中島喜久平といっても知る人は大変少ない。彼については五味幸男『ああ博浪の槌とりて―人間中島喜久平と諏訪の育英』(1995年11月3日発行)が唯一の資料だろう。中島喜久平はいさのの生家の斜め向かいの家で明治16年6月生まれた。いさのは一歳年上である。大変優秀な子供であったらしい。そして一高に試験の成績一番で入学する。同郷の藤原咲平が二番だったという。一高の同期では鶴見祐輔がいた。文武両道に秀で剣道をやり、また文章家でもあったが、惜しい事に大正3年8月2日32歳で結核で死去する。この手紙はいさのの結婚を聞いてお祝いの書信であるがいさのはすぐ隣の家の美人で頭のいい娘として喜久平にとっては気になる存在であったことは確かだろう。武平のことも当然知っていて彼なら十分信頼に足る人物だと保証をしている。
太平洋の長風に一介書生
之右袂を掠められ候ても
六万余とや云わるる毛竅
者一時に動きて自ら徹
底之禅師もて任ずる
身も倉皇兩の手を懐
にし達磨之爲めに嗤
笑せられむずるを諏方盆
大之天地にこれ尽く寒
帯之御手に抱かれて晨
に朔風長林枯木より
一群之小雪を吹き飛ばし
夕に鵞毛片々として来り
人は鶴氅を着てたち
て徘徊すらむ今日此頃
起居の御有様如何ニ御
座候や生清たる青
葉之候よりは殊に和田
守屋之山々なる御心尽
しにあづかり朝夕惑
詠いたし居り候を胡砂
ふく風に委ねて天
涯五十里之あぶた
御すまへ候旅の身と
なりては徒に眼前之
百事に尋ねて花紅
葉に付けてもかりの便
聞えあげず平に御ゆるし
下され度候此頃
風に承り候へば宿音青雲
之志新玉之初空を
晴れし様子の支姫子松
千代之春を契らせ給ひ
候と承り実ニ芽出
度極ニ御座候笹
岡氏由来風眸英
俊人格之鞏固なるを
金剛石之如くに御座候
いよいよ琴瑟相和して益
之未来幾千載候青
史を飾らせらるべく候生成
また善良なる隣人を得
て一臂を添へられ候心持
いたし候今や風飅
飃たれども方寸之御胸
定めて萬紅之花を点
するものあるべく候いよいよ御
身体御大切に異日
之大成を期せらるべく候
以上
東寮一
喜久平
二月一日
いさの様