がドンドンドンドンとちやうど僕をせき立てるやうに聞こへた 僕は題がなくて益々こまつた僕は思ひ切って書取をしやう思つたが帳面は持って來たのに書取などをしてはいけないと思って又題を考へ初めたがいくら考へても考へつかない外の者は皆何か書いて居る考へつかない中に一時間の太鼓がセツラウドンドンハヤクドンドンと言って居るやうに聞こえて僕のむねは益々さわぎだしてその中に先生が來られてしまえと言はれた

九・二・二七
我が教室
 我が教室の東南には新校舎が在り東北は山で北西は体操場で西南はぜつぺきである廣さは縦が六間横が三間半あって西南の方には黒いとばんが二つならんで居て右の方のにはふきものがかゝつてあるその前には教だんがあり又その前には机がある 机の横には先生のはげた頭が見える 机の上には本などがあまり行儀よくもなくならんで居る西北側には出入口が二つあり上の所ニはまどが四つあるがあまり高いから西の隅にある竹のぼうであけたりしめたりする後の方には四枚の絵がはってあるが僕などは下手でとても及ばない左側には硝子まどが四つあるそとからは新校舎の屋根に雪のたまつて居るのが見えるそれから最後に目についたのは歴史の年代表である 皆もろく出し初めたから僕も出さう

九・三・一六

 寒い寒い冬は去って暖い春が來た春の神が白い着物をぬいで現れた 日は日まし日ましにこくなってのきばの雪や湖水の氷はとけた
 木はさなぎの様なめをふいた野べに山べに草木が青青として來た子供は家にいてこたつ柱と角力は取って居られず外へ飛び出して遊ぶ小鳥は奥山から出て來てさえずるうぐひすは梅の木にとまつてホーホケキヨホーホケキヨとなく時節になった春風はソヨソヨと吹いて來て何んとなく心が浮き立って來る この時に際して僕はこのなつかしい高島學校を卒業する事となった なつかしい高島學校よ永遠に手長岡そびえてくれたまへ