武平大正10年の日記
祖父小松武平には日記はないと思っていたが、大正10年に「ポケット日記」という縦158mm×横100mmの手帳に書かれた日記があった。
しかし、父の摂郎のように延々何十年も日記を書き続けるという性格は武平にはなく、大正10年元日に「日記を書いてみることにした」とはいうものの、忽ち間遠になってしまっている。
この手帳ももとは長女の澪子が使っていたものらしいが、彼女が使わなくなったのを武平が見つけて、ではオレが使おうということにしたもののようである。
ただ、興味深いのはこの年武平は全国中学校長会の満鮮視察旅行に参加したので、その折のメモが見れることである(10月4日から31日まで)。
大正10年ポケット日記
今迄日記を付けしことなかりしも、父死去し一家の俗事と公務と両方の責任有るに至り忘却の恐多き故今年より日記を付くる事とせり
大正十年一月一日
一月壱日(土曜)
(昨日七八寸降雪今日銀世界
新年祝賀会に出席ス 職員二十五人中帰郷の間欠席せしもの八人生徒三分の一欠席、町主催の名刺交換余人ハ忌中の故を以て出席せず
講話は「九年思想経済共々動揺せる戦後の影響故安定の期有るべし併し世ハ益複雑ニなるべく生活難も疑問も益増加すべし夫れニも係らず今日の雪の如き清浄の心を以て自己の本分に直進すべし」
(改造)愛国心の功過面白し
一月二日(日曜)
磯貝師範校長、教育ㇵ正義宣伝の役なり此道ニハ躊躇スベカラズト行政者モ皆教育者たるべしと、三村視学教育は人格を尊重して人に任かせ責任を負ハしむべしと
子供ニゴマメカズノコヲ食はしむ喜んで食し始めて正月の如しと云ふ、母無き離別生活ニ正月を迎ふ可哀想なり
鯉本日終りたる也子供ㇵ餘り好みし如くなし
(改造)藝術は苦悶の象徴トノ説面白し
一月四日(火曜)
帰郷した 百枝一人だけすゝめ連れ行き爲人々の言行不満の点多く非常に気持を悪しくした 家に帰っても慰安を感ぜず苦痛を感じた.それは余自身の心得足らず修養足らぬ故ならんと思ふ.年の改まりしと共に人々に親切にし家人に温和にし一家を円満幸ニせんと志す.此決意の実現を祈る也
神は愛なり、天地ハ■なり、人亦斯くあるみ(ママ)
一月五日(水曜)
上諏方寓居に行く
澪子を始め子供皆各自の責務を尽くし穏和に語らひ非常に嬉し
甚しく腹痛せり.暫く懐爐にて暖む
子供の睦しきを見て心地よく腹痛寛快せり
波多野氏挨拶に来れり人生のおかしきものなるを感ず.
一月七日(金曜)
亡父の法事を行フ(五十日)
有る時ㇵ何とも思わねど亡くなって見れば気の毒に加ふるに不便を以てし追懐の情切なり.
亡父は怒りと泣き事の愚知を言いし事なし(子供も皆之を称す)五日は今年より怒らぬを修養せんと子供と話す
他人は我の反射なり他人が悪しく見へたなら自己の心に悪あるを思ふべしと子供と話す
一月十四日(金曜)
拓殖大学生来校旅行談を試む
青島の建築物永久的志野(ママ)を以テ建テアル事ブドー棚迄鉄棒ニテ作レリト云フ濟南地方鉱山ニ犯人二十人ニテ為セシ事ヲ日本人は廿六人ニテ為シ居レリトイフ
汽車中支那人ト日本人トハ別列車ニ乗ル事
洋服地来ル、行違ヒハ人ノ不完全ニヨル
旅行始末
廿日夜行列車ニテ上京
廿六日長野を廻り帰宅す
教員を探がし廻り外国語学校卒業生を都合よく約束せり
青山学院を訪問せしも未定、帰校後無き旨通知ありたり
早稲田に招致の手紙を出す
物理学校ニ新卒を頼ミ置ケリ
二月一日(火曜)
寺島伝右衛門氏葬式ニ会ス
半月前余が宅に弔問セラレシニ今斯クノ如シ
棺桶ヲ見ニアノ平タキ太ッタ顔ガ死シテ居ルカト思ヘバ実ニ人生ノ果敢ナキヲ思フ近来人生ノ果敢ナキヲ感ズル死者ノ多キニハ驚クノ他ナシ 片倉氏モ有リ丁寧常識発達セル人ナリ
香奠2円、惣ベテノ人に砂糖一斤ノ■■
寺受持葬式■■■■■■■
山浦ノ葬式ㇵ改善ヲ要スル■事ナリ
二月十二日(土曜)
松本中学参観ニ行ク
十一日夜浅間温泉梅ノ湯泊、
閑静ニテ心地ヨシ同行十三人喫煙者ナシ
中学ニテ羽衣校長御子柴教頭等一同茶菓ニテ歓待セリ
生徒の素質可、勉強モ良シ
教師モ一人宛見テ優良ノ者少ナカラズ
入学試験ノ学科多クスル事ハ羽衣氏ノ説考足ラサルト思フ
二月十九日
長野へ行ク信濃教育会議■■ヘ出ツ
上田ヘ泊ル
翌日服■針塚、■■■■ヲ訪問ス
針塚氏ノ高師ニ関スル意見
高師は世界独特ノ学校ニテ■■■大ニ考ヘシ所ナリ特種権威アリ廃止スベカラズ大学トスベカラズト
絶対原抔ハ最低ニ引下す説ナリ
後者はツマラヌ■■ラシ■此ノ如キ説ハ社会進歩の停止ナリ
二月二十五日(金曜)
昨日降雪アリ寒気厳寒ノ如シ華氏一六度
昨日は澪子気分悪シク学校服ニテ袴モ取ラズ炬燵ニ伏セリ 来客アル畳ニ伏シ居レリ弟妹ニ八つ当リナリ、百枝手荒し可哀想ナルモ米洗ニ行ケリ雪ヲ犯シテ働ク様憐ナリ余モ数日来早朝ヨリ働ニ疲レハテタリ
本日女中来リヤレ安心ト思ヒ床屋ヘ行ケリ帰レバ女中病気トテ帰宅セリ 多分余の居ラヌ間ニ逃レタルナラン
能ク話シ■ミシテ希望ヲ満足セシムル様取扱ワザリシハ不覚ナリキ
二月二十八日
廿六日帰省し廿七日上スワニ来る
廿八二値女中来レリ
充分安楽ナリ 留守モ安心ナリ
縣廰ハ校長ニ計ラズニ事ヲ行ツテ不都合ならん、
入学試験日割ハ校長ニ尋ニヌベシ、中学女子別ニ二分ナク
■五ニ対スル日ヲ定ムル要アリ
諮問草案ヲ新聞ニ出シタルハ不可ナリ.斯ク如クナラバ今後赤裸々ニ答申セザルベシ、
高師卒配当請求ハ打合ハス事出来ヌカ
三月三日
皇太子殿下御訪欧ノ御登極
講話ヲナス
三月廿一日
婦人の友三月号
享楽ノ意義阿部次郎氏ノ説面白シ
十月二十四日(土曜)(9月24日の間違い)
満洲行準備
私立校長会ニ出ツ 黒沢氏父ノ葬儀ニ出ヅ
毛シャツ × 7――
ワイシャツ × 3――
時計 × 26――
コウモリ × 7.5
靴下 × .90
帽子 × 4.70
半外套 28
カバン × 22
ズボン下 × 4
手袋 × .60
万年筆入 × 1.50
薬
カラ
ネクタイ
大正十年十月四日 満洲行出発
■■■■前三日出発ノ豫定ナリシモ醇郎九月二十五日夕ヨリ突然発熱
肺炎トナリシ後シタルナリ
肺炎ノ経過 起床時 自ら計リ三十七、一五ト云フ
夜半 余検温 三十九、八
直ニ医師に走ル 伴氏
連来ラず 心臓藥ヲ受ク
廿六日早朝来診 肺炎ト云フ
爾来 三九、ヲ下ラズ
三十日ニハ 四〇、三ニ達ス
脈拍 一五〇以上ニ到リ呼吸四〇以上憂フベキ状ナリ
高波院長
三〇日、 十月一日 二回来診
肺炎ノ最重于患ニアラザルモ注意スベキト云フ
大人ノ肺炎一三〇以上の脈ハ危険ナリ斗云フ
十月二日午前五時頃突然■■■■ス
前日来少シ発汗ノ気味ナリシモ本日ハ汗流ル如し
分■■ニ到レバ直二解熱し二時間ニテ三七ニ達し 正午頃ハ三十六ニナレリ
淡、セキ、呼吸抔ハ病中如し
後注意セザレバ餘病ヲ発スル恐アリト云フ肺ケッカクカ、ゼンソクか
(ここから満洲朝鮮視察旅行のメモ)
十月四日発 釜山迄切符を買ふ
偶然郡役所松原書記ト同行ス
町村長ト共ニ舞鶴ニ行ナリ.
名古屋ニテ松原氏見送ラル
幸田氏に托し萩原弘毅氏に托し松茸ヲ買ワントス金弐円為替ヲ出ス事ヲ依頼ス
十月五日 未明寒気加ハル
曇天なり
関西は米作不良ナラズ
寒國東北人ハ不幸ナリ
沿道既■ノ地教感ナシ
廣島ヨリ長谷川主事乗車ス
飛流三百尺
遥落九天来 玉
看是白虹起 流
翻成萬壑雷 川
昌 仁政殿
景福宮
慶会楼 石柱 大楼
思政殿 勤政殿
明治三十年
八角堂(天壇)ヲ作り
御即位式ヲ行ハル
皇帝ト称セラレシモ
民力ヲ養ハズ虚礼ニツトムル 忽チ亡ブ
(ここから10月8日、朝鮮総督府の主催講演会のメモ)
水野
三九 保護
四三併合
十年間
道路改良 鉄路延長
米八〇〇万石ヨリ一五〇〇万石
山青キヲ加フ
大量の資金(官民合)
一米人三回訪鮮
朝鮮非常に進歩 日人のヂニアス
世界ヨリ アドマイアセネバナラヌ
日本政事ヲ以韓国政治ト比較セバ
非常ニ鮮人ノ幸福増加セリ
新人ノ旧状ヲ知ラヌモノガ不平ヲ云フカ
外国ニ居ル鮮人ハ不平ナラン
教育に関スル意見
民情の許ス限リ教育ス
可■内地ニ等シカ■■■カトス
普通教育 六年以内
中等 五年以内
小学 三面ニ一校
教育調査ヲ行フ
朝鮮 生産十八億
産業調査会
宗教 殆ントナシ
耶蘇教徒四十万ト称セラル
米人ノ努力
教育病院抔ノ思想
守屋秘書官
十年間
十億政府
六億 朝セン 税入
四億 内地援助
治安維持 生命財産ノ安固
盗族 勢力争
司法行政ノ混乱
(朝鮮総督府の主催講演会のメモ終了)
上田秘書
太平洋会議ハ英国主体
支那ノ大国■■
世界人ヲ■ルフベシ
伝統恩
忘恩 (支那ノ古恩)
支那留学生ヲ■化セザル者
支那人ヲ軽ベツス
物ヲ高ク売ル
一流料理屋ヘ入レヌ
留学生ヲ厚遇セヌ
留東■■ ■■■
日本■悪■
日本人ハ大人ノ風ナシ
服装ヲカマハヌ
語キアラシ
礼譲ヲシラヌ
大官呼ビステ
ワラ見ニ行ク気
馬賊出身ヲワラウ
猪獅子武者ナリ
馬賊ニハ■■ナリ
■■フリ
欄外
二十二才ニシテ一万軍ノ■■ヲ平ヒテ働く
憲法 独リ歩キ幼児
老人ヲオカスモノハ
11ノチ刑ニ処ス
婦女子ヲ犯ス者ハ■ス
道教ノ教(民間道徳維持)
天口教(子供ニ教ヘタ■)
プラクチカル良教訓
現支那人ノ個人性
利己主義盛ナリ
■、西洋支配
政府不安
地方官吏チューキュー
奉天省教育副会長
載裕沈
杯酒交歡満座春
莫因時事説艱辛
盤餐羅列無珍品
願醉蓬瀛百二人
(大正10年10月13日、奉天城内大南門第四小学校における日支教育家交歓会
でその前、11日夜公会堂における満鉄の校長会歓迎の席上山崎氏の賦した詩に対し、和
山崎先生原韻として賦したものの記録)
十三日
奉天、北陵参拝
救済学校、孤児院、■■■■
昼餐
宮殿拝観
女子学校参観
惟天聡明
惟聖時憲
惟臣欽若
惟民従乂
(書経から)
名取原次郎氏紹介
大連吉野町菅原工務所
有賀定吉様
(満洲銀行発起人の一人大正8年、有賀は同郷)
榊谷仙次郎(さかきだにせんじろう)が菅原工務店/有賀定吉から独立するしないで揉めている時、満鉄の入札請負人リストに入れるよう満鉄土木課へ取り次いだ「長老」として「岡田時太郎」が登場。土木組合の大半は榊原氏の独立反対、銀行は貸出しない状況なのに。
榊谷仙次郎日記より
十六日
商業中学 高女 工業学校
中央試験所(工業)
電気■■
沙河口工場
星ヶ浦
教育研究所■
十七日
満鉄東北図書館
埠頭
油房
西公園(昼食
市場
老虎灘
満鉄東北 地質調査所 三、二〇
一昨年ヨリ注音字母用ヒラル
新聞雑誌ニ盛ニ用ヒラル
字音ヲ全国統一セントス
早川社長
血ト金トニテ得タルモノ
共栄共存
教■学長
■生重視
研究 米 豆
米人も満■急ヲ
各隊ノ居ラヌニ■るケリ
露西亜時ト軍隊ヲ以テ
経営セリ
(日記に日付は無いが、満鉄社長 早川千吉郎の招待による大連ヤマトホテルでの宴会が十七日にあった)
十八日 旅順
工科学堂 九、四〇
爾霊山 一〇、三〇 山上、久保田駅長説明
考古館 后 〇、一五
昼食
東鶏冠山 ニ、一五
白玉山 三、三五 戸波少佐訓話
四、三〇 駅前帰着
五時旅順発 六、一五 着連
廿四日 前八時 北満ホテル集合
八時一〇 発、領事館
横川沖記念碑
旧ハルピン、日露協会
一〇、一〇 チウリン商会
一〇、四〇 第一小学校高等小学校 茶菓
一一、三〇 東支鉄道商業学校
后 一、〇〇歓迎会 北満ホテル
三、〇〇 発、傅家甸 キタイスカヤ街
ヲ経テ松花江岸
帰着
后
七、〇〇オクサユーフスカーヤ女学校ニテ
教育同盟会主催歓迎会
埠頭区商業クラブ爐ロ国芝居
廿五日 前、七、四〇発
志士之碑 大佐
本国トリート博士 犠牲■■■
本国■■■■■■
露学校
設備 雄大 堅牢
器カイ標本多し
教師服装モヨシ
日本貧弱ヲ恥ズ
音楽ウマシ
小学校ニテ君が代
■■精神的■額多シ
講堂ハ教会
男子商業学校
日本国歌 露国歌
大佐 コンナ歓迎嘗テナシ■■
体操非常ニ秀
楽器伴ナフ
北京領事館
外人ノ支那観
悲観的(英人)租界ガ支那富豪ノ保安所ナリ
(ブランド氏)租界外は古来変ナシ 地租其他諸税■
■、中央政府ハ外人関係ノ諸税ニヨッテ
■■■ノミ(関税、塩税ノミ)
楽観者(米人)論
事故以来十年間乱状ナルニ国民ハ貿易進歩シ
民智進歩ス 国民発達の妨害悪政治ヲ除カ
バ如何ニ発達スルか斗ラレズ
究極ノ例ハ民気ナリ.是ハイウニ非ズ
山東問題モ然リ.直接受ハ民気ニ
反ス、理窟ニ非ズ直覚的民気ナリ
中 関税 四千七百万ドル
央 塩 八千万ドル
財 印紙
政 鉄道
約二億位アラン
地方各省 地税 営業税等
■省ハ中央ノ補助ヲ受ク 中央ハ不統一 省政治ハ見事ニ行ハル
大学教授(最モ真意ヲ遠慮ナク述ベル
日支親善
政治上利益上相反ス
他国民ヲ理解スル力未ダナシ
故ニ真ノ親善不可
只文化上ノ日支親善ハ可ナラン
支那人ノ日本研究少シ
日本人ノ支那研究ハ多キモ古文書物多シ
現支那人ノ真状理解サレズ
今後両国民ノ眞精神ノ理解ヲ要ス
此人空理ヲ云ハズ
眞ニ日本文学ヲ研究シヨクホン訳セリ
此考え実行セリ
北京 見物 二十九日
ラマ塔寺 孔子廟
冬宮 ロックフェラー 宏大 美麗
病院 学校日米国■ヲ囲ム
三十日
天壇 大 中央公園
王宮
古美術品 乾隆時代 最進
七寶 玉
■器
三十一日
清華学校 雨中体操場
水泳場
渡米準備教育
萬寿山 宏大 美
■宮 佛香閣 石船
西太后 劇場
乾隆 ■テ 西太后 用フ
萬峯横嶺悉来参
泉声入目涼
(朝鮮・満洲視察旅行は10月31日の北京旅行で終了したようであるが、その後どういう風に帰国したのかは全く記録がない。小松武平追想録にも記録はない。今の所、他の同行者の記録も発見できないので、残念ながらこれ以上のことは分からない。)