目次
     
一 発 端
二 それから
三 提訴問題
四 教授会
五 評議会
六 三・一六以後
七 公開審理

 「世の中には、眞実を語られては困る人間がおります。黒い物を黒いといつてもらつては困る。角い物を角いといつてもらつても困るというような人たちが、いかなる時代にもあります。」
 「眞実を語られては困る人たちがその時の政治的、経濟的、宗教的な現実の支配力をもつていて、眞実を究め眞実を語るものを弾圧し迫害するのである。そしてこれは、ひとり古い時代だけ
  の話ではなくて、実に、現代においてもあり得ることなのであります。」
                                                             (末川博・『学問・思想の自由のために』112-3ページ)

 レッド・パージのテスト・ケースの一つとして全国の視聽を集めた神戶大学事件わ、事件の発端から今日まで一ヶ年近くを経過した。まだ問題わ解決しないのであるが、今迄の経過を記録しておくことは必要であろう。他の大学の類似の事件に対しても参考になるかと思う。これが『神戶大学事件の記録』を書こうと思い立つた所以である。
 まず、なにより大事なのわ眞実を語ることである。併し、世の中にわ眞実を語られれば困る人達がいる。そして必死になつて眞実を蔽い隠そうとしている。
 私が眞実を語れば、必ずや神戶大学当局わ、大学の権威をきずつけるとか、大学を誹謗するとか、云うであろう。今迄も私が何か云えば、当局わ必ずそのようにしてけちを附けて來た。私が沈黙を守り、奴隷的に服従していれば、当局わ上機嫌であり、万々歳であろう。私も縁あつて神戸大学に來たものであるから、学内の問題を公にしたくわない。併し、それでわ眞実が蔽われて了うのである。更に、「小松問題」わ、云うまでもなく私個人の問題でわなく、歴史的なレッド・パージが集中的にそこに現れている問題である。従って、この問題の本質を明かにすることわ、日本の大学と学問・思想にとつて重大であると云わねばならない。
 私わ眞実を明かにせねばならない。世の中にわ偽るペンもあるが、私のペンわ偽らない。

     一 発 端
      1
 昨年七月イールズ声明が出てから、全国的にいわゆるレッド・パージの問題が起った。新潟、山梨等で辭職勸告が行われたことは周知の通りである。私の場合わ、差当つて新制大学えの登壇停止の形をとつた。
 昭和二十四年九月五日私わ住吉分校において今井文科長に面会した。今井氏の話によると、今学長が文部省え行つているが問題わ中々厄介である、新制大学の教授として文部省え申請してない、それで新制大学における講義わしないように、とのことであった。勿論、私は新制大学の教授として入学式の日に学生にも紹介され、又時間割にも私の時間が組込まれてあつた。それが突然の登壇禁止で甚だ不可解のことでわあるが、事情が明かになるのを待つことにした。この時わそこまでわ気が附かなかつたが、後から考えれば、私と学生との間を遮断したことわ、学校としてわ甚だ巧妙な方法であつた。既にこの時から当局わ計畫的であつたと考えられる。
 この登壇禁止、これが問題の発端である。これを把握しておくことわ甚だ重要である。戸ち、問題わ学内からでなく、学外から生じたということである。從つて、大学の自主性とか権威とか云つてみた所で問題わ外部の圧力によつて起つたものである。このことを始終念頭におかないと、後のさまざまの問題を理解出來なくなる。そして、根本の問題と末梢的問題とをすりかえられて了う。例えば、提訴問題の如き派生的問題が根本問題であるかのような錯覚に陥る。問題の出発点に当つて、このことを確認しておかなければならない。
 なお、順序として、この九月五日の問題が生ずるより前、私がどのような事情で神戸え移つて來るようになつたかを説明しておく必要がある。
      2
 昭和二十三年十月二日、私わ所用で山形から東京え行つた歸りに仙台市に寄つて武市健人氏を訪問した。その時氏から、自分も神戸大学え行くが、君も一緒に行かないか、との話しがあつた。私わその時口頭で承諾の返事をした。勿論、正式の返事としてわ山形高校の諒解を得てからでなくてわ出來ないのであるが、私の意志を武市氏に告げたのであった。武市氏わこの旨を直ちに神戸え傳えたと見えて、田中学長から次のような書面が到着した。

 昭和二十三年十月十日
    神戸大学設置準備委員会委員長
     神戸経濟大学長 田中保太郎官印
   
   小松攝郎殿
  拝啓 秋冷の候愈御淸穆の段賀し上げますかねて武市健人氏を通じて神戸大学文理学部専門
  講座擔当の教授としてご協力方お願いして居ましたところ御快諾賜り御厚意有難く深く御禮申上
  げます
  新設学部のため御指導御盡力の程お願いいたします
                                    敬具
 
 私わ山形えかえり、山形高校長北岡馨氏にも話してその諒解をえた。そして、私わ「承諾書」を神戸大学に送つた。「承諾書」によつて私は神戸大学に束縛され、他の大学からの招きがあつても断らねばならない。事実そういうこともあつた。それだけ神戸大学にも責任がある訳である。又、神戸の方からわ予科長服部英次郎氏からも学長と同様の書面が來た。山形高校の方でわ趣旨わ諒解したが、田中学長から山形高校長宛の公文書を要求し、やがて公文書が着いたので、それによつて初めて手続きをした。
 なお、この頃新制大学の予算が減らされるという話しがあつたので、私の屬する倫理学講座が予算の都合で削られことがないだろうか、と当時の予科教授山本英一氏に尋ねた。山本氏わ、服部英次郎氏および今井林太郎氏に問合せた上、そのようなことわないと思う、併し、万一そういう場合にわ哲学の方に廻す、と返答された。
 これだけの順序を経て、神戸大学え行くことが決定された。
 なお、ここで共産党の問題に触れておきたい。私が日本共産党に入つたのわ、昭和二十三年一二月二七日である。そのときの党の方の話でわ、マルクス主義の立場に立つ人わ是非党の組織に入つてほしい。併し党も大きくなつたから凡ての人を機械的に政治的に引廻すようなことわしない、特に科学者・文化人わ自由に専門の領域で働いて貰う、専門の領域で立派な業績をあげ、特殊の才能を十分にのばして貰うのが党の役目である、ということであつた。私も、自分わいわゆる政治的活動家になるつもりわない、また政治的にわ能力もない、と云つた。唯、私わマルクス主義を正しいと考えているので、理論的に云えば、組織に入るのが当然であると云える。こういう所で意見が一致して党の組織に入ることになつた。この辺の事情わ日本共産党山形縣委員長の長岡太刀雄氏がよく知つている。その後の私の活動も学問的・文化的なものであつて、純粹の政治的方面にわ関与しえなかつた。神戸え來てからも、その通りのままにすぎた。
 ところで、山形から神戸え私に関するさまざまのニュースが歪められて傳えられている。個人的のことに亙るが、誤解もあるので一応事体を明かにしておく。山形から神戸えニュースが傳わるにわ直接間接種々のルートがあるようであるが、その途中で事実が歪曲される。問題としてわ道徳問題と政治問題の二つが主なものである。前者としてわ、私が道徳的に悪者であるということ、後者としてわ、私が甚だ政治的であるということである。
 道徳問題についてわそのルートが分かつているが、それわ爲にする宣傳である。自分で云うのわおかしいが、私は道徳的問題で非難されたことわ殆んどないと云つていい。思想上の立場わ正反対の人でもこのことわ認めている。山形え行つて調べてみれば分ることである。私がしばしばトリックにかかつた所をみても、いかにいわゆる馬鹿正直であるかが理解されるであろう。
 次の政治問題についても主なルートは分かっている。これも甚だ歪曲されている。既に述べたように、私わ政治にわ能力もないし、したがつて自らいわゆる政治活動をしようとも思わない。これわ政治を軽んずる意味でわなく、能力のある人わ大いに政治活動をしなければならない。しかし私位の年輩になると、自分の能力について見当が附く。私わ孔子と同じように十有五にして学に志してから、今日までその志を変えたことわない。今日でも学者たらんと志しているのであつて、政治的活動家や小説家になりうるとわ思わない。しかし、書齋に立籠つて本を讀むだけでなく、教育活動・文化活動をするのは、学者の重要な仕事であると思つている。
 終戦後の山形縣の文化活動にとつて私が重要な役割をしたことわ事実である。それが入党したことと結び附けられて、大変な政治家であるように傳えられている。私わ教育活動・文化活動に関してわ自信がなくわないが、政治的にわ無能であることを自らよく承知している。世の人が、共産党員わ何れも政治的に一律に引廻されると考えたら認識不足である。学者や文化人を包容して自由にその能力を発揮させるのが共産党であつて、フランスの如きわその良い例である。この点で他の政党と異る所がある。
 以上の外、党の問題に関してわ、神戸側になお二つの誤解があるようである。一つわ、私が党員であることを隠していたかのような言い方、他わ党員であることは悪いことであるというような偏見である。前の問題でわ、私わ党員であることを宣傳しもしないし又隠しもしない。神戸でそのことを知つていたか否かをも私わ知らない。知つていてもいなくてもそれわどうでも良いことである。又、神戸大学と契約したときわ党員でなかつたが、その後党員となつたから事情が異る、從つて始めの契約にわ從わなくてもいい、という風の言い方もされているが、それわ奇怪なことであつて、共産党に属しているからと云つて何の差別があるべきでわない。この問題にわ、第二の、共産党わ悪いものであると頭からきめてかゝる考え方が根本にある。これも偏見というよりい。事実としても、党員の大学教授わいくらでもいる。しかも優秀な人が多い。
党の問題わこの位にしておこう。
      3
 さて、年があけて昭和二十四年になつた。一月二十六日、神戸大学から学長、文科長の投票用紙が來た。学長に田中保太郎氏、文科長に今井林太郎氏を選んだ。
 二月二十六日、服部英次郎氏から書面が着いて、予科教授として四月から來てほしいとのことであつた。
 予科教授の問題についても山形高校の校長並に教授会の承認をえて、三月二日服部氏に承諾の返事を出した。
 これによつて差当り神経大予科教授として赴任することになつたのであるが、新制大学の方わ取消された訳でわない。予科が二十五年三月末日でなくなることわ初めから分かっていたことである。
 服部氏からわなるべく早く來てほしいとの話があつたので、四月にわ引越すつもりでいた。ところが、三月に長女が盲腸炎にかゝり、入院手術したが、少し手おくれになつたので、一ヶ月程入院していた。こんな訳で急にわ移れないことになつたが、四月に神戸で樺氏、武市氏と私の三人で講演会をするというので、一応それにだけ行くことにした。
 四月二十日に長女が退院し、私わその日の夜行で立つて神戶え向つた。講演会わ四月二十三日であつた。講演会終了後、職員食堂で晩餐会があつた。その時、学長が最初に云われたことわ、「この大学わ全国一就職率がいい」ということであつた。この年関西わ櫻がおくれて、丁度この頃満開であつた。会が終つての歸り途、六甲台から神戶の街を見下せば、靑い灯赤い灯が眞珠を鏤めたように輝き、何と美しい所であろうと感嘆した。
 五月二日、山形の家えかえつてみると、三人の子供がはしかでねていた。これが全快するまでわかなり日を要するので、神戶えわ行けるときに行くより外ないと考えた。
 五月十四日附で豫科教授の辞令が出た。それから子供の様子とにらみ合せながら、引越しの用意をした。十数年住んでいたので荷物が多く、半分を国の信州え、半分を神戶え送ることにした。そして、漸く六月二十日に一家五人山形を立つことが出來た。荷物の着くまで吹田の弟の所におり、六月二十七日に本山村の縣営住宅に入つた。豫科の授業わ一回しただけで夏休みになって了つた。
 私わ大阪で生れ、奈良で小学校に入り、その後北え北えと行つたが、関西にわ常に懐かしさを感じていた。そんな事情もあつて、神戶の話わ卽座に承諾したのであつた。そういう個人的事情わとにかくとして、私わ及ばずながら神戶大学のために全力を盡したいと思つた。神戶大学を東京や京都の大学と匹敵するような良い大学とするために努力したいと思つた。何もはるばる山形から神戶まで喧嘩をしに來た訳でわない。私わ爭を好むものでわない。然るに、事志と違い、爭わざるをえなくなつたのわ甚だ遺憾に思う所である。
 そういう事体を生ぜしめた原因が間もなく生じた。それわ問題のイールズ声明であつて、新潟における講演が七月十九日、新聞に出たのが二十日の朝刊である。そして第一次申請から私を削つたのが八月一日である。何と素早いことかと云わざるをえない。而もそのことを私が知つたのわ九月五日である。八月下旬には私は国えかえり、上諏訪で湯に入つたり、諏訪湖でボートを漕いだりして悠々していた。なお、八月一日とわどういう日であるかと云えば、七月三十一日まで服部氏が予科長であり、八月一日に学長が予科長になった。八月一日にどういう手続きで削つたかについても疑問があり、服部氏わ「敬遠の四球で送られた強打者」であった(『神戸大学新聞』臨時号、昭二五・七・一五)。
 これより先、七月二日に入学式があつたが、その時のことわ服部氏の述べられる通りである(臨時号)。
 「入学式につづいて行われた文科生の紹介の席には、小松氏も出られたが、今井氏から初年度ジュニア哲学の
  担当者として紹介され、また特に武市氏不在のためか、哲学科の代表という意味で、その抱負を述べることを求
  められた(これは小松氏が最近着任でよく事情を知らないと断られ、私が代つて弁じた)。」
 そして、時間割にも、私の哲学の講義わ組込まれていたのであるが、九月五日新制大学授業開始の日に登壇禁止となり、問題が勃発するに至った。

  二 そ れ か ら
      1
 九月の始めと云えば、何処からともなくレッド・パージの噂が流れて來た頃であつた。東大でわ何十人、何大学では何人リストにのつているというような噂が傳えられた。そして新潟、山梨等でわ辞職勧告も行われた。問題の根源わ分らない点もあるが、イールズ声明と考え合せれば、大体の見当わ附くというものであつた。
 学生の方でわ早速私の問題をとり上げ、調査にも努力し、学生大会をも開いた、そして、学生大会の席上、「この問題を探知した自治会は常に正確な資料の蒐集に努力したが各有力教授でさえ此問題を聞知せず、実に意外な感に打たれた。それにもまして、’学長、事務局長並びに数人の教授の意見の差異は自治会としては一部教授の間に暗々裡に行はれたものとしかとれない。」と学校当局の非民主的な点が衝かれた。結局、「学校当局はイールズ声明に便乗した進歩的教授の追放を計つた」と断じ、次のような決議をした。
 (一) 学校の責任を徹底的に追及する。
 (二) 小松氏を卽刻申請すること。
 (三) ビラ・ポスターに関する告示の撤回。
  (『神戶大学新聞』第三号、二四・九・一〇)
 九月十五日、学校「学生自治会との連絡協議会の席上、次のような趣旨の学生部長談が発表され、又正門の所
に掲示もされた。
 (1) 小松教授の申請を一應控える事態に立ちいたつた理由としては定員配置の爲からであるが、それと共に当時発表された「イールズ声明」に対して慎重考慮すべき必要を認めたからである。
 (2) 小松教授をジュニアーの哲学概論の講義に当てる予定であつたが、学問的見地よりいつて「概論」は他の教授に代える方が適当である。
 (3) 同教授の身分については目下大学に於いて慎重考慮中であるから、学生は大学を信頼し流説に惑はされないような行動が望ましい。
  (神戶大学神戶教養部学生自治会小松問題対策委員会「神戶大学『小松問題』眞相報告」)
 これわ掲示された原文その儘でわなく、要旨である。全文わ輔導課あたりにあると思う。その文中に、申請から私を削つたのわ八月一日であるということがあつた。
 この「談」においても、定員配置、イールズ声明、学問的見地の三つの理由があげてある。併し、本当の理由わ一つであつて、他わつけたり、或わこじつけである。学校当局わいつでもこういう方法をとつている。項目を二つか三つあげ、Aから押されゝばBえ逃げ、Bから押されゝばCえ逃げ、いつでも形式論理学的に逃げ道をこしらえてある。
 なお、『神戶大学新聞』(第三号)に次のような「学長談」も発表された。
 「小松教授の問題に関しては元來同教授は神戶大学シニアー課程教授として招へいせられたものである。しかして同大学ジュニアー課程の時間割の編成に関して開かれたるジュニアー協議会の席上元來小松教授と内定せる哲学講座は同
 教授の思想傾向に鑑み、入学早々の学生に対してはむしろ幅の広い武市教授に担任を変更してはどうかとの話があり、しかして予算の関係上大学専任教授としては旧制高校、予科の教授に関しては五割の制限あるにより一応小松教授を
 他の全教授を申請せし第一次申請には除外した。しかしてこの際特に考慮せしは例の客觀狀勢であり、今申請して小松教授が却下された時は、同教授に対してお気の毒だとの配慮より出たものにして、決して申請の件を決定すると言ふ
 事を決定しなかつたに過ぎない。今なお討議中にて申請不申請は未だ決定しないのである。(文責任記者)」
 要するに、根本の理由が「イールズ声明」「客觀狀勢」にあること、『眞相報告』にもあるように、出発点において、「客觀狀勢に便乗し、大学の自主性を喪失した」ことが重要である。又、「思想傾向に鑑み」というような特高的態度にも注意しておく必要があろう。この点わ後に発展してはつきり現れてくるからである。武市氏についてわ服部氏が「比較された武市氏自身もさぞ迷惑なことだらう」(臨時号)と云われるが、その通りである。武市氏わ九月初旬にわ仙台におられて不在であつて、神戶えかえられたのわ九月二十日頃だつたと思う。そして今井文科長から、「小松氏の代りに講義をしてほしい。」との申入れがあつたが、武市氏わそれを断つた。理由わ、「自分が講義をすれば、小松氏に対する処置を承認することになるから。」というのである。これわ九月二十二日に私が武市氏から聞いた所である。
 なお、この「談」でわ申請不申請未決定となつており、学長のパンフレット『小松教授申請問題について』が云うように「昭和二十五年度にまわすことに決定」わ誤りである。これわ服部氏も指摘する通りである。
      2
 九月五日に始まつた問題も九月二十日頃で一応平静になつた。來年三月までわまだ時日もあり、又全国的な動きを見ようという関係もあつた。学生の方も「壁新聞事件」等があり、形勢觀望の形になつて行つた。
 神戶大学新聞部わ、「第三号」の「学長談」に対し、「小松教授談」を求めた。それに応じて私の書いたものが「第五号」(一一・一〇)に掲載された。

小松教授談詰
 今回の問題に関しては、私としても言うべきことが多いのであるが、神戶大学新聞部から談話を求められた機会に、重要な点だけを述べることにする。
 山形高校教授であつた私に、新制神戶大学へ來るようにという交渉があつたのは昨年の秋のことであつた。その時の話では専門課程の倫理学の教授としてであつて、私も承諾し山形高校校長の承認もえて、神経大学学長と山形高校校長との間に正式に契約が成立した。その後今年に入つてから、新制大学発足より前に神経大予科教授として來てほしいとの話があり、これも承諾した。そして五月に予科教授としての発令があり、六月に家族とともに神戶へ移つた。この場合新制大学の方の契約に変化のないことは当然であつて、來年三月終了するところの予科教授だけのために神戶へ移って來ることはありえない。
 ついで八月、新制大学一年生の授業時間表が作成されたが、それには哲学概説の担当者として私の名前が載つていた。ところが、九月上旬新制大学の講義が始まるに当つて、私は登壇停止を命ぜられた。理由を聞いてみると、新制大の教授として私を文部省へ上申していないということであつた。それによつて私の名前が新制大学からけずられていたことが判明した。けずつたのではなく、上申することを決定しなかつたのだといつても事実は同じである。私の名前は去年の秋から載つていたはずであつて、ある時期にけずられたものである。その後、けずつたのは八月一日であるという発表があつたが、そこに二つの問題が含まれている。第一は、私の名前が八月一日にけずられながら、私には九月まで知らされなかつたということである。時間表の問題がなかつたら、その後長く私はこのことを知らなかつたであろう。私は始終つんぼ桟敷に押しやられ、私の問題が私の関知しない所で決定されている。次に、第二の問題は、私をけずつた理由が私には納得出來ないということである。法治国の国民として考えて、何ら客観的理由を発見することが出來ない。客観的状勢ということがいわれるが、それによつて学校の責任が免れるものではなく、今後もまた然りである。私が疑問に思うのは、学校が客観的状勢に便乗し、主体性を失うことがありはしなかつたかということである。
 この問題が表面化するにつれ学内では学生の意志表示がありまた学外の人達も注目し始めている。これは当然のことであつて、この問題はたまたま私に関して起つたのであるが、その性質上一神戶大学の問題ではなく日本の大学と学問に、さらに日本の文化に関係する事柄であるからである。またこの問題が公になるのを恐れる向もあるようであるが、臭い物に蓋は東條式である。問題は起るだけの原因があるから起るのであつて、合理的に解決すれば問題は自然に解消するものである。
 さて、九月の末ごろから、私の場合と同じあるいは近い問題が全国的に起つて來た。それによつて、私の問題の原因も察知しうるに至つた。それは正しくないことであつて、私に対する処置も不当であることはいうまでもない。法的にも違憲の疑があり、かつは人を遇する道としてヒューマニズムにも反するものである。殊に、最近学術会議及び大学教授連合が声明を発したが、それは全く正しいのであつて、その点からみても私に対する処置の不当であることはいよいよ明かである。神戶大学としては、最初の公約の通りに、私を新制大学の教授として文部省に申請すべきである。文部省は、人事に関しては大学に干渉しないと度々言明している。神戶大学は文部省に氣兼ねする必要はなく、大学としての主体性を確立せねばならない。
 以上で私に関する問題は終るが、日本の大学にとつて今や事態は重大である。現在の段階は大学の自由、学問の自由が守られるかどうかという所である。ここで退くならば、我々は再び「歴史の暗い谷間」へ轉落するであろう。今は教授も学生も一緒になり、学長をも含めて、学問の自由のためにたたかわねばならない秋である。それによつて神戶大学の自由も守られるであろう。(一〇・二五)

 この「談話」に対して学長から今井文科長を通じて申入れのあつたのわ次の事だけであつて、それ以上の説明わ何もなかつた。卽ち、「小松教授の名を削つたのわ第一次申請からであつて、元から削つたのではない。最初に文部省えした元の名簿からは削つてない。從つて第二次申請で申請することわ可能である。その点『談話』わ事実と相違する」。私わそういうこまかいことわ知らなかつたのであるが、事実に相違するとあれば、その点わ承認し、訂正した。訂正する約束をしたのわ、事実と相違するという点だけであつて、全文でわない。全文を訂正すると約束したことわない。併し、大事な問題わそんな所にわない。
 私の「談話」の趣旨わ、この問題わ私個人の問題でわなく、日本の大学にとつて重要なことである、という点にあり、「大学の自由を守れ」というアピールであつた。所が、この中心問題わ全く顧られず、無視され、枝葉末節だけがつゝきちらされた。学校当局わいつもこういう方法をとるのであるが、末梢的な問題をつゝきちらすのわ、肝腎の問題から目をそらせんが爲である。「大学の自由」という根本問題をとりあげる意志がないだけでなく、それを避けている。從つて、問題を個人の問題にすりかえ、大学を誹誘するとか反抗するとか云つて揚足とりをする。皆一緒になつて大学を守ればいいのに、それをしないから、神戶大学の自由わ失われて行くのである。私の云つたように、現に歴史わ再び「暗い谷間」に入る危険性が生れている。再び『戦没学生の手記』を編集するような事態の來ないことを保証出來ない危険性が生まれて來た。
      3
 この年の秋にわ辞職勸告も各地の大学で行われ、レッド・パージの問題も盛んに議論された。そして、学術会議、学教授連合、南原総長等の声明が出て、一応の結論に達した形となつた。そのためか、噂のような大規模なパージわ表面化せずにすんだ。併し、それも表面だけのことであつて、機を見て再び現れるだろうことわ当然予想される所であった。
 日本学術会議第一部わ十一月十五日京都大学において有権者との懇談会を開いた。私もそれに出席したが、その席上で私わ、学術会議の声明わ大変結構であるが、声明に反することが行われている場合、学術会議わどうするか、という質問をした。それに対して羽仁五郎氏から、学術会議としてわ個々の問題わ分らないから、当事者から提訴してほしい、との答えがあつた。私わその答えによつて、そういうことも可能であることを知つたのであるが、成るべくそういうことわしたくないと思つて、話をきくだけに止めた。
 私の問題わ十月以後余り活溌な動きはなかつたのであるが、それでも段々知る人も多くなり、大阪・神戶の民科支部でわ度々調査団を神戶大学え派遣した。併し、学校側の返事わいつも「愼重考慮中」であつた。このような不明朗な狀態のまゝ昭和二十四年わ暮れた。

     三 提 訴 問 題
      1
 昭和二十五年一月五日六甲校舎で今井文科長と会見。今井氏の話わ次のことだけであつた。「文部省え申請するにしてもしないにしても、必要だから著書・論文・講演のリストを出してほしい。」私わ答えた。「著書は皆予科に寄附してあるから見られたい。論文わ主なものは著書に入つている。その他の特高的調査にわ応ぜられない。」
 この時私わ相当の憤慨の念禁じえないものがあつた。著書・論文わ公になつているもので、別に問題はない筈である。講演にしても基本的人権たる学問思想の自由に基くものであつて、別に差支えわない筈である。然るに、このような思想調査をするのわ、初めから相手を信用せず、人格を無視するものである。学校当局がこのような特高的調査を始めるようでわ止むをえないと考え、阪大伏見教授のすすめもあつて、学術会議に提訴することにした。そして、今井文科長にわ提訴すると話した上で、翌六日羽仁五郎氏宛に提訴文を発送した。
 一方、新聞部でわ一月早々号外を出すということであつた。それで、又「談話」を求められたので「提訴に寄せる声明」を新聞部に渡した。それわ次のような一文である。

 学術會議提訴に寄せる聲明  (「自由を我等に」第一號、一月十四日)
 本日私わ神戶大學における私の身分に關し日本學術會議に提訴し此の機に再び私の考えを明らかにしておきたい、私の考えわ「神戶大學新聞」(第五號)において「談話」の形で発表した通りであつてその後も何等變化がない、要するに「最初の公約を守れ。守りえない何等の原因も存在しない。」というのが趣旨である。この問題の發生以來自治會及び民主主義科學者協會から再三の申し入れがあり私も「談話」において私の態度を明かにした然るに學校側わ四ヶ月に互つて「考慮中」を績けるだけである。既に年も更り事態わ決定を迫られている、今迄事が温和の中に解決するのを待つていたのであるが今日でわそれも望み無いものとなつた。 そのため學術會議にも提訴し更に正しいことを通すために闘争せざるをえなくなつたのもやむを得ない所である。
 いわゆるレツドマークの問題わ昨年九月以來各地の大學において生じたのであるが近頃でわ大体解決した模様である、東京大學においてわ南原總長が聲明を發表し毅然たる態度を示している。辭職勧告の行われた大學においても勧告が漸次撤回されつゝあると聞いている。その他主要な大學においてわかかる事件の生じたのを聞かない。
 ひとり神戶大學のみが不合理の處置をとり或わ鼎の輕重を問われ或わ世の失笑を招くに至らんことを恐れる。
 共産主義の追放わ憲法に違反することであり、アメリカのニュヨーク洲においても同様の問題に封して違憲の判決があった。共産主義者わ狂犬であるというに至つてわ別に反駁するまでもないであろう黨員は指令をうけるから學問の自由がないという論法も具体的事實をもって裏付けられなければならない。
 さもなければ形式論理學によるこじつけと評せられても致し方ないでろう、今日憲法が無視されがちであるが、我々わ憲法を守らねばならない我々が憲法を守ることによつて憲法わ我々を守るであろう。
 さて神戶大學の學生諸君が馴染浅いにも拘らず強力に私を支持されたことわ感謝にたえない。學生諸君は敏感であり、正義感が曇らされていない。
 権力に屈せず正義の味方をするのが若い者の特權である。今回の問題を契機として神戶大學の民主化のために努力されんことを切望する。
 今や私の身分に關する問題も最後の段階え來た。此の問題わ漸次全國的のものとなろうとしてる。正月早々自治會、全學連民科等が一致して此の問題を取り上げようとしているのも當然のことである。小さい問題のようであるがそこに學問の自由が失われるかどうかかの岐路が存在している
 その意味で私もあくまで學問と思想との自由のためにたたかう覚悟である。最後の場合にわ憲法違反として法律に訴え法廷闘争も辭さない。
      學術會議提訴に際して右聲明する。
                        一九五〇年一月六日 英國中共承認の日 小 松 攝 郎

 その後、武市氏から種々事情の説明があつた。学校わ惡く扱おうとしているのでわない、客觀狀勢も比較的よくなつている、それで申請する用意をして調査をしている、文部省からどれだけ調査をしたかと聞かれたとき困るから、著書・論文・講演のリストを出してほしい、悪い意味でわなく寧ろ良い意味である、ということであつた。
 正直な私もそれならば一應事情を諒解できると思つた。武市氏の説明を一応言葉通りに受取つた。それによつて私は当局のいう通りに講演のリストも出し、「声明」を新聞に出したり、掲示したりすることを止めさせた。新聞
の号外わ企てだけで出なかつたし、掲示の方わ、学生の話によると、三十分程出たがすぐ除いたということである。
 所が、一月十七日(私鉄のストの日)研究室にいた私の所え武市氏が細胞新聞を持つて見えた。その細胞新聞に私の「声明」が載つていた。「声明」わ新聞部に渡したのであるが、新聞部から細胞え流れて行つた。私が直接細胞に渡したのでわない。現に私が細胞新聞をみたのわ武市氏が持つて來られた時が初めてである。その日、武市氏の話でわ、今学長室で三学部長が集つて「声明」を問題にしているということであつた。そして提訴を取下げ「声明」を取消さなければ申請問題わ評議員会で審議しないということが傳えられた。
 元來この問題は私に主たる責任があるのでわない。「愼重考慮中」で四ヵ月放任しておいた学校側に根本の責任がある。直接の契機となつたのわ一月五日の問題であるから、その時の説明が不十分であった点で今井文科長も責任を分擔しなければならない。併し、客觀的には私にも落度があつたことを認めたので、取消すことにしたが、学校当局は一切の責任を私になすりつけるのであつた。
 それわとにかくとして、私わ提訴の方は羽仁氏宛電報と書面とで取下げを依頼し、「声明」わ「提訴」に伴うものであるから当然取消した。そしてこの旨評議員会にも報告し、学生大会でも委員から報告された。從つてこのことわ直ちに皆の知る所となつた。
 唯、おくれたのわ細胞新聞えの取消文の掲載だけである。これわ單に形式的・事務的なことである。「声明」が細胞新聞に掲載されたのは私の責任でわなく、新聞部或わ細胞の責任である。從つて取消文も新聞部或わ細胞の名で出すべきであつたが、「声明」が私の名前で出たので、取消文も私の名前で出すことにした。それがおくれた原因わ、今井文科長と連絡しようと思つていたが、今井氏の奥様が病気で今井氏が学校え來られず会う機会がなかつたこと、細胞新聞がこの頃しばらく出なかつたこと等によるものである。それに私わ元來形式的なことには極めて不慣れで、取消したことわ皆知つていることであるから、形式的な取消文の如きはさほど重要視しなかつた。
 併し、おくれても細胞新聞にも取消文が出てこの問題わ解決した。このことわ次の「学長談」によつても明かである。
 「小松問題の審議は一月早々やりたいと思つていたが、一月には同教授の学術会議への提訴とそれに伴う声明書の発表という事態が起り、ために審議予定がくるわされた、然し今回同教授は提訴と声明を取消され、諸般の準備も整いつ
 つあるので近く実質審議に移る予定だ。」(『神戶大学新聞』第八号、二五・二・一〇)
 「小松教授の学術会議への提訴は学校側の眞意を誤解したものであり、その後我々との話し合いによって同教授も我々の意を諒とされて提訴を取消されたので問題はない。」(『学園新聞』二五・三・六)
 尚、伏見教授等の「調査報告」も次のように云つている。「提訴及び声明書は学校当局と小松教授の間の連絡が不十分であつたことが明らかとなり、事態をなるべく平和に解するために、小松教授の自発的な意志に従つて撤回された。従って神戶大学内に於てはこの問題は一応解決したものと信じられていた。」
   とくに、二、三月に申請問題を審議したことはこの問題の解決したことを明かに証明するものである。
     2
 学校当局が、学術会議え提訴したのわけしからんと云つた理由わ、学内問題を学外え持出したこと、学校えだまつて提訴したこと等である。学内問題を学外へ持ち出したと云つても、学術会議え提訴して悪いと云うことわ少しもない。むしろ、提訴することわ悪いということが悪いのであつて、この点わ後に阪大伏見教授、大阪商大名和教授等の追及する所となつた。また、だまつて提訴したというのわ学校側の誤りであつて、前述のように今井文科長にことわつて出したのである。從つて取消す必要もない訳であるが、私にも落度がないとわ云えず、更に、学校当局わ「取消さなければ
申請問題を審議しない」という方法で縛つて來たので、私も平和的解決を望んだので取消した訳である。「取消さなければ審議しない」というのも奇怪なことでわあるが、不合理なことでも結構多数決できまつて了う。そして、審議しないときまれば、それで問題わ自然消滅して了うのである。
 それから、わざわざ取消をおくらせて、その間に学生を扇動したという言い方を盛んにしたが、これも随分悪質
宣傳である。大学でこういうことが行われるのわ嘆かわしいことである。
 「声明」の内容についてわ伏見教授等及び名和教授等の二回の調査団(このことについてわ後にのべる)わ次の如く
云つている。
 「声明の内容の如何は、大学教授の適格又は申請の問題と無関係である。」
 「声明の内容は不当なものではない。」
 なお、阪大某助教授わ次の如く云つた。「小松さんわ声明を取消されたが、その後の事態をみると、あの声明の通りになつて來ている。」
    3
 元來提訴問題わ派生的な問題である。提訴された所の問題が根本である。然るに、その根本問題を伏せておいて、提訴したことを問題にするのわおかしなことである。内容を無視して形式だけを問題とするのであつて、そこに問題のすりかえがある。九月に始まつた所の問題がなかつたならば、提訴もなかつた筈である。文科教授会が三月二十七日に決定した「文科の立場」においても次のように云つている。
 大学當局が最初から大學教授連合の立場を堅持していたならば、小松豫科教授を二十四年度の第一次申請から削除るということは起こり得なかつたであろうし、從つて提訴も當然起こらなかつたし、提訴に寄せる聲明も發表せられなかつたと考えられる。それ故提訴問題は大學當局がこの問題に對して終始一貫した態度を以て臨んでいなかつたこと、そしてそのことが小松教授に不安の念を與えたことより派生した問題であると考えられる。このため提訴問題を有力な不申請の理由とすることは承服し難い。
 提訴問題と云つても、この提訴わ取消されたので、学術会議總会にわ出されなかつた、卽ち提訴されなかつたのである。從つて、学術会議会員からみれば、提訴もされなかつたのに提訴問題と云つて大騒ぎをするのわ全く奇妙に思えるに違いない。
 学校当局わ初めの中は提訴したことが悪いと云つていたが、その点を調査団等に追及され、段々変つて來て、提訴問題前後における行動及び態度が悪いということになった。問題わいよいよ末梢的となり、こじつけわいよいよ甚だしくなった。若し、態度や行動が不申請の理由であるならば、三月十六日附で懲戒免官にすべきであり、三月末日の官制の廃止と問題をすりかえるのわ甚だ矛盾したことである。
 提訴問題わ元來小さい問題である。然るにこれが有名になつたのわ何故であるか。学校当局が宣傳これ努めたからである。
 提訴するのわ学内問題を学外に持出すことだからいかん、というので取消させた。私わ取消しをして問題を学内に止めた。所が、学校当局わ盛んに、これを学外に向って宣傳した。学内の教授会や学生大会だけでなく、学外からの調査団、或わ抗議文を持つて來た人達に繰返し繰返し、しかも針小棒大に、事実を歪めて宣傳した。そして最後にパンフレツトに刷つて全国にくばつた。私にわ、学外え出すなと云つて止めておきながら、自らわ勝手に学外に宣傳するとわ随分勝手なものである。自分のことわ頬被りで反省も批判もなく、他人のことわ根掘り葉掘りあらさがしをする。服部氏が「なんだか戦争中の軍人に似ていて心配である。」と云われたのもこの意味であろう。
 四月十二日名和教授等の調査団が見えたとき、同行の一人、阪大の津村正光氏わ次のように云われた。「提訴問題わ要するにこういうことである。神戶大学わ小松さんの首を切ろうとした。小松さんわ抵抗した。学校わ抵抗するのわけしからんと云つた。問題わこれだけのことである。抵抗するのわ当然である。」
 前に述べたように、提訴問題わ一旦解決した。例えば、「経濟学部の教授会に於ては二回も小松問題が長時間にわたつて討議されたにもかかわらず。学長が主な理由としている小松教授の学術会議へ提訴に関することは、一度も問題とならなかつた。」(名和教授等の調査報告)。一応この問題わすつかり解決したのである。然るに、三月十六日評議会の票決が黒と出ると、その理由として再び提訴問題が取出された。これもまことに奇怪なことであるが、それを解く鍵わ次のことである。
 卽ち、本当の不申請の理由わ公然と表明出來ない性質のものである。從つて、理由を何かにこじつけねばならない。学校当局が何回も評議会を開いて「愼重考慮」したのわ、こじつけの理由を何処に発見するかということであった。所が、不申請の理由わありようがない。評議会で黒を出してみた所がどうしても理由がない。それで最初の提訴問題をとり出した訳である。
 併し、双方の話し合いの上で提訴した本人が取下げたのであるから、それで十分な筈である、。しかも、一旦解決濟にしておきながら、後になつて勝手に再びそれを不申請の理由とするとわ何と残忍なことでわないか。人間としてよく出來たものだとそのセンスにわ驚くより外ない。提訴問題を理由にするなら、二、三月の審議わ不必要であり、私としても取下げる必要わなかつた訳である。某教授の云つたように、「これわ人をペテンにかけたものである。」

 なお、私が『東京大学学生新聞』(二五・六・一)に載せた「私の不申請理由について」をもつて、この節の概括に代えよう。

 神戸大学における私の問題については大体の経過を『図書新聞』第四十五号で述べておいた。
 私は去年の九月五日新制大学の登壇停止を命ぜられてから約四ケ月間唯「慎重考慮中」の名の下に放任された。そして今年の一月五日、今井文科部長を通じて、著書、論文、講演のリストを提出することを求められた。私は学校がこのような特高的調査を初めるようでは止むをえないと思つて今井文科部長にことわつて一月六日学術会議に提訴した。同時に、新聞部から求められたので「提訴に寄せる声明」の原稿を新聞部の学生に渡した。その後、評議員の間でこのことが問題となり、学内問題を学外へ持出したのはけしからん、取消さない中は申請問題を審議しないということであつた。武市氏から色々事情の説明があり、必ずしも状態は悪くなく、学校でも申請しようとして用意しているとのことであり、初めて私も事情を知ることが出来た。それで私も提訴を取消し、「声明」を新聞に出したり、指示したりすることを学生に止めさせた。ところが、「声明」は新聞には出なかつたが、新聞部から細胞に流れ、細胞新聞にだけ掲載された。これは私が直接細胞新聞に寄したものではなく責任が新聞部にある訳である。併し、とにかく細胞新聞に載つたことでもあるので、私の名前で取消文を細胞新聞にのせたが、これが種々の事情でおくれて掲載された。このことが取消を故意におくらせてその間に学生を扇動したという風に、悪意に宣傳されている所のものである。提訴を取消したことは学生大会でも報告されて皆知つていることであつて、扇動などありえない。
 提訴問題は取消さなければ申請問題を審議しないというので取消したのであるが、それでこの問題は片付いた筈である。現に、三月七日付の『学園新聞』に載つた「学長談」にも「提訴問題は本人が取消されたので問題はない」と述べてある。その後評議員会は申請問題を二月から三月に亘つて審議したがそれは提訴問題が解決されたことを証明するものである
 所が、三月十六日採決の結果黒と出たが、その理由として再び提訴問題がとり出された。取消さないと審議しないといつて取消させ、その上で審議し、最後に不申請の理由を提訴問題に求めるのはまことに奇怪のことといはねばならない。提訴問題の事情は以上の如くであるが、根本の理由はそこにはない。末梢的な提訴問題を大きくクローズ・アツプさせいかにも私を悪人と思わせようとするのは、トリツクであり、本当の理由を蔽いかくすためのいじくの葉にすぎない。
 その他、私の問題に関しては複雑怪奇なことが多い。例えば、評議員会も議論は白のみが多かつたそうであるが、採決の結果黒である。そして、白を出したら覚悟せよ、とのドウカツが行われたと傳えられている。しかも同様の方法が全国的にとられた形跡がある。これは私一個の問題ではなく、日本の大学にとつて重要なことであるから真相が明かにされねばならない。