亡き夫の思出          小松いさの
亡き夫の思出
小松いさの
 夫の爲めに今頃此様なものを書かうとは夢にも考へな
い事でございました。顧れば二年前の秋既に私共の家庭
は魔の手に襲はれて、平和と幸福とは全く打ち破られて
しまひました。夫が十ケ月間の病床の苦しみは今更ら筆
にするだにおそろしく悲惨の極でございました。神にい
のり地に哭し、いのりに、いのりし、甲斐もなく運命の
手は泣きすがる子等を振りすてて夫は攫はれてしまひま
した。悲しと云ふもおろかでございました。皆様の御同
情、御厚意は身にしみて感謝の言葉もございませんでし
た。思出多き松本を後に八十才を越えました老母を携へ
て黄塵の都大路に漂泊ひ出でゝ半ケ年を涙に送つて参り
ました。運命の手は、どこ迄私共を悲しませるのでせう
か。只一人の母不幸の母を失つてしまひました。現世に
有りと有ゆる不幸悲しみは悉く味ひつくしました。もう
生きる力も立ち上る力も無き迄にくづされてしまひまし
た。只今筆を取りましては萬感交胸に迫り心乱れて徒ら
に涙のみはふり落つる許でございます。
 あゝ今更らくり返してもせんなきくり言では有ります
が、夫の病氣が始めから不治のもので有つたなら、自然
のもので有つたならどんなにあきらめ易くも有つたでせ
うが、生命に關係有るとは誰一人考へなかつた神経痛等
で二つ無き命、尊き命をすてさせた事、殊にあれ丈長い
間病床に有りましたものを、それでも何とかして助ける
術は無かつたかと残念とも口惜しいとも云ひ様なく故人
に封しても申譯なく如何にして詫びるべきかと日夜煩悶
懊悩する許でございます。

発病前の夫の心配と悲しみとは側の者の手のつけ様も
なく慰め様も無かつたのでございます。病床の人となり
ましてからは不運の事、氣の毒の事が重なり.病は重る一
方で.學校の先生生徒友人知己共他平素交際の無い人々
迄非常に心配し骨を折つて回復を祈つて下さいました。
雪の中に芹を摘み、塞中川に入つて川魚を捜し、遠國か
ら珍らしい魚野茶を取りよせ、有らゆる良葉有らゆる手
當は全國から送つたり知らせたりして下さいました。又
大勢の人が日々尋ねて下さつて家人と力を合せて看護に
つくして下さいました。東京大阪長野地方を始め諸方か
ら見舞に來て下さいましてほんたうに感謝でございまし
た。大勢のお醫者様は眞心こめて手當をして下さいまし
た・家族は皆寝食を忘れ、健康は害し、學業は廢し、身
ぐるみはいでも只々夫を助けることが出來ましたらと死
力をつくしましたが、病は一進一退でした。そして少し
でもよい時には一同狂喜しましたが、又がたりと悪くな
つてしまひます。何か大きな力が有つて死へ引き込みつ
つ有るのでは無いかとさへ思はれました。それでも四月
五月は大變よく家の中が明るく喜びに滞ちて居りまし
た。其頃は大勢の人にも會ひました、又今迄隠して置い
だ事を知つて了つて神経を刺激した事も有りました。
 今日迄子供も私も何回も絶望と云はれた大病にかり
ながら常に夫の綿密な考へと抜け目無き指揮によつて有
らゆる良い手営が與へられて助けられました、それだの
に今度は私共の誠意が、神に認められなかつたのでせう.
か、助け得なかつた事は其不甲斐無さ申譯なさに泣いて
も悲しみても及ばず、私共の此世に生きて居るさへすま
ない心持で一ぱいでございます。
 長い病中語る事も尋ねる事も叶はず其まゝ永遠に別れ
てしまひました。何れの世界にか逢ふ事が出來るものな
らば、と生死の界にさ迷つた事も一二度では有りません
でした。
 私共の家庭は今日迄二十数年の間餘りに恵まれたもの
でありました。夫に對しては只感謝の二字で盡きて居ま
す。古い家を相續します事も随分うるさい事で有った事
とすまなく思ひます。兩親には非常に親切で細かい處迄
行屆いた孝養をして下さいました。父は常に喜びと滿足
とを感じ人に誇つて居りました。母は食物の嗜好迄不思
議に夫と合つて誰よりも力にし喜びで有りました。.松本
から歸ります時取つて置いたほゝづきの様な柿をバスケ
ツトから出して母が子供の様に喜ぶ顔を見て何より喜ん
で居りました。村の人が内の老母程幸輻の人は有るまい
と常に云つて居つた程でございます。又親類にも事有る
毎に非常に親切に骨を折つて、皆の信頼を受けて居りま
した。家庭内には少しの不安も無く心配も無く、全家族
あまり夫に寄りかゝり過ぎる程でございました。子供が
「お母さんは細かい事迄尋ねて居つたネ」と云ひました
が、凡て指圖を待つて致して居りましたので、夫を失つ
てからは途方にくれ落膽と悲しみが一層ひどいものがご
ざいました。
 平素第二中學の十週年迄には其基礎を固め、職を讓り
新たに學生の爲めに計り度い。郷里の村の爲めにもつく
し度い。好きな旅行もし度い。子供の爲めには何々をし
度い等と澤山の計書を立てゝ樂しんで居りましたが、之
れもはかない夢となつてしまひましだ。
 茲数年は私の大病より引き績き子供の修學最中で、心
配も多く物質にも餘裕が少く、家庭の最多事の秋であり
ました。今一息と云ふ所迄來て倒れました。皆で苦しま
せたのみで、少しの報恩も出來なかつた事が何とも云ひ
様の無い悲しみでございます。只の一年でもよいから、
凡てに解放された自由な生を樂しむの日を持たぜ度かつ
たと返す返す遺憾に堪へないのでございます。
 大阪時代に、九州へ旅行をした時私への土産の薩摩飛
白、満洲旅行の時の緞子の丸帯も皆なつかしい形見とな
つて涙の種でございます。今日町を歩きまして、店先に
夫が生前の好物で有つたうどや柿や水蜜桃や病中喜んで
食べた櫻の實や枇杷を見つけては、足も進ます涙にむせ
んで居ります。
 ほんたうに夫は逝ったのでせうか、夢と現と幻と入り
乱れて、何時かは必ず歸つて来る様な氣ばかりして居ま
す。洋服も帽子も處分するに忍びす、虫干しては仕舞つ

て居ります。夫がほんたうに歸つて來る其時には、五人
の子供が皆、夫の期待した以上の者になつて居る様に、
私共は、夫の平素の遺志を堅く守り、皆で揃つて奮闘し
ませう。「僕が付いて居つても之れ以上には出來なかった」
と喜ばれる事を祈りつつ。 (昭和六年七月三十日)
(『小松武平追想録』p.383~386)