小松醇郎→小松いさの 1952年3月31日
昨日三月三十日暖かな良い天気なので一家揃つて和郎の家を訪ねました、そして大変ご馳走になつてしまいました、
和郎は奈良市役所へ勤めるのに片道二時間近くかかるので奈良へ移らねば到底体が持たない、然し今の家が相当な値で賣れねば移るわけにいかない、小生行つたときに丁度ブローカーが來ていて五十五万(手取り)といて來て和郎それでは駄目だと言つていた、それで和郎は小生に買えという、小生なら三十二万今拂つて金融公庫への返済金三千円を小生続けて拂つてくれたら良いという。小生毎月三千円はいいとして差し当りの三十二万が吹田の家が高く賣れれば拂えるかもしれないがその点は疑はしい。然し小生としてはなるべく高く賣つて大宮町へ移転したいと決心した、あの家なら恐風病にも先ず先ずよからうかと思う、鉄筋アパートなら風の方は勿論よいが、押入れ一間一つでフトンなどはいらない、そして三千五百円は唯の家賃であるから絛件悪い。
和郎は一月から毎日勤め年度末だから忙しく市會の答辯に引張り出されたりあ過勞であつた、九時過ぎ仕事を終えて歸宅は十一時、翌朝は又早くから出勤。奈良で泊つたことも随分あるらしい。それで三月臥床、高熱を出してペニシリンで下熱。医者も「今回はこれでなおつたがこんな過勞を続けては重大な結果になる」と警告した。奈良では課長補佐官が年よりで課長になりたかつた所が駄目だつた、それでことごとく和郎の仕事の妨害に出る、それで和郎は局長に補佐官を首切つて呉れと申出た所実は局長も補佐官と仲良く同じ敵であつた。和郎が業者と酒を飲んだ等という事実を市会に公表したりしたそうだ、とにかく局長と對立になつて互にアラ探しの状態。和郎の勤務もシンドイであろうと想像つく。永久的に奈良に勤められるか疑問。大阪でいい会社はないかな等といつていた。
和郎昨年末攝兄から数万円を借りた、先日攝兄からサイソクが來てあれを返して呉れねば神戸で借金せねばならないと。和郎はちょうど裏の家が賣れて返却したが神戸の残金もそれだけでは頗る心元ない。翻訳等も出る迄は一年もかかり、出ても一つでは三万位のもので一ケ月位の生活費だ。神戸へも近く行つて見ねばならないと思うがとにかく困つたものだ、
三月三十日は暖かく吹田では蚊がブーンと來て眠れなくて弱つた、三十一日は雨で一寸寒くなつた、櫻はもう一週間でせう、
以上皆憂鬱な近況です、和郎も「俺は長生きできない、」小生も同感で「生きてゆく事は辛いことだな」と話合つた所です、
母上様 3.31 醇