1949年1月21日

 私あてのお手紙 拝見いたしました。
お母さまのお気持をお察しして泣けて泣けて困り
ました。東京の母が昨年夏山形に来ました時
も「主人の書くもの」について大変心配してゐました
といふのは昔のあのだんあつの事を考えて
私ども一家が不幸な目にあつたら、かわいそう
だから、といふわけでした。 お母さまのお心も
どんな気持でいらつしゃるかお察し出来ます が
又同時に主人の考えもよく分つてゐますので、
私としてはどうしてよいか分らず 胸を痛めております


 とにかくお手紙などではとても〱言いつくせない
書いたとしてもお互に誤解し合うばかりのよう
に思えます お目にかゝつたらお互に分り合える
のではないでせうか。
 選擧の話になりますがお母さまと一緒に共産黨に入れた黨員
は社会黨に入れました。社会民主主義をかゝげる
社会黨に。そしてその次は共産黨よりはずつと強力な社
会黨に期待したのでした。でもこれは社会黨内閣
が出来てみて 裏切られた事を知り、この腐敗
だらくした、矛盾だらけな日本を救うために


は共産黨でなければ駄目だと考えるように
なりました。
 私としては夫婦として主人についてゆけない
ことは淋しい事ですし、どうかしていろ〱知りたいと
思つて忙しい事を時間をつくつて本をよみました
そして分らない事 疑問なところは随分きゝました
普通の新聞では分らない事をアカハタで知る事
もありました 世界は今 大きく二大陣えいに分れ
てゐる事、歴史は資本主義社会から社会主義
社会え移りつゝある事、共産黨は資本主義


に反対してゐる事なども分りました。
 國民の一割の資本家をまもる資本主義より
九割にあたる大多数の勤労者の立場をよくする
社会主義の方がよいと思ひます
言論、思想の自由は憲法でみとめられてゐます
から 非合法時代のようなだんあつは絶対に
出来ません 東京の母が心配してゐるような事は
まづないと思うのですが。
実は昨年暮に山高の細胞のものが度々
来てすゝめられその熱にうごかされて入黨した


のでした。でも一人で入黨するのは淋しいからと
大野先生と度々夜おそくまで相談した上でとう〱
一緒に入黨することに決心なさつたわけなのです。
大野先生は生徒課長に選ばれて生徒からも信頼
されてゐる方です 今度も多数の生徒の支援を
得て入黨したわけで校長先生さえ「ゴーイングマイウェイ(前進)
しつかりやつて下さい」とはげまして下さつたそうです
この頃社会黨と共産黨の合流運動が盛んに
行われてどん〱強力なものとなり昔の共産黨のよう
な狭い考え方でない新しい黨に生れかわろうとしてゐます


 今度弘前高校と水戸高校の哲学教授も
入黨されました。諏訪中学から松本高校を経て
東大哲学科に主人より一年あとに入つた方で
(醇郎さんのお友達だそうです)山田坂仁さんと
いふ方は(現在も哲学界で活躍されてゐます
が)ずつと前から黨員だそうです
長野県では共産黨支持者が全國で一番多い
そうです。とにかく同志がとても多くなり、主人のところ
には毎日げき励やお祝の手紙がきてゐる有様
です。決してきが狂つたのではありませんから


どうか長い目で見てゐて頂きたく私からもおねがいいたします
近い将来にきつときつと分つて頂ける時がくることゝ思います。
 お母さま御心配になつていらつしやる教職を追はれ
る事は絶対にないと思います。追いきれたものでは
ありませんし、若し追つたとしたら生徒が黙つてゐない
でせう。神戸大学では進歩的の人を集めるの
だそうで大勢の意見で決つたのだそうでこの事は
心配ないそうです。
 小松先生まだ入黨してなかつたのですか?と
言つた方があつたそうです 書いたものによつて


皆知つてゐますから、こゝまできたのは
やむをえないのではないでせうか。
 本当にやさしい気持でお母さまを思つてゐ
る主人があらゆる困難をふみ越えて入黨の決心
をしたことは生やさしい事ではないと私には思えるのです
共産黨に一致したことを唱え 又文に書きして
ゐながら入黨を拒んだら、それでは空念佛を
いつてゐるのかと、ひきよう者と見られてしまうのです。
その主人の立場もどうぞお考え下さつて此の度
は御許し下さるようおねがいいたします。


 お母さまに一つのおねがいはどうかどうか
主人の眞念を信頼されて はづかしいとか情ない
とかお思いにならないで 大きな気持でいらつしやつて
頂きたくおねがいいたします 東京の家では和幸
が一人、はつきりと主人を支持してくれてゐます。
お母さまに分つて頂きたいばかりに、又少しでも
安心して頂きたいばかりに、生意気の事を申し
たかも分りませんが、どうぞおゆるし下さいませ。
              一月廿一日       のぶよ
お母様え