○十一月一日(日)  晴 暖

飜譯訂正、(Ⅲ、10)を終り、(Ⅲ、11)にかかる。

午後、外出。帝都座、心の日月。よろし。併せて菊池寛のうまさも分る。神田へ行って買物をする。

夜、矢島夫人と春子さんが姉の見舞。

風邪以來生活が乱調に流れる。生活と健康との建て直しを要する。風も直ったんだから。

明日より坂上氏の哲学槪論が始まる。其の豫習をする。Windelband : Einleitungを使ふのだが、どう云ふ具合にやったらいいかを考へる。

 

○十一月二日(月)  晴 凉

午頃川口氏來る。

午後二時頃金子直一氏來訪。秋子さんが腦膜炎らしいと。實に可愛相な事をしたもの也。

坂上氏。㐧一回。別に大した事なし。歸りに美彌先生の所へよって履歴書を置いて來る。

出先生から速達が來る。金子氏が休むので代りにやってくれと。

 

○十一月三日(火)  晴 凉

「私この頃憂鬱よ」。

(Ⅲ、11)を了し、(Ⅱ、2)にかかる。

午後矢島氏を訪ふ。僕の原稿ののってゐる「信濃敎育」十一月号出來。

四賀光子氏、姉の見舞。

午後、裸になって日光浴二十分。過ぎたかな。

この夏は休息十日だったのだから足りない譯だ。

明日のヘーゲル会の豫習。むつかしくて弱る。聽いてゐるだけなら樂だが、主演はつらいかな。

 

○十一月四日(水)  晴 暖

午前、ヘーゲルを調べる。

午後、神田へ行く。クーノー・フィッシャーのヘーゲルを探す。無し。市電で新宿へ行き、小田急により坂上氏へ行く。

坂上氏より歸り、夜は出先生宅のへーゲル会。僕が飜譯する。人に会って快し。

 

○十一月五日(木)  雨 寒

一日中在宅。今の時間割よろし。奔走する日は大いに奔走しても又一日中休んでゐられる日のあるはよろし。十一月より生活狀態が変る。坂上氏の増したこと、出先生の会で僕が譯をする事になったこと。従って又忙し。飜譯終へたにあらねど残り多からず。

昨日日高君來れりと。

夕方守口先生來診。秋子さん悪しと。望み少しと。守口さんの診断は当るから恐ろし。実に可愛さうなことをしたもの也。

飜譯の續き。この仕事もそろそろ二ヶ月になる。だいぶ飽きて來た。

それでも秋は身がしまる。だるい事がさうない。

 

○十一月六日(金)  雨 寒

飜譯(Ⅱ、2)を終はる。この辺り譯よろし。

午後、本鄕へ。本屋を一廻りする。研究室へ寄る。

由良哲次氏の獨文の著書を紹介する事を斯波さんから賴まれる。

それから坂上氏。やはり槪論だけ先にやって了ふ事にする。

由良氏の紹介の爲、飜譯一時中止。

併し考へ直してみるに、ユラの〆切が十五日だから十日間をユラの爲にのみ費すは惜しい。それで飜譯と平行にする事にした。(Ⅱ、3)にかかる。

活潑に。健康に。

伊藤さんより出さんの方が人間味がある。伊藤さんは頭はいいが包容力がない。出さんの方が私には親しみ易い。

 

○十一月七日(土)  快晴 暖

午後、三代川氏。後でレコードをかけて聽く。

日本橋へ廻る。丸善でクーノー・フィッシャーを買ふ。十九円也。白木屋で一服する。

夜、矢島氏を訪ふ。入浴、目方十二貫五〇〇匁。

秋子さん、結核性なりと。百枝今夜松本へ立つ。

就職運動は広く賴んでも必ずしもよからず。世話をする気のない人にはいくら賴んでも仕方がない。

回顧するに、九月に入って休息十日。上京後もしばらくは健康好調を續けてゐたが、段々乱れて來た。之は漸次神経の衰弱して來た事を示す。休暇に健康を築くは勿論必要だが、日常も注意を怠ってはならない。健康策を講じよう。つとめて入浴し、水をかぶる事。日光浴をする事(この日日光浴三十分)。ねる時すっかり着物を着かへる事。運動。

今井が一回つかまったさうだ。大久保さんが行方不明ださうだ。陰惨になって來た。

 

○十一月八日(日)  晴 暖

午前、勉強。飜譯。由良氏の著をよむ。獨逸語で書いてあると云ふだけで、結局大した事はない。

午後、中村しづさんと平林氏を連れて外語へ劇を見に行く。

夕飯後、百枝から電報が來る。秋子さん、明日があぶないと。今夜の夜行で松本へ行かうかと思って、金子さんの所へ様子を見に行く。別にしらせなし。結局松本へは行かぬ事になる。秋子さん位善良な人なし。天は無慈善なるかな。

 

○十一月九日(月)  晴後曇 寒

(Ⅱ、3)終了。(Ⅱ、4)にかかる。

午後、坂上氏。片道五十五分を要す。Windelband:Einleitungを用う。今迄四回にして漸くProlegomenaを了す。

彼氏、分り切った事をむやみに考へて質問する癖がある。この次から哲学史(安倍)のカントだけをする事にする。この仕事三十円では、電車賃を出すにしても高くない。併し不景気だから仕方がない。

(Ⅱ、4)終了。少しいそぎ過ぎた嫌ひはある。この辺りが最難所である。

 

○十一月十日(火)  快晴 暖
この日忙し。明日の坂上氏と出氏との二つの豫習。
午後、新宿へ行く。「靑春圚會」、非常に面白し。個人としてはやはり川崎弘子よろし。
これから後は少し儉約しよう。
近頃しきりにのどが(からだが)乾く。疲れるためであらう。從って水の類をのむ事大也。
フェノメノロギーのむつかしいには弱る。

 

○十一月十一日(水)  晴 寒
午後、坂上氏。この日は獨逸語を敎へる。
夜、出先生のヘーゲル會。主演の方が面白し。
其の代り、よく調べねばならない。
○十一月十二日(木)  曇 寒

朝、百枝松本より歸る。秋子さん、命旦夕に迫れりと。
午後、下田弘君を訪ふ。丁度川上繁男君と落合う。よもやまの話をする。それから福島さんの家の前の貸家をみる。せまし。次に本鄕通りを歩いてゐる時、桐谷信太郎氏に逢う。そこで白十字、本鄕會館で久し振りのだべりをなす。
炬燵をかける。
午後九時電報が来る。秋子さんが午後七時になくなられたと。可愛さうな事をしたものだ。
○十一月十三日(金)  晴後曇 寒
午前、濱よしゑさんが來る。
午後、坂上氏。専門だから面白し。カントをする。
夜、由良氏の論文の紹介を書き始める。
姉、又惡し。秋子さんの事で神經を使ったため。全く困りもの也。

 

○十一月十四日(土)  曇後雨 寒

午前、由良氏論文の紹介。

午後、哲學會の秋期講演會。ヘーゲル百年祭記念。非常な盛きやう。一時から七時近くまでかかる。

円タクで飯田町駅へ行く。七時三十九分で着いた秋子さんを迎へる。一緒に金子さんの御宅へ行く。十二時近くに辞す。

姉一昨日より惡化。近頃は病気になれば皆死ぬやうな氣がする。

 

○十一月十五日(日)  晴後曇 暖

午前、由良氏の論文の紹介出來上り。十三枚。

午後、飜譯の(Ⅱ、2-4)を持って長屋先生を訪う。不在。原稿だけを置く。それから田中長男氏を訪う。しばらく色々の話をする。歸りに又長屋さんの所へ寄ってみる。不在。

夜、カントの豫習。むつかしくて弱る。

姉、よろしからず。一人病人があれば、一家の幸福は全然破壊される。

 

○十一月十六日(月)  曇 暖

午前六時起こされる。姉よろしからず。守口さんへ電話をかける。午前十時守口さん來る。病は胃腸より神経衰弱に轉じたとみえる。入院説もある。守さんは樂觀説らしいが、どうかと思ふ。やりにくい病気だ。心配でならない。

うまく治ればいいが。

午後、坂上氏。カントを講ずるのだから大したものだ。

 

○十一月十七日(火)  快晴 暖

午後、金子さんへ行く。秋子さんの告別式。三時から四時迄。四時辞して三代川さんへ行く。三代川さんで夕飯を御馳走になる。歸宅したら長田よしゑさんが來てゐる。尚、夜秋子さんの追憶談を皆でした由。出られなくて残念であった。皆の追憶談を聞いたり、又自分でも話したかった。三代川さんをのばして残ってゐればよかった。

姉、宜し。この分なら大丈夫だらう。嬉し。昨日は沸滅で、今日は大安也。

 

○十一月十八日(水)  晴後雨 寒

午後、坂上氏。又、獨語を少し敎へる。その後でだべり。彼氏、ブルジョアの息子だけの所はある。断然こちらも押しの一手に出ること。

夜、出先生のヘーゲル会。ただしこの夜ヘーゲル記念の祭り。すきやきで夕飯の御馳走になる。

その後おそくまでだべり。我黙々として諸家の説をきく。腹ふくるるわざ。

明日より生活が常態に復す。

てんから和尚にはなれない。自分の出來るだけの事を確実に摑んで行けばよろしい。

 

○十一月十九日(木)  曇 寒

この日一日休養デー。近頃の忙しかったこと。

午後、外出。学校へ行く。研究室に寄って鶴田君等と長い間話しする。鶴田君溫

厚にしてよろし。

高田平三郎氏を訪ふ。旅行中にて不在。

古在由重氏を訪ふ。不在。

夜、矢島氏を訪ふ。お茂さんと夏子さんのみ。

くひちがふ日はみなくひちがふものなり。

我この頃ソーシャルになれり。多くの人に會うはよろし。廣さの重要なるを感じる。

十一月中に飜譯完了の豫定を立つ。今度こそ本當に一気に片付けて了うこと。十二月からは大学院学生会の論文にかかること。

目方十二貫四〇〇匁。減る傾向也。

 

○十一月二十日(金) 快晴 寒

十時半、珍しき來客に起される。それを小林直人君となす。父の霊前にお經をあげて呉れる。其の後の事などはなす。零時半かへる。

午後、坂上氏。カント。彼氏いささかガンコすぎる。

惡しき懐疑ももってゐる。もっと素直なるべし。勿論いい所も十分あるが。

夜、壽三郎氏。

姉、よろし。

不眠症を直すために原則として毎日入浴する事を決心する。取りあへずこの日より実行。

今更飜譯をコツコツと見るのがいやで仕方がない。併し目をつぶって片付けて了うであらう。

 

○十一月二十一日(土)  曇小雨 寒

(Ⅳ、5)の訂正にかかる。面白からず。

午後、三代川氏。

金が拂底につき活動せず。

明日は空いてゐる。何処へ行かうかな。

來年の三月までには何か講義する職を得たい。併しないからと云って悲観しはしない。外に仕事はある。就職運動をするには今まで賴んだ事のある人に更に賴む外なからう。別に新しい人も一寸見当らない。

 

○十一月二十二日(日)  晴 寒

昨夜珍しく薬をのまずにねむれる。

飜譯、訂正。(Ⅳ、5)終了。

午後、外出。先づ橋本文夫氏を訪う。不在。今泉三良君を訪う。在宅。しばらく色々の話をする。

去って斯波義慧氏を訪う。在宅。ざんじにして去って金子直一氏を訪う。秋子さんの話をきく。可愛さうな事をしたものだと思ふ。夕飯の御馳走になる。歸りに又橋本君を訪う。留守。橋本君のお母さんとしばらく話してから辞す。

(Ⅳ、6)にかかる。

 

○十一月二十三日(月)  雨 寒

午後、坂上氏。彼氏どうもへ理窟をこね勝ちでいけない。夕食後一緒に帝都座へ行く。「白い姉、后篇」と「辨天小僧」。余り面白からず。

 

○十一月二十四日(火)  曇後晴 暖

(Ⅳ、6)終了。

午後、外出。先づ早稻田郵便局。次に市電で大塚へ行く。藤森良藏氏宅の告別式に參す。それから日高氏を訪う。飜譯(Ⅳ、5、6)を渡す。次に二人で岩波書店に岩波茂雄氏を訪う。ハルトマンの件。神田の不二屋で日高氏と話す。伊藤教授、どうも親切が足りぬらしく思はれる。弟子の事だから、さう形式的の態度に出ずともよからうに。バスで高田の馬場駅に到り、回數券を買う。五時過ぎ歸宅したら橋本文夫君が來てゐる。おそくまで色々の話しをする。

就職運動の事など。

この日一日中腹痛。――入浴は疲れを休め、身心を整調す。――この頃忙し。

 

○十一月二十五日(水)  晴後曇 寒

午後、坂上氏。彼氏、ブルジョワの息子だけあって我儘也。卽、自己肯定的にしてドグマティカーなり。

併し中々鋭い所もある。

夜、出氏宅のヘーゲル会。

昨日の橋本君の話。國学院の事。甚だ惜し。

水曜は甚だ疲れる。

坂上氏の仕事は併し大変自分の勉強になる。

 

○十一月二十六日(木)  晴 暖

午後、外出。京橋なる南胃腸病院へ往診料を拂ひに行く。四拾円也。歌舞伎座を外から見る。入りたい気もしない。松屋へ入る。レコードを聞く。

夕方歸宅。

(Ⅳ、7)に取りかかる。一気に終了。飜譯ももううんざりする。した。

(Ⅳ、8)に取りかかる。同じく終了。ただし二十七日午前一時二十分也。これで日高氏の分は終了。

 

○十一月二十七日(金)  曇 寒

午後、坂上氏。カント、理論哲学終了。漸くにして。

これからプロレゴメナをやる事にする。計畫は段々変る。(安倍能成氏、近世哲学史に依る。)

坂上氏から百瀨さんを訪う。夕飯の御馳走になる。

三代川さんから、明日試驗だから休んで吴れと云ふ速達が來る。日高氏へ(Ⅳ、7、8)を速達で送る。

本当は飜譯がいやになった。「序文」等を終り、(Ⅱ、5)に取りかかる。併しこれからは一々原文と照合しない事にする。譯文だけを見て、必要に応じて原文を参照する事にする。人を相手の仕事の方が面白い。

夜中に急に寒気がし始める。計ったら七度五分。ねる。寒気と熱気がある。

 

○十一月二十八日(土)  雨 寒

朝、八度一分。午、七度五分。夕方、七度三分。

チブスぢゃなからう。風だらう。だるい。咽はなんともない。疲勞のためだらう。

夜、七度。風でもないらしい。咽も鼻も何ともないから。だるくて、咽と口が乾く。箪に疲勞の爲のみの熱かもしれない。皮フを丈夫にしておいたので風にならなかったのかもしれない。休養する事。

ひるね。

 

○十一月二十九日(日)  快晴 暖

朝、六度。午、六度四分。夕方、六度五分。夜、六度五分。

未だだるし。

午後、頭痛相当甚だし。

今度の熱は疲勞の爲のみらし。風抜きの風也。

糖尿病にあらずやとの疑起る。

アルバイトをせず、ねたりおきたりして休養してゐる。

 

○十一月三十日(月)  快晴 暖

病気の方はよろし。できものがうったうし。

夜、守口先生に診て貰う。診た所では惡い所なし。併し糖尿の疑を持たれたらし。明日傳研へ行って、検査のこと。

アルバイトを始める。カントを調べる。

父の夢をみる。悲し。

折に觸れて秋ちゃんの事を思ひ出して、淋しく思ふ。

この月は仕事が多すぎた。疲れたのも無理もない。

飜譯の原稿の残り全部、引用頁の附け方を改める。

目を通さずにこのまま長屋先生の所へ送って了はう。どうせもう一回最後に見ねばならないのだから。今見直す元気はなくなって了った。