昨十一日一番にていもじや御兄上様作平様の御父上と二人ニて御上京昨夜ハ私の宿へ御とまりになり候
今日昨日と東京見物それから習志野の作平様の居らる処へ行きそれより蚕玉神社とかへ参詣せられ十七日にハ御帰国御預定のよしに候どうかして此日御一所に御願して私も帰宅いたし度存じ居候
昨日差上た手紙ハ御覧下され候哉と存じ上候いもじやの御都合ハ廿日前ハいけぬよし廿日過ぎと存じ候 何もかも帰国の上にいたすべく候
徳衛様の御葬式の御様子ハ昨夜こまこまと承り候
当地ハ今日等ハ非常に暖かニて袷にてもよろしきほどニ候
昨夜承れば中々未だ御地ハ御寒きよし併志日にまし暖かにならんと存じ候
奉天占領につき市内非常の御祝ニて今日等のにぎわしさは云ハん方之無候丁度よき時御出京と存じ候
いもじや御兄上様ハ東京ハ始めての由さぞかし御めづらしき事と存じ候今は早一日にらくに来らるゝ事ニてあまり金もかゝらず(御兄上様等ハ富士見迄歩行で一■)候へば折りを見て御両親様も是非是御出京御すゝめ申上候
先ハ一寸用事のみ申し上候
かしこ
十二日
いさ乃
御両親様
御前に
(明治38年3月19日付いさの宛笹岡初之丞の礼状が米沢村から来た。この初之丞が作平の父だろうか。「御兄上様等ハ富士見迄歩行」とある。富士見まで中央線が通じたのは、37年12月21日、38年11月25日、岡谷まで開通(茅野市史下巻219頁))(記2021年1月31日)