○十二月一日(日)  晴 寒

午後、靑山会館へ行く。市ヶ谷敎会堂建築のための「音楽・舞踊・映画の会」。あゝ云ふ「舞踊」はフォーマリズムだと思った。佐野実仁君と一緒になる。

午後、留守に五味重郎が來たさうである。そして醇郎と二人で五味智英氏の見舞に行ったさうである。彼は少しもち直したさうである。

安永が死んださうである。

ヘーゲルをよむ。どうもゆっくり本をよむ時間がない。

飜譯や解説を賢明に利用する事は有益である。かくする事によって元原が立体的に理解されうる。

今にして考へれば、「一年」の時の一年をあのやうに過したのがおしい。事実僕の哲学研究は今年において始ったのである。

 

○十二月二日(月)  快晴 暖

午前、ヘーゲル。ここで。

午後、植物園に散歩に行く。かへって入浴。

安永の死亡通知が来る。

ハイデッガーをよむ。僕は色々のものを平行して進めて行かうと思ふ。一日一日でよむものが変るので、いささか応接に忙しい感がある。

 

○十二月三日(火)  晴 暖

午、靑木堂、小沢、矢島。小山貞夫がゐる。矢島と一緒に省線にのる。一人、目白聖公会の安永の埋葬式に出る。式は二時から三時まで。日新堂のおやぢに逢ふ。長坂の所へ廻る。一寸立話をする。帝大分院へ寄る。五味智英君は良いさうである。兄さんが嬉しさうな顔をしてゐた。五時家にかへる。

今泉君も用があって、今日のハイデッガーは中止。

夜、ヘーゲル。

私の哲学研究の進展は私に新なる一群の課題を与へた(しかも新なる形態の神経衰弱を伴って)。この課題は困難であって短日月に克服されるべくもない。しかもこの課題が現実的に与へられてあると云ふ事は、卽一つの確実なる心境を物語るものである。

 

○十二月四日(水)  曇 感

桑木さんも亦風邪、三十分を余して授業を閉じる。

ヘーゲル、日高君の所。これにおいても亦私は克服した。

私は「讀み方」において一段の進歩をとげた。

フッサールとコーヘン、夜。

本月始め、私は「讀み方」において一飛躍をとげたのではあるが、昨日以來更により一段の飛躍が始ってゐる。しかしこれらは成るの日成ったのではなく、地盤の熟した上に云はば突如として起るものなのである。ここにおいても亦私はそれらを輪講に、特には「我等がヘーゲル研究」に負ふてゐる。

 

○十二月五日(木)  晴 寒

午から後、委員室、ホール、図書館とていたいしてから、コーヘン研究会に出る。これもみになって來た。こっちが進んで來たからである。井上はたしかにえらい所がある、よく出來る。太田も一寸いい。森島はよくない。伊藤(謹)もおちる。

各々書を形式的にひたすらに先へよんで行く―今迄さうであった―ののあるべきでない事が分った。

私のまなこに一つのうろこがおちた。私は新なる「方法論的なるもの」を把握した。

漠たる不安は必ず其処より生ずる確たる認識によって克服されるものである。前者は後者に対する指標である。しかしこの克服は労力なしにはなされない。しかも自己自身の力によってである。

ハイデッガー、七十二頁までよんで、輪講をやり出した所までつながる。

 

○十二月六日(金)  快晴 寒

ラスク。今泉君來らず。夜、病気の由の通知來る。

午後、入浴。それから植物園散歩。人がゐなくていい。

夜、伊藤吉之助先生を訪ねる。伊藤謹一郎氏が來てゐる。市電罷業で電車中々來ず、往復とも水道橋まで及びから歩く。新宿の三好野で饅頭をかって、十一時かへる。留守に秋子さんが來て、貸した本をかへし、「芥川全集」をおいて行く。

ハイデッガーかヘーゲルか。ヘーゲルときめて了って、一途にやらうかとも思ふ。

私は私の近日來の飛躍を私の〝第二次哲学革命〟と名付ける。

人の精神の発展は漸次的のみではなく又飛躍的である。他の範囲における発展はどうであらうか。

 

○十二月七日(土)  晴 暖

昨夜(今朝)新聞配達が來る頃まで目覚めてゐる。一晩かう云ふ事があると、それだけでよほどうる所がある。十一時におきる。近頃は連續的の神経衰弱である。九月以来の疲れからなのだから、根本からは何とも仕方がない。只自分自身の力で程度を弱めてゐるだけである。昨夜、論文をヘーゲルにする事を断然定めた。否定を媒介とせるが故に今度は余程確実の積りである。午後出さんの授業の後桑木先生の所へ行く。來年の学友会委員の事に関してである。下田弘君と決める。夜、東京女子大学同窓会主催の「映画と合唱の夕」なるものに行く。割合によかった。東京市公会堂、矢島のおっかさん、文子さん、夏子さんがきている。――うんと勉強してある人はどうしてもしっかりした所がある。桑木さんは物のよく分る人である、

 

○十二月八日(日)  晴 稍暖

午食後、下田の所へ行く。來年度委員になる事を頼む。その後永い間色々の事を話す。そもそも、対話はとにかく無益なものではない。

昨日からエンチクロペディの自然哲学の所をよみ出してゐる。私の論文のテーマ「ヘーゲル」は先づ動かないであるであらう。

授業の出否について色々考へてゐる。來学期から出席するのが二三ある積りである。今考へれば四月、講義の取り方が悪かった。しかし今更何とも仕方がない。あのとき

はあのときの最良いと思ふ所をしたのである、今は今で出來るだけの事をすればいい。

 

○十二月九日(月)  晴 寒

ヘーゲル。川上君の所。日高君不參。

午後、植物園散歩。入浴。

夜、白山の夜店に行き電球を買ふ。

論文「ヘーゲルの辨證法」。一つのヒポテシス。

夫れ々々の段階に応じて、夫々の問題が現実的に問題となる。一定の問題は其の地盤が熟さなくては問題とはなって來ないのである。

本年四月の講義の取り方は今になってみれば誠に惡かったのが感ぜられる。尤も之は今年だけでは勿論なく、昨年からの制約をもうけてゐるのではある。しかし今となっては何とも仕方がない、現在の最善の道を取るより外ない。云はば私の取り方は一年後れてゐるとも云へる。この失敗は畢竟自分独りの世界の中に入って良い気になってゐたからである。

 

○十二月十日(火)  曇 寒

出。ノートが早くて腹が立つ位である。

午から。委員室→靑木堂→講演会。文学部大講演会。三時から、二十九番敎室。五時まで。杉森孝次郎「機械と社會変化」。姉崎正治「機械文明と人間問題」。

今年も既にに色々の行事めいたものは終った。これで年の暮である。

夜に入って雨が降る。近頃は屢々雨が降る。

下田は私にとって良いスパーである。しかし一寸圧迫され気味である。

三年に入ってから大いに頑張って、急きょ今年の欠を補はふ。しかし之は空虚な想像であるのだらうか。それとも昨年の事を考へて、今年は之を以て大いなる進歩とし以て安んじてゐるべきであるのだらうか。

Naturphilosophieのmechanikがおへる。全くむつかしい。

 

○十二月十一日(水)  曇小雨 寒

朝、桑木さんの授業の前に研究室に行って、桑木さんに下田の事等を話す。斯波さんがゐる。

午後、ヘーゲル、日高君の所。ここにおいても私は又見事に占領した。

私は私の生活の革新を企てた。生活と云っても特に学校との聯関の方におけるそれである。卽、ヘーゲル以外の輪講を止して授業にもっと出るのである。第二学期の私の生活が私をしてこの革新を必然的ならしめる段階に迄到達せしめた。この事は些事のやうであるが、決して偶然であるのでもなく、気樂に出來た事であるのでもない。而して今年の中は過渡であって、來年から整頓した統制の下に、新なる行途に入る。

今日は色々型がついて愉快である。「フッサール」と「社会学」の何れへ出るかと云ふ事は最私をてこずらせた。

 

○十二月十二日(木)  曇 暖

授業其他のこれからの変化次の如し。月曜、一時~三時、木村敎授、印度仏敎思想史概説、出席。火曜、ハイデッガー、止める。水曜、八時~十時、宇野敎授、宋代哲学史、出席。木曜、八時~十時、吉田敎授、敎育史概説、出席。十時~十二時、戸田敎授、社会学槪論、出席。従って十時~十二時、伊藤助敎授、哲学演習、止める。

社会学の授業に出る。つまらないものである。しかし出ようと思ふ。今年は今日で終り。

コーヘンに出る。私はここにおいても占領したに近い。これは小さい事ではない。今迄私は一つ一つ克服して來た。フッサールは遂に克服出來なかった。今迄やうやうこれだけ克服したのが私の持前である。次に学校を克服したとき、これで一先づ段落がつく。面白いから当分出ようと思ふ。

小山よし子さんに松本の方へ行って貰ふ。夜行で行く。

留守に太田兵三郎氏が來たさうである。

 

○十二月十三日(金)  曇 暖

私は一つのヒポテシスを立てた。・・・・をことすること。

神経衰弱で連日ねむれない。疲れる。

何だからっくりしたやうな、のんびりした気持になる。今年もおへるのか。今学期は緊張の連續であった、常に張り切ってゐて、たゆむ時がなかった。

午前、ラスク。今泉君は未だ來ない、よく治らないとみえる。五十八頁までやる。

呉講師、今年中休講、委員室から研究室に行く。鬼頭君がゐる、斯波さんに名簿の事を頼む。正門の所で今井に逢ふ、しばらくぶりである。そこから太田兵三郎氏を伺ふ。途中日高君の所に寄る、不在。太田氏の所へついたのが三時、三時半兵三郎氏かへる、四時半辞す、兵三郎氏が家までついて來て、紀平さんの「哲學槪論」をかりて行った。

來学期の課題は学校を克服することである。

 

○十二月十四日(土)  曇 暖

午前、桑木さんの演習の時、日高君に下田弘君を來年度の学友会委員に推薦した事について、皆に報告して貰ふ。午、委員室、橋本君に名簿について話をすます。出さんの演習、今日で終り。色々かたがついて気持がいい。

出さんの演習の後、井上君を訪ふ。一時間程話す。

非常に疲れてゐる。

父の病気が良い方に向ったと手紙が來る。

現代の哲学については今年で一先づ一段落とする。一寸づつのぞきちらしただけではあるが、必ずしも無所得でありはしない。來学期はヘーゲル専一と云ふ位になる。

しばらくぶりでエンチクロペディをよむ。

 

○十二月十五日(日)  曇 暖

十一時におきる。十二時間程ねむったかしれない。が、まだ甚だ疲れてゐる。しかし昨日よりは可成り元気がいい。

フェノメノロギーやエンチクロペディをよむ。エンチクロペディは今学年中にらくにおへるつもりである。ヘーゲルは実にえらい奴である。近頃は考が段々ヘーゲル的になりつつある、卽ヘーゲルが私の中に生長しつつあった。

小橋君が長い手紙をよこす。

 

○十二月十六日(月)  曇小雨 暖

朝、日高君が今日用があってヘーゲルに出られないと断りに來る。十時半に漸く川上君が来る。二人でやる。

木村敎授の仏敎に出る。彼のことばがうつろにひびく。ラスクをやめる事に話がまとまる。学校へ出ようと云ふ事の必然性が尚はっきりして來た。

近日の思索はヘーゲルが材料となってゐる。

ヴェロナールをのんでねる。今年ののみ仕舞。

 

○十二月十七日(火)  曇雨 暖

出さん、伊藤さん、二つとも今日で終り。出さんはオーガスティン終り。伊藤啓夫氏、橋本、野木にあふ。靑木堂→研究室。いやにあたたかくて気持がわるい。

父の病気がわるいので早くかへって來いと云ふ手紙が來てゐる。明日の夜行でかへらうと思ふ。それで夜、矢島の所へ行って、米の金を拂ったり、本をかへしたりかりたりする。道でよく小和田武紀君に逢ふ。

これで今年の活動も終りである。

 

○十二月十八日(水)  晴後小雨 暖

桑木先生、終り。クエナ時代が終わり、次からはベルリン。

午後、桐谷氏を訪ふ。しばらくゐてから一緒に出る。白十字に寄る。又歩いて一高前でアヂューをつげる。

片付けたりする。非常に疲れてゐる。

細雨の中を出る。醇郎が指ヶ谷まで來る。十時五分飯田町駅発。汽車の中でdramaticな通信をかいて、矢島に出す。

 

○十二月十九日(木)  曇 寒

汽車の中で鷗外をよむ。上諏訪あたりからうつらうつらとねむる。乗り越しさうになって、松本でおりる。家に着く。父の病狀は昨日あたりから快方に向ふ。

日中殆ねてゐる。疲れも可成りぬけたらしい。夜、父が食慾のための藥をのんで返って気持の惡くなったのを、私の手の平療治で治す。

夜の二時頃からねむる。

桐谷氏、羊吉さん、秋子さんへ小さい家で葉書をかく。

 

○十二月二十日(金)  雪後雨 寒

十時半、おきる。晝寝をする。未だだるい。夜は十時頃寝る。

父はよくなって來る。

井上君が葉書をよこす。

 

○十月二十一日(土)  曇 寒

九時におきる。大分元気が出た。いささか肥えた。

走り使ひをする。代書人みたいな事をする。鴎外をよむ。

学校の夢をよくみる。

父の病臥。熱が下る。ねむれるやうになる。順調である。

 

○十二月二十二日(日)  晴 寒

今日も同じ。走り使ひ。手の平療治。――病人はどうも我儘になる、苦しいから無理もないが。長い病気をしてけんきょでゐられる人はえらい。父の病も一月になるので、母の方が疲れが出て來る。母が実に骨折である。

上條医師を頼む。今度の薬はいいらしい。

病気を媒介して色々の事を考へる。

「キング」十二月号をよむ。Anfgehohenes  mementとして。

 

○十二月二十三日(月)  晴 寒

今日も同じ様。川上君から葉書が來る。矢島に又小さい字で葉書をかく。東京の家へも書く。午後、岩崎先生御夫妻が來られる。

父の用で藤田氏を問ふ。途中鈴沢氏の新しい家をみる。本屋の店頭で雜誌の新年号をのぞく。面白い論文等が散見する。

学校の夢をしきりにみる。今の生活は面白くない。その代りに鈍くなり、健康になった。消化が甚だよくなった。

父は段々いい。胃も徐々によくなる。

 

○十二月二十四日(火)  晴 寒

同様。陰気な、むしろ陰惨な生活である。藤田氏が來てくれる。父、漸次よくはあるがはかばかしくない。どうもいぢけていけない。大病をした事がないので、あんなけちな病気でペシャンコになってゐる。

鴎外をよむ。「靑年」其他。中々面白い。鴎外の勉強はとにかくえらい。

 

○十二月二十五日(水)  晴 稍暖

笹岡美喜次(?)氏が来る。橋本勝三君から手紙が來る。

歸鄕以来一週間、その間父の病はどうもはかばかしくない。あんなにstolzになってゐる間は治るまい、すまないと云ふ気持がおこらなくては駄目である。看病するものの事を考へなくてはいけない、母が気の毒である。手の平療治を毎日する。

鴎外をよむ。『涓滴』『高瀬舟』。

炬燵にねると、時々目が覚めていけない。

鴎外の文章はリズミカルである。とにかく名文である。

 

○十二月二十六日(木)  晴 寒

午後、中沢壽三郎君が来る。父、同様。胃腸専門の岩附医師を頼む。明朝姉達三人が來る。

岩波文庫版「うたかたの記其他」。女学生向だなと思ったら可笑しくなった。本の裏にH.yajimaと書いてあったからである。

今のやうなノーノーとした生活をしてゐると、何か思ふ存分な事をしてみたくなる。どうも腕が鳴ると云ふ所である。が、今は雌伏だと思って我慢してゐる。しっかり勉強しなくてはならないと思ふ。観念的にではない、辨證法的にである。

今井、五味重から葉書が來る。

 

○十二月二十七日(金)  雨後雪 寒

朝、姉等三人が來る。父のと自分のとの葉書をかく。病人はどうもよくない、神経を病むからいけない。夜、小林氏から江馬式をやって貰ふ。

小口治男君が來る。河西健兒先生が一寸寄られる。

手の平療治を家中のものに施行する。

 

○十二月二十八日(土)  小雪 寒

八時五十六分松本駅発。茅野下車。鬼場まで自動車。造之助氏の所へ行く。年貢を受取りに來たのである。中々もって來ないので泊る。

 

○十二月二十九日(日)  雪 寒

午前中に大体仕事が片付く。十二時少し前に辞す。矢ヶ崎から自動車。十二時三十七分茅野駅発。松本駅下車。車中で有賀勝に逢ふ。感じの惡い奴である。彼とか宮坂とか云ふ奴はansechaltenするより外仕方がない。

かへってみるに、父は前より元気になってゐる。しかし自分では惡いと思ってゐる。どうも神経衰弱がかうじて來たとみえる。困ったものである。

 

○十二月三十日(月)  曇 寒

父が鈴澤先生に來てほしいと云ふ。醇郎が頼みに行く。午後、來て呉れる。父も少しおちついたやうである。

父、姉、百枝、和郞に手の平療治を施す。姉の脊椎はどうも惡い。

風を引いたかもしれない。

Tokyo “sick”に近い。学校、本鄕、友達等の夢を毎晩みる。而もalzu gegenwärtigである。

「老人」から葉書が來る。

 

○十二月三十一日(火)  曇 寒

年始狀をかく。醫者の拂ひに行く事三軒。餅を切る。

午後、父、寢床代へをする。宮沢さんから三人、それに小使いさんに來て貰って無事成功する。これは一つの進歩である。前を思へば随分よくなったものである。

夜、平林醫師來る。鈴沢さん健兒さんの推薦されるだけあって名医らしい。食塩注射三本をする。横臥が出来た。それに父が信頼してゐるのでいい。多くの医者を代へ、多くの失敗を重ね、最後にこの医師におちついたかの如くである。昨日今日は一轉機である。鈴沢さんの二十分程の話が随分有能であった。

散髪をする。

十二時を通過して起きてゐる。除夜の鐘がなり出す。一九二九年はかくて終った。

 

昭和四年自由ノート

 

一月十四日  風気

三月十四日  風

五月二十八日 三木「自然の辨證法」

七月七日   藤原

四月二十四日  風

八月十三日   風

十月三十一日  風

 

 

昭和三年度の學年を送る。思想からみれば随分変りもしたし進みもした。このいみでは意味深い年であった。しかし学校の方面では失敗であった。大学生活の三分の一として、其の意義を十分果したとは言ひえない。学校の授業を十分利用しえず、授業から所得を引き出しえなかった。つまり主観的勉強の方では相当実りがあったが、客観的勉強の方では不成功に終ったと言ひうる。しかし九回の試験において一年間を清算する事によって、客観的の勉強にも進みえる端緒をえたやうに思ふ。自分勝手な勉強ばかりでなく、授業を中心とする勉強も亦面白く且つ意義があると云ふ事が分った。それで來学年は十分に授業も利用しうる事を期待する。(三月十四日)

 

 

伊藤先生  面会日 金曜(木曜)

学友会室当番 一時←正午  木曜

出先生   面会日 火曜夜 七時→

藤原さん  授業 土曜  十一時→十二時

月曜  一時→四時

 

三木敎綬  社會哲学槪論(哲學槪論)

現象學研究(認識論)    月 三~五

ヘーゲル 法律哲学(演習)

パルメニデスとヘラクレイトス(古代中世哲学)

宗敎の哲学的解明(宗敎学) 水 三~五  4

目方

二月五日    十二・四〇〇

三月二十三日  十二・三五〇

十月二十日   十二・六〇〇