○三月一日(金)  晴 暖

少し勉強につかれたる觀あり。顔が靑いと人に言われる。自分でも、近頃意識活動の旺盛になったのに気づく。

 

○三月二日(土)  雨 寒

出さんの哲学史の授業。これで今年の授業も終りだ。明道館へ行く。三時から西田博士歡迎講演会。本でよんで分らない事でも、口からきくと分る。後、晩餐会。終へて雜談。西田博士は思ひの外元気のいい人だ。あの位の人になると自信があるから、云ふ事がつよい。西田博士には初見參だ。

〝哲学史〟の勉強は昨日で終り。これから、次を次をとその日ぐらしをする。

桑木先生始め、その他の先生方がすきになった。又、今度の試験勉強で―特に哲学槪論と哲学史―面白くなったので、來年は少し沢山授業に出ようと思ふ。

 

○三月三日(日)  晴 風、寒

近頃余の理論は進まない。しかし試験勉強の結果、理論に内容を入れた形だ。

午後矢島の所へ敎育学のプリントを持って行く。お雛様がかざってある。敎育史のプリントをかりてかへる。

昨今、よく遊ぶ。少しエネルギーを休ませる為だ。今迄、字をよみすぎたから。

 

○三月四日(月)  晴 稍暖

昨夜、寒い事甚し。

木村泰賢、印度仏敎思想史概論の試驗。一時より三時迄、二九番敎室。大学に於ける試驗と云ふものの始め。変った事もない。あっさり答案をかく。

必要は人をして勉強せしむ。

 

○三月五日(火)  曇 冷

桑木嚴翼、哲學槪論。一時~三時。二十八番敎室。あっさり答案をかく、一行おきに大きい字で。こんな答案でいいものかしら。人はどの位だか一向調子が分らぬ。

試験がおへてから今井の所へ行く。九時迄ゐる。珍しく気持がよかったので、水道橋からがんがん家迄歩いて來た。

 

○三月六日(水)  曇、風、寒

ラテン後(ママ)の勉強。つらつらいやになる。おちたらおちたで良いと思ふ。今日明日勉強して、後はどうでもいい。勉強すればするだけ得だ。來年のたしになる。來年はラテン語、前期後期共に出るつもりだ。

五味等の宿所の為、小口彦七、小野圭治氏等の所へ行ってみる。うまくいかない。

醇郎から十日に來ると、はがきが來た。

醇郎、太田、矢島(二枚)、五味、今井へ端書を出す。

 

○三月七日(木) 晴 稍暖

流動の生活。生命は流動する。

羅典語の勉強。それでも試験の前には能率が上る。こんなものでも勉強する氣になる。

試験の間には休のあるのは、良いやうでよくない。気も腐る。

 

○三月八日(金)  晴 暖

八時~十時。フンベルクロード講師、羅典前期。三九番敎室。六時半に目があく、よーしたもんや。しかし試験にはふられた形だ。先づ通さないだろうと思ふ。試験後羊老人と下宿を探して歩く。伊藤啓夫のゐる信盛館でよささう。羅典語の本はふれないやうに一日そっとしておく。羅典語受驗者一六人。

「哲学史」の勉強。出さんの第一巻をもう一度がっちり通讀。その外色々みる。むきになって勉強すると疲れる。

 

○三月九日(土)  晴 暖

八時~十時。出隆、西洋哲學史槪説(第一部)、二八番敎師。メンタルテストのやうにやると変な問題を出した。出さんはどうしてもいたづらっ子だ。出來はしたが、勉強が直接効を奏する問題ではなかった。しかし勉強したことは自身で滿足してゐる。

一高社会科学研究会組織の件で処分十六名今朝発表。除名六名、無期停学六名、五月末日迄停学二名、改ちょく二名。小平、除名。小林、無期。北原、五月迄。思ふ所多し。

午後矢島の所で、今井、小松、安永、矢島の四人で「敎育學談話会」。ぢきによこみちにそれる。

夜、吉田靜致さんの本をよむ。関谷君からかりた「道徳の根本義」と「人格の生活」。

 

○三月十日(日)  晴 暖

昨夜、雨が降り雷がなる。

「倫理學」の勉強を少し。

午後六時、醇郎を新宿驛に迎へる。

七時、北澤と小林が来る。思へば、實際泣ける。此の萬量の思を如何にせん。先年來ずーっと小林と一緒に勉強して來た。僕と同じ様な事を考へ、考へも一番近かったのは小林だ。むしろ一歩を小林に譲らざるをえなかったと思ふ。今迄逢った人の中で本當にえらいと思ったのは小林だけだ。最後に行って兎に角別れるやうになったが、實に淋しい。階級闘爭の第一線に立って、元氣でやってくれ。勇ましく君を送る。

 

○三月十一日(月)  晴 暖

八時~十時。林博太郎、敎育學槪論、二十八、二十九兩敎室。五十戔リーグの連中は二十八番にならぶ。さんさんかく。

十時~十二時、二十八番敎室。吉田靜致、倫理學槪論。これでお役目が二つすんだ。試驗もすんだに等し。

三井爲友から手紙が來る。返事をかく。

「敎育史」(日本)の勉強をいささか。敎育史は案外面白いものだ。敎育學とは違ふ。日本史も今見直すと又非常に面白い、昔と異った色彩を以て表れて來る。

 

○三月十二日(火)  晴 冷

八時~十時、二十八、二十九兩敎室。春山作樹、敎育史槪説。プリントにないやうな問題を出したのださうだ。今井と二人で創作する。

大島さんの勉強を少し。

一つの部屋に一人でいるのと二人でいるのとはえらいちがひだ。勉強の能率がまるで違ふ。

試験も終らんとす。

太田閑人、矢島羊老人へ端書を出す。

 

○三月十三日(水)  晴 風、暖

午前、「哲學研究」の高坂正顯氏の「ウィリヤム・ジェイムスの認識論と形而上學」と云ふ論文をよむ。

一時~三時、二十八番敎室。大島正徳、「英米現代哲學」。四題の中二題を撰ぶ。一行おきに六枚書く。今迄で一番沢山かいた。

風を引いたとみえる。昨日から症狀がある。金土月火と八時からで疲れてゐる上へ、昨日晝寝をしたのでひいたのだらう。

社会学の勉強。ブルジョア社会学はだめだ。戸田貞三は馬鹿だ。プリントはよむのに時間がかかる。

 

○三月十四日(木)  晴 風、寒

十時~十二時、二十八番敎室。戸田貞三、社會學槪論。鼻っ柱強く、批判的にあっさりかく。どんな評点をつけるやら。これでめでたく試験終了。

今日から文学部入学試験。

風は昨日より大体良い。鼻へ行く。

 

○三月十五日(金)  晴 風、寒

六時半起床。七時、五味等を飯田町駅へ迎へる。今井も來る。信盛館へ行く。彌生館へ行く。これから今井と醇郎の受験の様子をみに行く。それから明道館へ行く。今日はかへる。僕は晝食後去る。新村がゐる。

爲友から手紙が來る。家へ手紙をかく。

寒風にさらされたので、風が少しわるくなる。家でねてゐる。九時頃から気持がよくなる。

 

○三月十六日(土)  晴 暖

午後一時、一高へ行く。五味、小口、佐野、上條、三井、宮沢等と逢ふ。今井もゐる。信盛館へ行って少し話す。

今井とうちへ來る。とまる。

醇郎は出來たらしい。大丈夫だらう。

近頃よくねむる。

 

○三月十七日(日)  晴 暖

今井と一高へ朝行く。連中を送り込んでから白十字で話す。出て來る時分に又行く。今日は皆大した事はない。受験番号も間違ってゐない。

午後、醇郎と太田兵三郎訪問。一時間程話して辞す。往復歩いたら疲れた。

久し振りで入浴。

夜、皆でだべる。

どうしても気持が一定しない。マルクスにのみにも離れない。宗敎も無下に無視出來ない。哲学も面白い。矢崎秀雄君の気持も分る。

マルクスを知ったが苦の始り。

 

○三月十八日(月)  晴 暖

昨夜二時迄考へる。小林直人と勝俣好子とが兩側から当分に我を引く。しかし畢竟夜考へる事は夢である。

午前天気が良いので掃除をする。本のほこりを拂ってつめかえる。

午後、矢島訪問。

醇郎、数学科合格。先づ一安心。金子京子さんも第一高女合格。共にめでたし。

 

○三月十九日(火)  小雨 暖

一高の試験の終へる頃行ってみる。数学の問題は易しかったらしい。五六人みなやった。五味は一つちがった。

午後、五味の所へ行く。

 

○三月二十日(水)  晴 冷

雨後の朝。非常に気持よし。空飛ぶ雲もあざやか。

一高試験終了。今日(英語)は皆相当にいたでを負ったやうだ。結局五人位になるだらうか。

午から一高受験生大高会聯合諏訪会。矢島、今井、小生、小林、北原。受験生では五味、小口、大和、武居、佐野。一寸顔を出したのが上條、三井。

井上益之進君から來年度の哲学科委員になれと云ってくる。承諾の返事をかく。

今日は色々のことで興奮した。マルクスを知ったのは苦の始り。今日の苦しさ。息がつまりさうだ。

「小林直人に輿ふる書」をかく。レターペーパー五枚。

 

○三月二十一日(木)  晴 冷

十時、小林におこされる。小坂秀勝と本をとりにきたのだ。

午後一先づ明道館へ行く。新村と醇郎を伴って矢島を訪ふ。〝おはぎ〟の御馳走になる。新村と淳(醇)郎は先にかへる。僕は後に残って説敎強盗みたいにもちをもらってかへる。

法経の発表あり。

○三月二十二日(金)  晴 暖

午前、ごたごたしてゐる。十一時五味が來る。

五味と外出する。東中野の三井爲友を訪ふ。不在。あの辺を歩き廻る。次いで今井の所へ行く。午後八時半辞す。家に勝俣好子さんが來てゐる。

五味は非常に出來た。其他、合格圏内十名。五名乃至七名合格だらう。

醇郎の考へ方は觀念的でいかん。世間知らずだ。一年位明道館へでも入れておくといいが。

○三月二十三日(土)  晴 暖

午前、醇郎をつれて神田へ行く。

午後、高師へ云ってみる。長坂も重松も入ってゐる。

長坂へ端書を出す。三井から葉書が來る。

二月の会計計算。八五円…。つけおとしがあるらしい。

醇郎かへる。午後十時、五味と一緒に。飯田町駅迄送っていく。

文化價値體系の問題。

十三貫三百五十匁。

 

○三月二十四日(日)  晴 大イニ暖

朝、大学の発表をみに行く。文、工、医が出てゐる。哲学科一高四人、矢崎秀雄君があったのはうれしかった。三輪が意外にも英文科に入ってゐた。

左右田さん、西田さんの論文をよむ。

午後山岡を訪ふ。不在。明道館へ行く。「改造」を読んでかへる。

丁寧に井上君から返事が来る。学校が始まる前に一回訪れよう。

 

○三月二十五日(月)  曇 寒

朝、澪子・百枝、松本へ発つ。

鷗外のVita Sexualis をよむ。

突然太田が来る。續いて山岡が来る。

とみのさん、午後五時半、愈ゝ去る。一人になる。

明日、太田も矢島も來る豫定。

小説を読む積りで金子さんから一かかえかりて來る。藤村の「春」をよむ。

 

○三月二十六日(火)  曇後雨 寒

午前、「春」讀了。

午、太田が来る。續いて矢島が来る。太田は四時頃去る。矢島は一緒にまづいめしをたべてから七時頃去る。

藤村の「破戒」に入る。

醇郎から端書が來る。和郞が九番だ、と。この位ならまあいい。段々良くなるだろう。

夜、春雨そぼふる。一人、靜かなる事限りなし。

夜、一時少し前に「破戒」を終へる。大いに面白かった。藤村が何故―如何なる動機で―あゝ云ふものを書いたのだらう。

 

○三月二十七日(水)  雨 冷

今日も亦春雨がシトシトと靜かにふる。

とみのさんが來て、飯をたいたり菜(サイ)をこしえらへたりしてくれる。

新村も太田も來(キタ)らず。

ツルゲネフの「父と子」をよむ。

夜、金子先生の所へ行って、可成り永く話す。矢島の家ほどのんびりしない。

厚い眼鏡の奥に輝く丸い目。

 

○三月二十八日(木)  晴 暖

十時から金子先生の所へ留守番に行く。ついでに遊んで、五時に家へかへる。金子

直郎さんに逢ふ。

「父と子」讀了。美しい小説。「処女地」に入る。

『金子直一。善良な敎員。深い事は知らぬ。

まさえ。少し勝手向すぎる。

秋子。善良なる娘。インハルト貧弱。

後の三人。未発達。只し先蹤を追ふに違ない。

金子一家の通性。善良。單純。否定の要素を欠く。

直一は音次に劣り、金子一家は矢島一家に劣る。

矢島一家。金子一家よりは複雜。温良。意志的なるものをかく。

小松一家。最秀れ、最複雜。神経質にすぎ、呑気がたらぬ。』

 

○三月二十九日(金)  雨後晴 寒

太田・五味から葉書が來る。今井・五味・醇郎へ端書を出す。それから、暇にまかせて矢島へ随筆めいた手紙を試験用紙二枚へべったりかいて了った所へ矢島が來た。午後。手紙は手紙で別に出す。

早夕飯後、矢島と外へ出て金子先生の子供達をつかまへて永い間、かまって騒ぐ。久しぶりで馬鹿になる。

 

○三月三十日(土)

河上肇譯纂「レーニン辨證法的唯物論について」讀了。これは重要な本だ。新カント派の哲學はやがて亡び、マルクス=レーニン主義の哲學によって取ってかはられる。觀念哲學の畠より出でた余の任務は、レーニン主義の哲学によって、新カント派をたたきつぶすことだ。

今井・矢島から端書が來る。矢島はむきになって返事をよこした。太田・新村・長坂へ端書を出す。氣がいらだっているので、ごたな通信になった。

ツルゲネフ「處女地」讀了。面白い小説だ。

六時半、母と姉がつく。独居の終り。

西田さんの「働くもの」と云ふ論文をよむ。

強くあれ!強くあれ!自我の獨立!

 

○三月三十一日(日)  曇後晴 暖

ツルゲーベフ「初戀ひ」讀了。以上三篇、後程面白いと思ふ。「世界文學全集」米川正夫の譯。尚ツルゲネフは前に「その前夜」をよんだ事があるので、都合四篇。

午前、母と三越へ行く。

午後、太田が来る。しばらくして後、二人で山岡を訪ふ。不在。今井の太田宛の手紙をみる。矢島の方へ廻る。在中。夕飯後、三人で歩く。戸塚→神樂坂→神保町。僕一人十時歸宅。太田、十一時半飯田町駅発松本へ向ふ。

留守に新村が来る。可成りまったさうだ。かしておいた本を一たばもって來る。

 

今迄は私は片々たる論文によって勉強してゐた。大冊の書を根氣よくよむだけの気持の豫裕がなかったのだ。が、今やその種の勉強の仕方の一應の限界に到達したと思はれる。かくて、私は今や勉強の仕方に一回轉の必要である事を感じて居る。

現代に於いて入り交り、湧き返ってゐる思想も、過去の傳統の中から生れ出たものであって、古來の思想を抜きにしては考へられない。我々は過去からおびただしい思想を受けついでゐる。これらを取り入れ、消化する事なくしては大きな發展は求められない。我々は勿論現代に生きる、而して現代の意識の中に思索してゐる。その限り我々にとって最切実なのは現代の問題である。しかしながら、眞に力強く立たんが爲には過去よりの遺産を収容しなくてはならない。私はこの事に氣付いた。

私は当分の間、思想的遺産の探索に從事したい。二歩進む前に一歩退くのだ。実行的の事柄から離れて、專心勉強に没頭したい。片々たる論文の背景をなしてゐる、基本的思想を研究したい。私は今、本当にどっしりと腰をおしつけてうんと勉強しなくてはならない、と切実に感じてゐる。どうしても、私に取っては勉強が第一である。その間から何物でも生れ出るであらう。 (四月末日)