○三月一日(日)  晴 寒

岩波茂雄氏來訪。

午後、矢島さんを訪ふ。娘さん三人だけゐる。お父さんと話す。矢島家ではお父さん最よし。佐藤千重子さんの件。

百枝は家中で一番馬鹿也。

家にゐるは不愉快也。

「現実へ」の原稿、「ヘーゲルに於ける自然」十五枚を書き上げる。一寸した事でも、一つの仕事が片付くと気持が良い。

 

○三月二日(月)  晴 寒

短篇小説集の如く夢を見る。

松本さん、論理。

その後で、今井登志喜氏を訪ふ。不在。上って、奥さんと息子さんに會ふ。博人氏逃亡の頃の話を、しんみりと聞く。五中の事を少し聞く。歸りに新宿の三越で、雛人形を見る。

夜、御禮のため守口武次氏を訪ふ。不在。奥さんに會ふ。歸りに矢島さんにより、昨日の原稿を渡す。

今日から〝哲学雜誌〟の原稿にかかる。

 

○三月三日(火)  晴 暖

九時半起床。

午後、松村さんの爲の敎科書を買ひに神田へ行く。一々発行所へ行く。疲れる。

 

○三月四日(水)  雨 暖

出氏宅ヘーゲル會。雨が降るので止さうかとも思ったが、それでも出かけて行く。今日のメンバー、出隆氏、川田熊太郎氏(細谷恒夫氏缼席)、金子武藏氏、須田豐太郎氏、坂田芳衞氏、小松攝郎氏、法政の某氏。今日の所面白し。Beobachtung der naturのnaturdingeからdas organischeへ行く所。――哲学科で五人落ちたとの事。十三人卒業。

 

○三月五日(木)  晴 暖

午後、又、神田へ行く。「考へ方研究社」で藤森良藏氏に會ふ。

淸水昌子さんの事。百枝が口軽くしゃべるからいけない。どうせ母には分らないから、だまってゐる事にする。

明日の試験二つ、伊藤さんの演習と講義、の準備をする。一日では中々忙しい。

 

○三月六日(金)  晴 暖

朝、お茶の水で伊藤さんに會ふ。それから受驗。伊藤さんの演習と講義との二つ。其の間、紀平さんの宅を訪ひ、聴講證明を貰ふ。又、今泉君と彼の下宿へ行く。

試験が終へてから、フローベルの本の事で坂田氏を問ふ。少し長く話す。

七時、新宿駅に日高君に會し、伊藤さんを訪ふ。ハルトマンの飜譯の件。岩波書店に交渉して貰ふ事になる。今日は伊藤さんに縁のあった日也。今度は新宿で中村屋による。不二屋の方が感じよし。

 

○三月七日(土)  晴 暖

昨夜、雨。あかつき近くまでねむれず。

午後、松村さんを訪ふ。時間等の打合せの爲。当分火、木、土の午後二時~四時とする。來る十四日から。

シリング抄譯。こんな一寸したものでも中々樂でない。

 

○三月八日(日)  晴 暖

午食後、飜譯の事で日高君が來る。直ぐかへる。

午後、新宿へ散歩に行く。三越八階で雜誌等をよんだり、音樂を聞いたりする。白十字に入る、日曜なので兵隊さんがゐる、東京の兵隊さんは弱い訳だと思ふ。紀の國屋に入る。

夜、母と姉と三人で矢島さんへラヂオ(琴)をききに行く。直ぐ後から醇郎が來て、今泉君が來たと云ふのでかへる。おそくまで今泉君と話す。

その後で、Schilling-Wollngの原稿を調べ、一先づ出來上った事とする。しかし、原文が可成り分りにくい上に、うんとちぢめたので、あれだけよんだのでは意味は分るまい。明日一日で原稿用紙にうつす。出來上りは第三稿也。

 

○三月九日(月)  晴 暖

午後、矢島羊吉君來訪。漫談に時を過す。彼、就職運動効を奏せず、学校の方はあきらめたさうである。

その後で、松本壽美子さんの論理。問題をやらせてみるに、未だよくねれてゐない。敎へる事は甚だ面白し。一髙受験生よりは論理の方が面白いであらう。

夕食後、昨日の出來上った原稿を原稿用紙に一気に寫す。十五枚になる。一時間四枚位のもの也。十二時出來上る。

家で世話のやけるは姉一人也。家中の心配と迷惑を一人で引受けてゐる。

 

○三月十日(火)  晴 暖

午食後、研究室を訪ふ。昨日の原稿を佐藤さんに渡す。斯波さん、伊藤先生に會ふ。一寸らっくりする。それから、事務室に行き、聴講證明四枚呈出。次に明道館を訪ふ。佐藤氏不在。去る。

夕食後、母と藤森良藏氏を訪ふ。夫妻とも不在。小野圭治氏を訪ふ。色々話す。勇さんから家庭敎師の口を一つ貰ふ。

 

○三月十一日(水)  曇 暖

午後、長屋さんの試驗。カントとシェーラーを比較して書く。凡そ之で試驗なるもの終り。唯し口述試驗はあり。これで一段落。彌生に入るよりいとも忙しかりし。

試驗後、今泉君を引っぱって新宿の三越に行く。姉に頼まれた扇を買ふ。結婚する人にお祝に送るのだと言ったら、賣子がてれてゐた。

夕食後斯波さんを訪ふ。前の我等の白山の家の直ぐ隣也。何か仕事を引っ張り出さうとしたが出ず。それから出さんのヘーゲル會。

何處も就職難也。むやみに頼んでも卑下されるだけ。世話をしようと言ふ親切を持つ人でなくては頼んでも駄目也。就職難の爲でもあるまいが神経衰弱也。

 

○三月十二日(木)  晴 風、寒

午後、入浴。それから矢島氏訪問。借りてゐた多くの本や雜誌を返す。三月なれば、色々形を付けねばなるまい。

午後七時、駒込驛、日高君と會す。長屋喜一先生を訪ふ。飜譯の件。話がついて辞す。大塚で一服して、それから王子電車でかへる。

 

○三月十三日(金)  快晴 風、寒

午後、又新宿散歩。三越八階は時間をつぶすによし。

夕方、大塚へ母と祖母とをつれて花電車を見に行く。

夜、守口先生來訪、來診。

今泉君と一週二回希臘語をやる事になる。來週より生活が少し整調になる。

昨日論文合格者発者(ママ)あり、哲学科十二名合格、と。従って六名おちた訣(ママ)也。

 

○三月十四日(土)  晴 寒

午後二時~四時。松村氏。英語と幾何。割合に面白し。兎に角第一回としてはうまく行った方也。

それから、学校へ行く。電車内で三井田君に會ふ。論文發表をみる、十二名は誤り、十五名合格也。落ちたのは三人。

夜、笹岡末吉氏を訪ふ。色々の事を話す。別にうまい事もなし。

澪子氏健康ならば、我が家は餘程明るくなる。

 

○三月十五日(日)  快晴 暖

午後、高橋穰先生を訪ふ。Hegel u.p.w.を語る。それから今井登志喜氏を訪ふ。就職の事等を話す。

夜、母と姉とについて三越に行く。

 

○三月十六日(月)  晴 暖

昼、松本さんのお母さん來訪。壽美子氏風邪の爲休む由。

夜、石澤次夫氏が長屋さんの住所を聞きに來る。

疲勞を感じ、何だか靜養を欲する事切なるものがある。明日は口述。

○三月十七日(火)  曇後雨 暖

午前九時より口述試驗。到着順に行はれ、僕は三番目。聞かれる事二十分強、穏當な質問也、伊藤さんがいやにおとなしい。

午後、松村さんに行く。代數と幾何。永い間數学なるものをしなかったので調子が出ず、つまづきさうでひやひやする。英語や初等數学をやるもあながち無駄にもなるまい。

夜、長坂端午君來訪。

あちこちで不愉快な言葉を聞く。神経過敏の爲であらうか、気に障る事甚し。

松村氏が機會となり數学に興味を覚えるに至る。人間はさう専門の事ばかりしてゐる必要はない。ヘーゲルも良い加減で一段落して良いであらう。

 

○三月十八日(水)  晴 風、寒

午頃、日高君に電話をかける、そして來て貰ふ、色々話をする、口述の事、それから謝恩會の事の手筈を相談する。一緒に矢島氏を訪ふ、碁を打つ。

夜、出先生宅のヘーゲル會。或個所の文意の取り方について金子武藏氏と爭ふ所あり。

神経衰弱で憂鬱也。姉の事、祖母の事、和郞の事、何れも心痛む。轉地休養を慾す。

学問はあせっても仕方がない。気のみ多くして多くの事に手を出すのは宜しからず。したい事は多いが、或物は思ひ切って棄てて、勉強は一応集中的でなくてはならない。

 

○三月十九日(木)  曇小雨 寒

謝恩會について午前十一時日高君が矢島さんへ電話をかける約束により、矢島さんへ行く。お父さん獨り居る。十一時半電話がかかって來る。二十四日に大体きめる。

午後、松村さん。英語、代數。中々よく出來る。力は未だ足りないが、頭は良いらしい。

夕食後、謝恩會に就いて、伊藤敎授桑木敎綬訪問。伊藤さん、二十四日でもよし、従ってそれにきまる。ハルトマンの飜譯について、岩波氏に云って呉れたさうである。今年中に出た方が商策上都合がいい、と。馬力をかけて早く訳すがよからう。桑木さんを久し振りで訪ふ。種々の話をする。

 

○三月二十日(金)  晴 暖

午後二時、今泉君の所へ行く。希臘語をやる事を企てて、この日第一回。ボールの本による。僕が今泉君に質問をする形でやる。日高君も來合せる。謝恩會の通知を出す。

一髙に行き、大久保さんに頼まれた北大医科の受験番号を見ようとする。未だ出てゐない。本鄕通りで桐谷氏に會ふ。

「哲学雜誌」の校正刷が速達で來る。松村さんから速達が來て、明日休みにして呉れと。

 

○三月二十一日(土)  晴 暖

午頃、羊吉君が萩餅を持って來て呉れる。

午後二時から松本さん、論理。むつかしい問題がよく出來る。論理の方が面白し、無理もない。明後日、もう一回で終り。

姉の如く弱くては、生きてゐても余り甲斐もないであらう。活働(ママ)出來なければ生きてゐても仕方がない。

この日九時起床。珍しく早し。晝寢をする。近頃神経衰弱かうかうに入ったとみえる、ねむれない事甚し。睡眠薬をのまぬ日殆なし、それでもねむれない。何とかして治さなくてはならない。轉地でもしたらいいと思ふ。

 

○三月二十二日(日)  晴 暖

大久保さんに頼まれた受験のかんとくに行く。六時、百枝におこされる。一高前、七時少し過ぎ。どうも人が少いと思ったら、百枝が一時間間違へたのであった。止むなく棚澤で本等よんでゐる。八時、大久保靜枝さんと大久保一幸氏とに會ふ。九時少し前、一幸氏を送り込む。時間があるので、靜枝さんと万藤で話す、中々しっかりしてゐる。十一時、一幸氏出て來る。一幸氏に食堂を敎へなどしてから別れ、靜枝さんと新宿まで一緒に歸る。

午後、新宿を散歩する。

夜、母や姉と話す。後で不愉快なるは常の事也。

今の社會は矛盾を含む。この矛盾があらゆる領域に矛盾を生ぜしめる。我々は何をしてゐても矛盾の中に存してゐる。従って徹底的の生活は今の世の中にはない。

 

○三月二十三日(月)  晴 暖

午、一寸過ぎ金子直一氏夫人來訪。例の如し。

午後二時から松本さんの論理。今日で最後、早くすませて無駄話などする。今迄で十回也。この仕事之で完結。

「現実へ」の原稿の校正刷、印刷所から來る。

夜、笹岡末吉氏來訪。之又例の如し。この頃夕立。

大久保さんから昨日の禮としてパインアップルの罐二個を貰ふ。

大久保さん宜し、百枝などより余程しっかりしてゐる。

各人は成長するにつれて自分の道を歩む。自分と同行しうる人のみ道連れたりうる。親でも兄弟でも道が違へば別れねばならない。

百枝には「思想」無し。

 

○三月二十四日(火)  晴 風、寒

午頃、一寸用件で矢島氏を訪ふ。

二時~四時半、松村氏。數学は時々つまづく。

松村さんの所から明道館へ行く。佐藤さんに會ひ、借りて居た本を返す。

明道館から燕樂軒へ行く。謝恩會。

謝恩會の後、日高君、今泉君、川上君と中島ベーカリー。家へ歸ったのが十一時半。

初等數学もほっておく事五年。五年たてば可成り忘れるものである。

古いものは桎梏になる。新しいものは常に正しい。新旧の矛盾は避け得ない。この矛盾に苦しむは人の運命である。社會の変化の甚しい時には、この矛盾は殊に激しい。

 

○三月二十五日(水)  晴 暖

天氣が良いので荻窪行きを志す。先づ山岡克己氏を訪ふ。丁度出掛ける所。久し振りで會ふ。寄らずに一緒に河角廣氏を訪ふ。不在。借りた本を夫人に返す。それから武藏野をさまよふ。小澤泉氏を訪ふ。不在。上荻窪をずっと歩いて女子大学のあたりまで行く。この辺に來る事も久し振りで、家の多くたったのに気付く。西荻窪から省線で歸る。疲れる。

係るい多きは苦勞也。

 

○三月二十六日(木)  晴後雨 暖

この日、のぼせ、だるく、気持惡し。

午後、松村さん。その後、神田へ行く。神保町で羊吉氏に逢ふ。一緒に丸善に行き、又三省堂にキタスを訪ふ。

夜、羊吉氏と長屋さんを訪ふ。

おそく守口先生來診。祖母、心嚢炎の傾向。

我家の前途を思ふ。經濟的基礎を思ふ。祖母を思ひ、父を憶ふ。

 

○三月二十七日(金)  晴 暖

午後三時より、今泉君の所で希臘語。

神田へ廻り、北スに會ひ、用を果す。

夕方小澤泉君來訪。例の緣談を話す。

その後で、珍しく今井が來る。

未だ少し気分悪し。軽い風であらう。

 

○三月二十八日(土)  晴 暖

昨夜ねむれぬまま本などよんでゐる中に朝になって了ふ。朝、妹と醇郎とが湯ヶ原に行くのを、高田の馬場驛に送る、午前七時。朝飯を食べてから、用で矢島氏に行く。早いので皆がびっくりする。九時に歸り、少しねむる。

午後二時~四時。松村氏。大分要領もよくなった。さうまごつく事もない。しかし一高受験生の英數を敎へるのは、我ながら少し勇敢である。

夜、守口氏來診。祖母、ろくまくの如し。

大久保靜枝。

我家の前途又多事である。

 

○三月二十九日(日)  晴 暖

午後、百瀬甫氏を成城學園住宅地に訪ふ。前以って時間は言ってある。六年振の會見である。快く迎へて呉れる。一時間強、色々の話をする。就職の事も頼む。郊外宜し。

夜、小石川林町に篠原助市氏を訪ふ。誰も居ないらしい。古在由重氏を訪ひ、色々の話をポツリポツリと一時間強も話してかへる。――この留守に日高君が飜譯を完成して持って來る。又その後で今泉君が來たさうである。一寸惜しい気がする。

人の悪口を云ふは聞きいいものではない。云ふ人はさう悪意をもつのでもなく、気軽に云ってゐるのであるが、聞く方からは気持が悪いものである。つつしむべき事にこそ。

 

○三月三十日(月) 晴 暖

午後、今泉君と希臘語。今後この日にする、この日語学デーなり。語学は学問に入る関門であるから仕方がない。日高君が來る。「飜譯」の「序」を持って來る。これで完成。見事仕事をしとげたはえらし。今泉君が日高君に拾円の家庭敎師を世話をする。

高島平三郎先生の所へ寄る。病臥中。名詞(ママ)だけ出して歸る。留守中に今井と矢島が來た由。

夜、矢島茂子夫人來訪。永く話す。

どうも多忙である。

日記も十年近くも書いて來ると、書くは樂しみで、腹ふくるるのが治り、書かぬは苦痛である。

 

○三月三十一日(火)  曇小雨 暖

八時起床。十時より卒業式。小野塚總長の演述あり。正午山上御殿で茶菓の饗応あり。この日色々の人に會ふ。

午後、松村氏。

ハルマトンの爲の原稿用紙を見る。三省堂。それから新宿では三越、ほてい屋、松屋、紀の國屋。

学士会入会の葉書を出す。――明日からハルトマンの訳をするので忙しいと思って、矢島氏を訪ふ。久し振りでゆっくり話す。

仕事の上における良いパートナーがあればいいと思ふ。勿論後輩であるを要する。それも生意気であらうか。

祖母、ろくまく也。甚だ快復は難い。更に又困難な時が來る。

彌生は多忙なりし。