四 教 授 会
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 昭和二十五年の一月から三月十六日までがこの事件の一つのやまであつた。この間でわ文科(文理学部)教授会及び評議員会が中心であり、それに対し、学生の動き、学外からの働きかけ等があつた。さまざまの動きが入交じつており、それを整理して述べることわ甚だ六カしい。今わ文科(文理学部)教授会を先に、評議員会を後に、それを中心にして述べて行くことにする。なお、学生諸君の闘争も歴史的なものであるから、この方わ学生諸君の手で記録しておかれる必要があると思う。
 神戶大学でわ文理学部わ文科・理科を別々に、卽ち文学部・理学部と同様にみなして扱う約束(内規)であつた。從つて文理学部教授会というものわ開かないということであつた。
 文科教授会で作つた「小松問題に関する資料摘録」によると、「文科教授会議の成立」わ次のごとくである。
  「昭和二四年一二月二四日文科教授のみ集り相談の結果、文科教授会構成の決定は文科全体教官会議の議に基くことを決定。
   昭和二五年一月一八日文科全体教官会議の議により教授会の構成法と構成員とを決定。
   昭和二五年一月二三日第一回教授会議を開き文科教授会の規定を決定した。
   同日小松問題の審議が行はれた。文科長より小松問題の経過報告の後討論の結果、無記名投票により賛一九、白票一で左の決議をした。  
   文科教授会は大学がその自治のため小松攝郎氏の教授申請を速に実行することを決議する。」
 そして、「昭和二五年二月一三日文科教授会に於て昭和二五年度新制大学に切替となる教官を決定。」したが、当然その中に私の名前も含まれていた。
 元來、これで問題わ決定した筈である。元來というのわ、大学の自治、学問の自由が守られていれば、という意味である。所が、そういかなかつた所に、神戶大学が外部勢力によつて支配されている所以がある。
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 所が、その後、文科教授会わ内規によるものであるから、学内でわ通用しても、対外的に、例えば、対文部省的にわ意味がない、法的に意味があるのわ文理学部教授会であると云われ出した。これわ某評議員が事務局長を伴つて上京し、歸つて來てから出た話である。そして、二月二十二日初めて文理学部教授会が開かれた。しかも、この教授会わ「小松問題」だけが議題であつた。
 この日、私わ教官室で晝食をとつていたが、文科の教授も大勢おり、色々話をしていたが、次のような言葉が乱れ飛んだ。「今日の教授会で白を出したものわ首だ。」「十名リストにのつている。」「京大の南原さんも首だそうだ。」 
 この教授会わ秘密会であつて、発言わ速記をとつて某所え出すということであつた。そして、聞く所によると、某教授わ開会に先立つてあやしげな冒頭陳述をしたが、一々反駁されたとのことである。又、会議の途中で事務局長が入つて來て、今文部省から電報が來て云々と妙なことを云つた。議長わ、白が出そうな空気だつたので、採決をのばしのばししていたが、止むなく決をとつた。以上わ秘密の訳であるが、今日でわ誰でも知つていることである。
 『資料摘録』わ「文理学部教授会」について次のように云つている。

  昭和二五年二月二二日文科教授会、理科教授会の合同によつて成立した。文科及び理科の従來の実狀に鑑み此の教授会は小松問題に限り唯一回のことゝして運営については別に細則を設けなかつた。此の席で次のことを議決。(投票總数三〇、賛二七、否三、)「文理学部教授会は神戶大学がその自治のために小松攝郎氏の教授請を速に実行することを決議する。」
 神戶教養部の『眞相報告』も次のように云つている。
  一月十一日、文科教授会は小松教授申請絶対支持を明らかにし、二月二十二日、文理学部教授会にては二七対三と絶対多数で申請決議し大学の良心と云はれた。然しながら評議会は一方的にこの申請決議を受入れず、学部自治をふみ破り不申請と決定した。文理学部教授会で討議した際に、「もしも文理学部教授会が白と出す様な事があれば教授会の速記録は某所に提示せねばならないかも分らない」と云う脅迫があつたにも拘らず文理学部教授会はそれを一蹴して結論を出した。

 文理学部教授会わこのとき一回だけ、しかも特に「小松問題」のためにのみ開かれたのである。そして、その結果が白と出たからと云つて、それを認めないというのでわ大学の破壊である。文理学部教授会わ全く愚弄されたものである。若し、結果が黒と出たのであれば、評議員会わ一も二もなく教授会の決議を尊重し(戸)そのまゝ承認したであろう。そして追放の責任を教授会に轉嫁しえたであろう。
 学校当局が文理学部教授会を開かせたのわ、先の文科教授会の決議をくつがえさせんがためであつた。そのためにさまざまの陰謀が行われたのである。所が、陰謀わ見事に封ぜられ、学校当局わ自縄自縛の形となつたが、案外無神経に、わざわざ開かせた教授会の決議を平気で無視して了つた。
 尚、このような陰謀が全国的に行われたことに注目せねばならない。
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 昭和二十四年の九月以來起つたレッド・パージの問題わ、大学によつて多少の差わあるが、根本において共通のものを持つている。要するに、結論わ外から与えられたものであり、大学わ何とかこじつけてその結論え持つて行かねばならない。しかも、大学の責任において、大学の自主性があるかのように、民主主義的方法によつたかのように見せかけねばならない。そこに大学の苦心を要する所がある。大学によつて比較的上手の所と下手な所、正直な所と不正直な所とがある。
 例えば、富山大学の鷲尾教授の場合わ、昭和二十四年九月一度辞職勸告が行われたが、それわ一旦御破算にして、新制大学からの締出しという形をとつた。清水文理学部長わ次のように云つている。
  「ワシオ氏の辞職勧告は一たん御破算にしたが、もう一度とりあげたのは客觀狀勢の変化による。」
  「すでに大学にいるものをやめさせるのではなく、今の場合は共産党員を大学に新規採用するか否かの問題であり、もし採用するとすれば、イールズ氏の勸告に正面から反対することになる。これをやることは責任あるものとして不可能である。」(『富山大学教組組合情報』二八、昭和二五・一・一四)
 首切りでなく、新規採用の問題であるという形式論理学を使う点わ神戶と同じである。
 山形大学大野助教授の場合わ、学生が文理学部本官教員として不申請の理由に関するデータの提出を要求した所、北岡文理学部長わ次のように云つた。
  「これ以上云ふことが出來ないと云ふこと自体がデーターであるではないか。」(山形大学文理学部学生自治委員会「山形大学長及び文理学部長の大野敏英氏にたいする辞職勸告ならびに発令申請表より除外に関する実狀報告」一九五〇・六・一二)
 山形大学の場合わ比較的正直であると云える。尚、大野氏わ公開審査請求を出しているが、まだ開かれないようである。次に、島根大学に関してわ、次のように報道されている。
  「旧松江高校原武弘教授は三月十七日島根大学文理学部に就任を拒否された、同学部教授会では三月十日投票によって就任を認めたものであるが、山根学長が強硬に反対、十七日再投票したもので、その開票が別室で少数者の手で行われ、票数が一切発表されていない点が問題になつており、最近各新制大学において再出発している教授追放の問題として注目されている。」(『学園新聞』二五・四・一〇)
 レッド・パージの起つた各大学において、教授会わ一応白を出したが、何れも神戶と同じような陰謀によつて黒に代つている。外部の力に從つたのでわなく、教授会の多数決によつたという形をとろうとしている。これわ偽装民主主義というものである。教授会で陰謀を封じたものわ神戶大学文理学部以外その例を聞かない。
 二十世紀の半ばに立つ一九五〇年において、中世的な暗黒政治が行われている。

      五 評 議 員 会
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 教授会の動きわ以上の如くであるが、それとわ別に評議員会或わ評議会がこの問題を審議した。神戸大学における「評議会の由來と成立」について『資料摘録』わ次のように述べている。
「神戸大学発足に当り次の委員会が設けられた。
(イ)神戸大学設置準備委員会 昭和二三年六月頃
(ロ)専門委員会(人事選考の予備会議)昭和二三年七月頃
右(イ)(ロ)共に昭和二四年八月上旬解散された。
(イ)の任務を継承するものとして評議会が設置された。昭和二四年九月上旬発足」
 神戸教養部の『眞相報告』わ「評議会について」次の如く述べている。
  新制大學設立決定後、人事權其の他について設立準備委員會が全權を握り昨廿四年九月準備委員會を解散評議員會が設けられ神戸大學運營の最高議決機關として權限をもつた。其の構成は法、經、經營、工、敎各學部三名、文理學部四名之に議長である學長を加へて廿名から構成されている。評議會の人事權は創立時代の専門委員會及び準備委員會が解散の時次に人事權を各學部に置くという事が問題になつた。神大をAクラスとするためB、Cクラスの教授をチエツクする場合に役立てる爲に評議會をあのような内規に置いたのであつた。始めに中央に於いても準備委員會に於てもAクラスとしてパスした小松教授を評議會が云々するのはおかしい、然るに評議會に於て小松教授を不申請と決定したのは、越權である。

 評議会の法的權限についてわ後に述べるが、これが神戸大学の最高の議決機関であると宣傳されていた。併し、それも内規によるものである。先に、文科教授会の決議を認めなかつたのわ、文科教授会わ内規によるものであつて法的意義がないからと云うのであつた。然らば、同じ論法で評議会の決議も認められない訳である。所が、文科教授会の方わ否認しながら、評議会の方わ強引に主張する。しかも、法的權限のある文理学部教授会の決議をも無視するのわ全く奇怪というより外ない。自分の都合次第で、同じく内規によるものを勝手に認めたり認めなかつたりし、しかも明かに法的根據のあるものを、その結論が気に入らないからと云つて無視して了う。これでわ遵法精神わ全く無いと云わねばならない。何故このようなこととなるか。それわ或る結論を出すべく押しつけられているからである。從つて何でもかまわずその結論に持つて行こうとし、そのためにこのような不合理を犯すのである。
 なお、こゝで根本的問題を考えておかねばならない。それわ、評議会が申請問題を審議したが、そもそも審議することがおかしいということである。評議会が審議するというので、なんだかそれが当然であるような錯覚に陥るが、何を審議するのであろうか。何も審議する必要わない筈である。新制神戸大学の人事わ設置準備委員会で決定し、その後わ唯事務的に順次申請して行くことが残されただけの筈である。京都大学わそういう立場をとつている由である。私も他の教官と共にいくつもの関門をパスして決定したのであつて、審議わ十分なされた筈である。残る所わ事務的処理だけの筈である。所が「筈である」がその通り行かない所に暗黒面がある。評議会が審議することわ当然のように考えられていたが、実わそこに根本問題があり、審議する必要わなかつた筈である。だから、評議会が何回も多くの時間をかけて審議したことも空廻りであり、しないでも良いことをしただけのことである。このことを先ず頭に入れておかねばならない。
 さて、評議会が一月早々出あつた問題わ提訴問題であつた。これについてわその経過を既に述べておいた。つぎの仕事わ、私の著書・論文・講演・講義(予科の方わずつと講義をしていた)・道徳問題・政治行動等の調査であつた。実に細く、根掘り葉掘り取調べが行われ、特高警察も顔負けする程であつた。輔導課あたりがその下働きをしたようである。道徳.政治問題についてわ、前述したように、山形からのニュースも來た。一年も前の山形における行動を調べるのであるから驚いたものである。これでわ大学だか警察だか訳が分らない。併し、いくら調べても何も出てくる筈がない。
 一体、何のためにこんな調査をしたのであるか。それわ、追放の理由を見出さんがためである。私から云えば、これわ隨分失禮なことであつて、基本的人權を蹂躙し、、人格を無視している。私がどんなに憤慨したにしても、当然のことである。わざわざ遠く山形から呼び寄せながら、このようなことをするのわ人間のなしうることであろうか。
 評議会わ文科教授会に対し、「文科教授会わどれだけ調査をしたか。調査不十分である。ろくに調査もせずに決定したのでわないか。」と度々云つたそうである。これに対し文科わ、「文科としてわ小松さんを予科教授として來て貰つたのであり、信頼している。文科わそういう調査機関ももたず、警察も検察廳も問題としていないのに調べる必要わない。」と答えた由であるが、当然のことと云わねばならない。
 そうこうしている中に、一月二十日頃から、秘密指令が來たという噂が広まつた。噂の存在わ事実であり、噂としてわ皆知つていることである。
 それかあらぬか、その頃から申請問題わ棚上げの形となつた。評議会でも問題としなくなつたようである。この問題を評議会が議題として取上げたのわ、漸く二月十六日である。取上げざるをえなくなつたのわ主として学生の圧力によるものである。それがなかつたならば、恐らく申請問題わそのまゝ放任されたであろう。
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 学生諸君の闘爭の記録わ学生諸君の手で作らるべきであることわ前に述べたが、一、二月頃の学生の動きを新聞等からうかがつてみることにする。
 「自治委員会は一月十三日の会に於て『九月の学生大会の決議にもとづいて直ちに学校に交渉する』との運動方針を出すと共に、各文化団体によびかけ、協力を要望した。YMCA、国際連合、生活部を初め各団体は続々と声明を発
  表、一方十四日開催された神経大学部、神大住吉同姫路自治会の協議会では協力して運動を展開することが申し合わされ、漸く全学的な問題となったのである。」(『神戸大学新聞』第六号、一月二六日)
 「一月下旬学部自治委員会を中心として学生文化団体を包含した『小松教授を守る会』が発足、新制大学・旧制大学自治会は申請要求を決議した。二月十四日当局が何時までも愼重考慮と云う態度に対して旧制学部委員十五名のハンガ
 ーベッギングが行はれ小松教授申請を要求した。二月十六日学生の熱心なる要望により評議会が開かれたが審議未了となつた。」(神戸教養部『眞相報告』)
 「学生側は一月十六日、二月八日、二月十五日と三回にわたって学生大会を開き、教授側が小松問題を議題にさえもとりあげていないことを追究、また一方二月六日、武井全学連委員長、沖浦東大学生委員、京大同学会代表らは相携
  えて神大学長に面会、小松問題の処置如何は外部への影響きわめて重大なる旨を強調し善処を要望した。神大学生側ではついに二月十四日、ハンガー・ストライキを、十七日にはスト決議を行つてあくまで申請決定を促進する意図を
  表明した。また教授側でも二十二日文理学部教授会では27対3で小松氏支持を決定し、大阪市立大も連名の支持決議を持参する等、小松教授支持は優勢と見られ、学校当局の最後的決定が注目されている。」(『学園新聞』三・六)
 このようにして、問題わ漸く全国的となつて來た。特に二月十四日のハン・ストわこの問題を一擧にして有名にして了つた。棚上げにしておいた申請問題をとり上げざるをえなくなり、二月十六日の評議会でしたのも、主としてハン・ストの圧力によるものである。
 学長わ初めから、個人の問題である、を繰返していた。たとえば、『学園新聞』(三・六)の「学長談」でも「全学連あたりが騒ぎ立てる理由がわからない、問題は小松君個人のことなのだ」と云つている。併し、この問題が、たまたま六甲台の象牙の塔で起つただけのものでないこと、況んや「個人の問題」でないこと位わ誰でも分つている。しかも「個人の問題」を繰返すのにわ二つのねらいがあつた。一つわ、それによつて外部から來る働きかけを撃退すること、他わ、この問題の歴史的・社会的意義から目をそらせることである。されば、最後に至つて、不申請の理由を全く個人的な所えこじつけて了つた。
 問題が大きくなるにつれて、各方面から神戸大学えの申し入れや抗議が行われ、夥しい数にのぼつたと思われる。全関西の各大学教授、教職員組合、学生自治会、民科支部等、全国的な団体としてわ、日教組、民科、全学連等があつた。例として二つ程あげておく。次のわ京大同学会のものである。(『学園新聞三・六』)
   京大同学会の神大学長へ要望書
  京大同学会では二月十四日の中央委員会において小松問題をとりあげ、学問の自由を守るため神大自治会への激励文および学校当局への要望書を作成、十六日交付した。
  要望書要旨 昨年新潟大で行われたイールズ氏の講演を契機に全国各地において行われた進歩的教授の追放に関し、学問、思想の自由尊重の見地よりなされた日本学術会議、および東大南原学長の声明は衆知の事実である。
   共産党員たる小松氏が何ら明確な理由なくしていまだ大学教授の申請をなされていないことは、客觀的には明らかに進歩的教授追放の一役を果す結果となる、先に京大でイールズ氏の來訪に際し鳥養学長は「あるイデオロギーを持つ故に、ある政党員たる故に、教授を追放することは断じてしない」と毅然たる態度をもつて応えられた、貴校の学生の眞摯な要望を十分に認められ、問題を積極的に解決されんことを要望する。
 次わ民科であるが、民科哲学部会全国委員会が三月一日開かれ、申入書が作製され、十五名の署名の下に学長宛発送された。
    申 入 書
  民主主義科学者協会会員小松攝郎氏に関し、神戸大学当局は未だ新制大学教授としての発令を文部省に申達せず、神戸経濟大学予科教授としての現在の身分のまま三月末を以て、同氏を自然退職せしめる意図ではないかと疑わせるものがあると聞く。
  われわれ民主主義科学者協会哲学部の有志は、殊にその一員である寺沢恒信が、大学設置委員として神戸大学の審査を直接擔当した関係上、神戸大学が、小松攝郎氏を教授の一員として加えた教員組織を以て認可せられた事情を充分承知した上で、貴下に対しつぎの申入れを行う。
   一、神戸大学申請にあたって、小松氏を教授として教員組織に加えておきながら、今に至つて、同氏の身分を保証しないのは、社会的通念をもつてしても道義に反する措置である。
   二、右の如き措置の行われる背後には、小松氏の如き進歩的思想の持ち主を彈圧せんとする意図のあることを疑わしめるものがある。かくの如きことは、思想の自由をおびやかし、ファッシズムの抬頭に寄与する反民主主義的行為である。
   三、貴下ならびに神戸大学当局は、すみやかに、自らの態度を反省し、小松氏を既定の計畫どおり神戸大学教授として任官せしめるよう措置されたい。
  なお、右の申入れに対し、文書をもつて來る三月十五日までに回答されるよう要望する。右の解答なき場合には、われわれは輿論にうつたえあくまで貴下の責任を追及するであろうことを敢て附言するものである。
署名者(各々肩書入)
古在由重、山崎正一、小場瀬卓三、出隆、森宏一、松村一人、高桑純夫、寺沢恒信、甘粕石介、本田喜代治、大井正、関戸嘉光、門上秀敏、一條重美、秋沢修二,
このような学内外の輿論を強引につつぱねたのわ何故であるか。それわ学校当局につつかい棒があり、うしろからけしかけられるからである。要するに自分の立場を守るためである。
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 このようにして、二月十六日の評議員会で申請問題を審議することになつた。所が、その前日、二月十五日、私わ離党の勸告を受けた。党員である以上評議会も文部省も通らない、たとえ学内わ通つたにした所で、文部省わ絶対に受けつけない、というのであつた。私わそれを断つた。 離党の勸告わ、追放の理由が党員であることにあることを証明するものである。同じ勸告わ山形大学大野助教授に対しても行われている(山形大学自治会『実状報告』)。恐らく全国的に行われたと思われるが、これによつてもレツド・パージが何であるかわ明かである。
 さて、二月十六日の評議会わ午前十時から午後十時までかゝつたが、審議未了であつた。聞く所によると、この評議会で白が出そうになつたので、あわてて某評議員と事務局長とが上京し、策を授かつて來たということである。そして、二月二十二日の文理学部教授会の開催、そこにおける陰謀となつた訳である。同じような手段が全国的にとられている所からみて、策を授けたものがある筈である。
 『資料摘録』によると、「評議会に於ける小松問題の審議」わつぎの六回である。
  「第一回昭和二五年二月一六日 第二回仝月一九日 第三回仝月二三日 第四回三月二日 第五回三月九日 第六回三月一六日 最終回に於て小松氏を不申請と決定。」
 この間、私の所えも度々質問が來たので、どういうことを問題にしているかわ大体推察出來た。初めわ提訴問題、それから著書・論文・講演等の調査であつた。所が、私に対する質問というのが、枝葉末節をつつきちらし、あげ足とりやあら探しに専らであつて、そのこまかいことわ驚くばかりであつた。例えてみれば、舅の嫁いじめというやり方であつて、そういうつつき方をすれば、誰でも何か缺点の出て來るのわ当然である。評議員わ何れも聖人・君子であろうか。とにかく、何とかして缺点を見つけようとする努力がありありと分つた。そこにわ大学らしい理念の高さわ微塵もみられなかつた。神戸大学のために残念なことであつた。
 三月の初め、暴力革命や共産党に関する質問状が学長から私宛に交付された。即ち、近頃評議員会でわこういう問題が議論されている、それに対して答えてほしい、というのであつた。問題わ評議員会で議論されているものであるが、それを学長がまとめて、評議会でわなく、学長の名において文書の形で私え質問が出されたのである。その質問及び回答わ次の如くである。
   小松教授に對する質問及び回答  (二五、三、九)
 一、暴力革命又は暴力思想
  (一)暴力革命又は暴力主義を是認せられるか。
    正當防衛以外のいかなる暴力をも是認しません。
  (二)マルクス、レーニンイズムと暴力革命又は暴力主義との關係をどうお考えになるか。
  マルクス、レーニン主義わ暴力主義と無關係であり、暴力革命もその本質でわありません。但し、正當防衛としての暴力まで否定するものでわありません。
  (三)共産黨の基本方針、殊に野坂聲明後における基本方針と暴力革命又は暴力思想との闘係をどうお考えになるか。
    黨の綱領及び凡ての決議、決定、特に第十八回中央委員會總會(一九五〇年一月十八日‐二十日)の決定に明かのように、黨の基本方針わ暴力革命又わ暴力思想とわ全く無關係であります。
 二、黨の規約と國立大學教授の職責との關係
  (一)共産黨の規約殊に第二條第一項および第二項と人事院規則特に6の十一との關係についてどうお考えになつているか。この点について過去に如何に行動されたか、今後如何に行動されるお積りか。
   共産黨わ合法政黨でありますから、黨員わ合法性の範圍内で活動します。從つて兩者はていしよくしません。
   私わ過去においても今後においても合法性の範圍内で活動します。
  (二)黨員は黨の規約によれば黨の政策や決議を實行しなければならぬ事になつていますが、これは學問の自由を制限されるとお考えになりませんか。
    學問の自由を制限すると考えません。
  (三)黨の規約、第二條第一項及び第二項と人事院規則とはていしよくするものとはお考えになりませんか。ていしょくする場合はどちらの義務に從われますか。
    ていしょくするものと考えません。
    註 黨わ黨員の境遇と能力に應じて働くことを期待します。從つて大學教授わ大學教授として制限内で働けば良い譯です。黨の規則わ機械的に適用されるものでわありません。大學教授としてわ公務員法、人事院規則を守ります。黨わ法律を無視することを要求するものでわありません。
 
党規約第二條わ次の如くである。
 第二條 党員の義務は次の通りである。
   1、規約を守り、党の活動に加はつて、党の政策や決議を実行しなければならない。
   2、労働者、農民、その他勤労大衆の運動に加はつて、その中で党の政策や決議を大衆に理解させ、かつひろめなければならない。
 人事院規則6の十一わ次の如くである。
  集会その他多数の人に接し得る場所で、又は拡声器、ラヂオその他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること。
 この質問及び回答わ三月九日の評議会で議題となつた。
 この思想調査わ甚だ重大であつて、いくつかの間題を含んでいる。このような質問をすることが教育基本法第八條違反であるということである(そういうことにうとい私は正直に回答したのだつた)。一体、大学自らこういう思想調査をするとわどうゆうことであるか。かりに学外から、例えば警察なり検察廳なりから、小松教授の思想を調査せよと云つてこのような質問が大学え來たとき、大学わいかにすべきであるか。大学としてわ、それを拒絶して思想の自由を守るのがその義務である。然るに、同一大学内で、学長が教授に対してこのような調査をするのわ驚くべきことと云わねばならない。この質問書の記事が『学園新聞』(四月一〇日)に出たのであるが、某京大教授わ「あれをみたときギョッとした」と私に語つた。又、京大学生の間にも憤激の声が上つたということである。大阪商大でも教授・学生が、これわひどい、と問題にしたと聞いている。大学自らが公然思想調査をするようでわ、学問・思想の自由も何もあつたものでわない。
 次に、この質問の問題わ一般的なものであつて、全く「個人の問題」でわない。一方で「個人の問題」であると云いながら、他方で全く一般的な問題を出すのわ矛盾である、このような矛盾を平気でするのも、要するに何でもいいから何かで引掛けようとあせつているからである。「一、暴力革命又は暴力思想」の問題わ、殖田法務總裁も認めているように、問題わない筈である。「二、党の規約と国立大学教授の職責との関係」の問題にしても、兩者が抵觸するなら、全国的に機械的に、一律に処置されるべき筈である。特に私にだけ問題になるものでわない。
 こゝに提出された問題わ非常に六ヶしいものであつて、誰が十分に答え得よう。この問題を出したねらいわ、「一」でわ、返答によつてわ、「彼わ暴力革命思想を持つている、故に大学教授として不適格である」という所え持つて行こうというのである。「二」わ、党員と大学教授との何れをえらぶかと云う問題の出し方であつて、一種の誘導訊問である。抵觸しないものを抵觸するように見せかけて、何れをえらぶかという羂(ママ)にかけたものである。党規約と人事院規約とわ層を異にし、性質の異るものであつて、これを同一平面でつき合わせるのわ一つのトリックである。
 更に、わざわざ人事院規則を持出すのわどういう訳であるか。人事院規則わ悪評で名高く、大概の人わ反対している。大学教授連合も反対であろう。それを特に取出すのわ、学校当局が反動的であることを自ら証明しているものである。                                         
 この質問書わ、実わ前の離党勸告と照応しているのである。離党しないならば、これで來い、と云つて、短刀をつきつけたようなものである。問題の本質わこゝにある。
 三月の初め頃、一つの問題があつた。それわ「団体等規正令に違反しないと誓言せよ」との申入れがあつたことである。そして、団体等規正令わ団体だけでなく、個人にも適用され、個人の場合にわ罪が重い、という説明があつた。こゝまで來れば、全く正気の沙汰とわ思えない。私もこれにわ憤然として、「人を罪人扱いするなら、今後何も返事をしない」と答えたのであつた。
 人事院規則と共に悪名高い団体等規正令の如きを、しかも個人にも適用されるという点を指摘して、取り出したのわ何の爲であるか。党規則と人事院規則を調べ、抵觸しそうな個条を引出したのも同じ手法であつて、何と悪質でわないか。人事院規則や団体等規正令をわざわざ引張り出す必要わ何もない。何かで引つかけようとする意志があるのでなければ、こんなことわ出來ない筈である。大学としても恥ずかしいことと云わねばならない。
 このようにみてくれば、評議会が何を意図していたかわ私にわはつきり理解出來る。勿論、評議員が何れも同じ考えであつたのでわなく、一人々々にわさまゞゝの意見があつたに違いない。併し、評議会として執つた行動わ以上のようなものであり、そこに一貫した意図がみられる。
 考えてもみるが良い。自ら遠くから呼びよせたのであれば、たとえ私が本当の悪人であるにしても、かばうのが人間としてのとるべき道でわないか。しかるに、何かで引つかけて追放しようとするのわ、何と残忍なことでわないか。私を追出すだけではなく、その家族をも路頭に迷わせようとして敢てはばからない。そこにわ一片のヒューマニズムも、一かけらの人間らしい気持も見出せない。「情において忍びない」という言葉の如きも、そらゞゝしく響くだけである。神戸大学とわ、血も涙もない、そんな残酷な所であろうか。否、それわ神戸大学の全く、その一部分にすぎない。併し、その一部分が權力を握つているのである。
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 評議会も何回も開かれたが、最後わ三月十六日であつた。きまらない、きまらないでのばし、のばしして、ついに三月中旬まで持越した。学生の方にも、大会、スト、学長との交渉等色々の動きがあつたが、試験、休暇となつて、著しく力を減じた。評議会を引伸ばしていたのも学部の学生の休みになるのを待つていたためと考えられる。事実、そんなに議論する材料もない筈だし、一回の評議会に費す時間わ段々少くなつたと聞いている。暴力革命の問題の如きを持出したのも、一つにわ引伸ばし作戦のためもあつたであろう。
 余談に亙るが、この頃大学わ休み中をねらつて変なことをする。東大の政治活動禁止、細胞解散も休み中であつた。学生の大勢いる時に堂々とやり給え。
 さて、三月十六日、最後の評議会において、十一対九で黒と出た。議論わ白が優勢であつたそうであるが、それわ当然のことであつて、黒の理由わ何もない筈である。しかも、結果が黒と出た所に問題がある。
 神戸教養部の『眞相報告』わ次のように報告している。
   本學評議員の言明によると「學長は某方面より此の問題にかんする意向を聞いて居り、それを口外することを禁止されている」。と、これこそ非民主的な不明朗な本學評議會の態度の根本的原因である。又、評議會にて理論的に申請するのが當然であり、不申請の論は殆どなかつたのであるが「白(申請)と信じているものは覺悟しておれ」の脅迫まで行はれた事は民主的なるべき評議會に於て非民主的な審議が行はれた事を示している。評議員に於いても、かゝる指令に動いたものもいると推察し得る。」
又、名和教授等の『調査報告』も、次のように述べている。
 小松教授の申請に賛成した評議員は、無記名投票でもだれだれであつたかわかるから覚悟をしておれと、各評議員を個人的におどかした評議員がある。
 ある評議員は学生に対して「もし小松教授を申請したら、神戸大学がつぶされるおそれがある」と語つた。
 このような状況の下で採決された場合、それが十一対九であろうと、二〇対○であろうと何の意味があろうか。これを、問題の形式論理学的すりかえと云う。
 三月十六日の評議会で採決することわ大体予想されたのであるが、前日あたりの觀測でわ大概の人が白と出るだろうと云つていた。そういう觀測は大変甘かつたので、十一対九という計算わだいぶ前から出來ていたようである。
 さて、三月十六日の評議会わ午後一時から開かれ、採択の結果十一対九で申請しないことに決定したのわ午後八時半であつたということである。学長わ直ちに「学長談」を発表し、後に「補足」を加えた。それわ次の如きものである。
     学 長 談  (昭和二十五年三月一七日)
  評議會は愼重審議の結果三月十六日豫科小松教授を神戸大學教授として申請をしないことに決定した。
 一、大學の使命達成のためには學問の自由を尊重すべきことは言うまでもないところであり本學評議會はこの点に關する大學教授連合の決議に賛意を表するものである。尤もこの決議は教授の免職に關するものであり、小松教授の新制大學教授申請の問題には直接適用しないものであるが、同教授は既に大學教授豫定者として豫科教授に赴任された人であるから、右の決議の精神を準用して處理する方針で審議を進めた。
 二、大學教授は學問研究者であると同時に教育者であり、且つ小松教授は本學に於ける倫理學講座の唯一の擔當者として豫定せられていた人でもあるので、同教授申請問題の審議を控えてなされた同教授の學術會議えの提訴及び同時に發表された激越な「提訴に寄せる聲明」とその前後に於ける同教授の行動を考慮し、遂に申請の自信がもてず、申請しないことに決定したのである。
 三、小松教授には非常にお氣の毒な結果になり、情に於て洵に忍び難いものがあるが責任上この處置をとらざるを得なかつたのである。
    学長の補足
 一、の註
  大學教授連合の「決議の精神を準用して」の意味
  小松教授を文科倫理學講座擔當の教授予定者と決定した神戸大學設置準備會では同教授が共産黨員又は極端な立場をとる人でないと云う了解の下に右の決定がされたのであるが小松教授は右決定後入黨されたの事實が大學側に知れな
  いまゝに予科教授として赴任されたのである。右事情の下に於て同氏が共産黨員であるの故を以つて申請を拒否するものではないと云うのが同決議の精神を準用しての意である。
 二、の註
  小松教授は十一月の神戸大學新聞に大學當局は自分の名を神戸大學教官のリストから削除したとして當局の態度を非難する談話を載せられたので學長は今井教授を通じて右は小松教授の誤解であり二十五年度の教官申請の際に予科教
  授の約半數と共に審議されるものであることを傳えたのであるが同教授は之を了解され右談話を訂正する旨を約された然るに二十五年一月初旬突如として學術會議え提訴され同時に提訴によせる聲明を發表された、大學所定の機關が
  近く審議を始めることを知りつゝ外部の機關の干渉を求められることは大學自治の觀念について理解を缺くものと云はざるを得ない、また提訴によせる聲明は共産黨細胞機關紙「自由を吾等に」に掲載され頒布されたものであり激越
  な文辭がつらねられている特に不都合と思はれるのは次の諸点である。
  イ、さきに訂正を約された神戸大學新聞所載の談話の立場を以前として固執しておられること   
  ロ、平和的解決の望みがなくなつたものとして闘争手段に訴える旨を宣言せられていること
  ハ、神戸大學のみが不合理の處置をし世の失笑を招くに至る惧れありとしていること
  ニ、正義の味方をするのが若い者の特權であり、全學連等がこの問題をとりあげて全國的問題としようとしているのは當然であるとして強い刺激的な言辭が用いられている
  學長は右の様な状態の下では同教授の申請問題の審議は殆ど不可能と見て今井武市兩教授に友人としての善處を促した。幸い兩氏の注意によつて小松教授は提訴を取り下げられ、輕卒な行動を陳謝されると共に提訴に寄せる聲明をこ
  れが掲載された細胞機關誌上に取消す旨を約束された提訴の取下げ、陳謝及び聲明の取消によつて既に爲された行爲の責任が消滅するわけではないが、大いに輕減されるものと思われた。
  然るに約束された聲明の取消しが二月十五日(同教授の申請問題を審議するための評議會の前日)學長がこれについて同教授に質問するまで全く爲されていなかつたのである。 
  取消しの約束後四週間に亘つて、而してその間同教授の申請を要望する學生運動の盛んとなり、ハンストの實行、授業ストの決議等が爲されるのを見ながら、約束された取消しを實行されなかつたことは、小松教授自身においては深
  い悪意はなかつたものとしても、先きに爲された陳謝の眞意を疑わしめるものがある。
  なお右の聲明の取消は二月二十三日に至つて細胞機關誌上に爲された。これらの行動は凡て公然となされた事であり、あまねく周知されている小松教授の立場に立てば情状を酌量すべきものなしとはしないが評議會は責任上同教授を
  大學教授として不申請と決定せざるを得なかつたのである。
 三月十七日の午後、私わ教官室に居た。他の教授も多く居り、丁度新聞に出ていた「学長談」を問題にしていた。そして、心ある教授達わ「学長談」に対して恥ずかしい思いをしていた。それわ、大学らしい所が少しもなく、唯個人的に人をきずつけるような言葉であつたからである。この恥を更に拡大再生産したものが後に出た学長の「パンフレット」であつた。「学長談」における不申請理由が問題のすりかえであることについてわ既に述べた通りである。
 学校当局わ三月十六日の票決をもつて最後的のものと断じた。それによつて漸く、望み通りの結論をえたわけで、某方面の思召しにもかなうものであつた。從つて、この結果をしつかり握り、教授会の決定を無視し、輿論にも耳傾けず、強引に押通している。これで、問題わ終つたとしている。
 併し、この決定にわ色々問題がある筈である。十一対九で多数決できめて了つたが、こういう場合わ三分の二が普通であろう。又、『眞相報告』の云うように、「十一対九という僅少な差は如何に不申請決定の論據が不確なものであるかを証明するものに外ならない。」更に、わざわざ開かせた文理学部教授会の決定との関係の問題もある。少くも評議会と教授会との協議会位わ開くべきものである。又、評議会わ無記名秘密投票であるから、黒白わ弁じ難いが、二十人位でわ段々分つてくる。そして理科出身二評議員が黒を投じた疑が濃厚であるということである。若しそれが事実とすれば、教授会の決議を裏切つたことになり、この二票が白であれば全体が白となる。
 これらのさまざまの疑問に対して頬被りのまゝ押通しているのわ、苦心の末えた望み通りの結論をにがしたら大変だからである。
 以上の概括として、私が『図書新聞』(第四六五号、二五・五・一七)に載せた文章を再録しておくことにする。

    「私は何故追われるか =現象の根本を把握せよ=
 昨年の七月イールズ声明があつてから、各地の大学で辞職勧告等が行われた。私の場合は、九月五日新制大学への登壇停止が命令されたのが事の起りであつた。その後今日まで、さまざまの事があつたが重要なのは今年の一月以後であ
 るから、その間の経過を簡單に述べてみよう。それが「私は何故追われるか」を明らかにする所以にもなるであろう。

 評議員会とは別に、文理学部教授会というものがある。神戸大学では文理学部は文科、理科を夫々独立のものとして扱う約束であつた。それに從つて、一月二十三日に文科教授会が開かれ十九対一で「申請すべし」(文部省に)と決定した。その後、文科教授会は学内だけのものであつて、対外的に、例えば、対文部省的には意味がない、法的に意味があるのは文理学部教授会であるといわれ、二月二十二日に文理学部教授会が開かれた。
 この教授会は特別に「小松問題」のためだけに開かれたのであつて、文理学部教授会の開かれたのはこの時一回だけである。
 この教授会は秘密会であつて、発言は速記して何処へやら提出するということであつた。そして、その際、「賛成した者は首だ」とか「十名リストに載つている」とかの噂が乱れ飛んだ。聞く所によると、会議の前に某教授があやしげ
 な冒頭陳述を行つたが、一々反駁されたとのことである。
 結局、文理学部教授会も二十七対三で同じく「申請すべし」と決定した。
 評議員会の方で問題としたのはまず提訴問題(と云つても分らないだろうが、今は説明の余裕がない)、次に、私の著書、論文、講演、政治的行動、道徳問題等の調査であつて、根掘り葉掘り取調が行われた。最後に、学長から私への質問書の形で思想調査が行われた。右の中特に重要なのは思想調査であろう。
 三月初めのことであるが、評議会では現在こういう問題が議論されている。その問題に答えてほしいというので、それをまとめて学長から私への質問書の形で問題が出された。それは次の如くである。
 一、暴力革命又は暴力思想
  イ、暴力革命又は暴力主義を是認するか
  ロ、マルクス、レーニズムと暴力革命又は暴力主義との関係をどう考えるか
  ハ、共産党の基本方針ことに野坂声明後における基本方針と、暴力革命又は暴力思想との関係をどう考えるか
 二、党の規約と国立大学教授の職責との関係
  イ、共産党の規約ことに第二條第一項及び第二項と人事院規則ことにその十一についてどう考えるか、この点について過去にいかに行動したか、今後いかに行動するか
  ロ、共産党の規約によれば党の政策や決議を実行せねばならぬことになつているが、これは学問の自由を制限すると考えぬか
  ハ、共産党の規約第二條第一項及び第二項は、人事院規則にていしよくするものと考えぬか、ていしよくする場合はどちらの義務に從うか
 以上の質問には答えたのであるが、その頃、団体等規正令(個人にも適用される)に違反しないと宣言せよ、との申渡しがあつた。これには「人を罪人扱いするなら今後何も返事をしない」と答えた。このような思想調査が一学内で行われたのは何を意味するかは自ら明かであろう。 
 さて、三月十六日の最後の評議員会で採決され、十一対九で黒と出た。無記名秘密投票だから黒白は判じ難いが、二十人位では段々分つてくる。投票の方式として、評議員でない所の学長が投票したことは問題に なろう。なお、理科
出身の二評議員が黒を投じた疑が濃厚であるということである。若しこれが事実であるとすれば、文理学部教授会を裏切つたことにもなり、又この二票が白であれば、全体が白となるからまことに重大と云われねばならない。
 学校は三・一六の決定を最終的のものとして申請しなかつた。そして学長は「小松教授申請問題について」という立派なパンフレツトを作って全国に送附した。このパンフレツトについては、多くの人から事実と相違している点を指摘
されている。
 私は三月末で予科教授の身分がなくなり、四月以後文部教官だけが残つている。そして四月十三日附の「審査事由説明書」を受取つた。教育公務員特例法によると、審査請求が出來るので、五月一日に請求書を提出した。東大と同じよ
うな公開審理が近く行われるであろう。なお、その後専門家に調べて貰つた所によると、学長が教授会の決定を拒否したのは違法であり、私の受取つた「審査事由説明書」も無効であるということである。この法的問題も今後に残されている。
 問題は以上のような経過を辿つたのであるが、根本は誰にも明かであろう。現象としては種々の出來事であつたが、根本を把握すれば、何故そのようなことが起ζるかは自ずから理解される。それが重要なことである。 (五・八)」

 さて、三月十六日わどういう日であろうか。某教授わ言つた。「十一人の鳩山一郎が出來た。」「三・一六わ神戸大学轉落記念日である。」「今後三月十六日を大学の自由を守る記念日としよう。」又、他の教授わ曰く、「私わ神戸大学教授というのが恥ずかしいから、名刺を刷らない。」十一人の評議員が、何の理由もないのに、黒を投じえたことは不審にたえない。良心の呵責を感じないかどうか、たずねてみたい。

      六 三・一 六 以 後
      1
 三・一六によつて問題わ一応結論が出たような形になつた。学校当局も、学内外の動きがあつてももう大したことわなく、このまゝ押通せると考えた。所が事体わそう簡單にわいかなかつた。
 住吉(神戸)、姫路の新制大学の学生が三月十七日から無期限ストに入り、途中紆余曲折わあつたが約一ヶ月続いた。その間、学長その他が度々説得に出かけたが、効果なく、却つて学生側の態度を強硬にした。学生側の主張わ神戸教養部の『眞相報告』の「学生の立場に付いて」が十分説いている。
  
昨年九月小松教授が第一次申請並びに授業時間割より削除され、後我々の不審の聲に封して學生部長談として「客観状勢に鑑み愼重考慮中」と發表されて以來、我々は赤色教授追放が本學に於て、起りつゝある事を察知したのであ る。その後年も更り、申請決定の時期近づくや我々は小松教授を守る爲、ハンスト其他を以て當局に對して、小松教授申請を要望し、評議會に對し速やかに小松教授問題を審議決定さることを要請したのである。
  それより約一ヶ月の後我々の期待を裏切り、當局は提訴並びに「提訴に寄る聲明」を不申請の決定的理由として不申請を發表した。我々は最早實力行使の外に要求貫徹の途なきを知り、三月十七日より無期限ストライキを以つて、小松教授申請並びに學内民主化の爲、評議會を改組し、學部自治の原則を即時實行することを要求し、今日に至つたのである。前にも述べた如く今回の當局の措置は、大學の自主性を失ひ、外部權力に學園の自由を譲り渡し、且つはポツダム宣言、憲法、に違反するものである。自由を標榜せる大學學生として神戸大學全學生は、學問思想の自由を守る爲、我々の自由を侵さんとする者に對して最後迄戦ふ覺悟である。

 この時のストライキわ世間の注目も引き、新聞にも報道された。この頃、神戸の某新聞わ度々私に関するデマ記事をのせ、隨分迷惑もした。例えば、私の談話として、学生わストライキをやめ、学業に專心せよとの記事が載つた。私わストライキをやれともやるなとも言つたことわない。このデマ記事わ相当大きく学生に影響した。この種のデマ記事わ某新聞にだけ数回出たのであるが、それが何処から出たかわ大体見当がつくというものである。
 学校当局わ三月十六日まで問題を引伸し、休みに入るからまず大丈夫と思つて結論を出した。所が、新制大学の学生が意外に強く出たので、その目算が外れたであろう。学長わ住吉、姫路の兩方の学生大会に出て、「学長談」と同じ趣旨のことを繰返し繰返し説いた。それを聞いた学生が私の所へ度々事実かどうかをたしかめに來た。学生の話を聞いてみると、学長の話わ針小棒大に、しかも事実を歪めたものであつた。眞実を蔽いかくすためにわ、無理をしなければならないことがよく分るのである。服部氏の云うように、「ねつ造された『事実』は、互に矛盾し合つて、その正体をばくろする。」矛盾わ矛盾を生むのである。
 その中に、「学長談」を敷衍したパンフレツト『小松教授申請問題について』が出來た。聞く所によると、千部印刷して、全国大学の学長・学部長、学術会議会員、抗議を申込んで來た所等え送附したということである。一々番号がついていて、何番わ何処え行つたということが分るようになつているらしい。学生にわ容易に渡さない。抗議を申込ん來た所と云つても、民科哲学部会のように初めから反駁されると分つている所えわ送つてない。
 このパンフレツトわ大判で良質の紙を使い、大変立派にみえる。その金が何処から出たかを心配している向もある。このように外見立派なものを作つたのわ一つのトリツクである。中味わインチキでも、外見が立派であれば、人わ中味まで信用出來るような錯覚に陥る。学長のパンフレツトわこの心理を利用している。実に巧妙なものである。そして神戸大学長田中保太郎の名で著されてあれば、つい人わ信用する。しかも、容易にうけ入れられそうな所をねらつて発送された。一般の人わ余り事実を知らないのだから、信用するのも無理わない。このパンフレツトわ相当大きい影響を与えた。たとえ眞実を語っても、紙一枚に表裏ともギツシリ活字がつまつていたのでわ余り人が信用せず、到底学長のパンフレツトに太刀打が出來ない。
 このパンフレツトわ世に「怪文書」と称する。心ある教授達わこれを全国にくばられたことについて恥ずかしい思いをしている。某教授わ、「このパンフレツトを読んだとき、癩に障つて一週間程ねむれなかつた」と云つた。全体としてこじつけである。このような文書を学長の名で著し、全国に送附したことに対してわ、評議会も教授会も責任を追及しなければならない。
 このパンフレツトの事実に相違する点の指摘や批判わ服部英次郎氏の『学問的・道徳的・教育的批判』(『神戸大学新聞』臨時号、七・一五)にくわしい。唯、大事なことわ、事実に相違し或わ事実を歪曲しているのわ、頭が悪くて記憶力がないので間違つたという性質のものでわなく、凡て一定の方向に向つて歪曲されているということである。即ち、あることないことをでつちあげ、私を悪人に仕立て上げ、何とかして追放を尤もなことと思わせようとする目的に沿つてこじつけられてあるということである。私わこのような悪質な文書をみたことがない。
 元來、多数決できまつたことわ理由附けわいらない筈である。多数決でこうきまつた、というだけで足りる。然るに、パンフレツトまで作つて理由附けをせざるをえない所以のものわ、うしろめたい所があるからである。良心の呵責をまぎらすために、あゝいう無理をせざるをえないのである。本当の不申請の理由が明かになれば困ることでもあり、恥ずかしくもある。恥ずかしさをかくすためにわ「いちじくの葉」が必要であり、立派なパンフレットわ「いちじくの葉」に外ならない。
 若し、学長が「占領下の日本でわ事情止むをえないから辭めてほしい。ついてわ自分も責任をとる。」というのであれば、学長としての立場は一應話わ分るともいえる。然るに、本当の理由わかくし、從つて自分の責任わ回避し、あつちえこじつけ、こつちえこじつけ、私にだけ責任をなすりつけるやり方わ憤慨に堪えない。
 学校当局わ三・一六の決定を金科玉條とし、凡てを頬被りで強引に押通し、何等責任を感じない。そらゞゝしい「情において忍びない」の一句ですますつもりらしい。二、三月頃、誰でもが、何れにしても学長わ辭めるだろう、と云つていた。併し、少しもそのけはいがみえない。少くも公約に対する責任、遠くから呼び寄せたことに対する責任わある筈である。勿論、法的な問題でわなく、人間としての責任である。
      2
 学生運動の方わ新制大学が四月中旬まで續き、旧制学部が始まると共にその方えバトンを渡した形になつた。住吉(神?)でわ今迄の経過を述べ、批判を加えて報告を作つた。これが四月十三日附の神戸大学神?教養部学生自治会小松問題対策委員会『神戸大学小松問題眞相報告』である。これわ今迄にも度々引用したが、この種のものでわ最もすぐれている。紙一枚の表裏に印刷したものであるが、学長のパンフレツトにくらべ、その外見に反比例して立派である。学生のたものであり、体裁も立派でないので、世間の人わ余り信用しないかも知れないが、よく急所をつかんで眞実を語つている。
 文科教授会わ三月二十日に開き、「文科の立場」を決定し、学長および評議会に申入れを行うことにした。それわ次の如きものである。
     文 科 の立 場
 文科教授會は三月二十七日小松問題に關し、學長及び評議會に次の如きの申入れを行うことを決定した。
一、評議會が小松教授を不申請と決定した理由について發表せられた學長談、同補足及び文科教授會(三月二十日開催)の席上に於ける學長の説明等は文科教授會としては承認し難い。それは次の理由による。
 (1)學長談に於て評議會が單に特定政黨に所属するというだけでは罷免の理由とならないという大學教授連合の立場をとるものであることを明言しながら、文科教授會に於て學長が不申請の理由の一つとして共産黨員たることと國立大學教授としての職責とは抵觸する疑ありという点を擧げていることは大學當局の態度に前後矛盾するものがある。
 (2)小松豫科教授は暴力革命を否認しているにも拘らず共産黨に所属していることを以て暴力革命を肯定する疑あるものとしてこれを判定の一理由としたことは不當である。
 (3)大學當局が最初から大學教授連合の立場を堅持していたならば、小松豫科教授を二十四年度の第一次申請から削除するということは起こり得なかつたであろうし、從つて提訴も當然起こらなかつたし、提訴に寄せる聲明も發表せられなかつたと考えられる。それ故提訴問題は大學當局がこの問題に對して終始一貫した態度を以て臨んでいなかつたこと、そしてそのことが小松教授に不安の念を與えたことより派生した問題であると考えられる、このため提訴問題を有力な不申請の理由とすることは承服し難い。
 (4)評議會がその決定に際し「黒白の効果」を考慮したことは大學の自主性を喪失したものである。
二、文科教授會はその決議が正當の理由なくして否認せられ、學部自治の原則が破られたことを確認する。
三、よつて文科教授會は評議會の再考を求めるとともにこの機會に學部自治の原則を確立されんことを強く要望する。
 これわ文科教授会で作つた『小松問題の経緯』に載つているものである。なお、この問題に関する報告、声明、申入れ等わ夥しい数に上る。資料だけでも彪大なものである。今わ必要に応じ、引用或わ収録するに止める。
 更にこゝで特に述べておきたいのわ、私がこゝまでねばつて來れたのわ(八月六日記)、専らバツクの支持によるものであるということである。それがなかつたら簡單に途中でつぶされて了つたであろう。最も直接にわ文科教授会、学生及び学内の進歩的教授並に職員が私を支えてくれた。次に、学外、その中でも関西の各大学の教授・職員組合・学生、民科等の団体が強力な支援を与えられた。又、個人的に激勵された方々も多い。
名古屋大学の眞下信一氏わ(二四年一〇月)、「貴学において学兄の御就任をめぐつて奇妙な問題が起つていること、服部氏からも聞き、又新聞でも見まして小生はなはだ遺憾にたえませぬ。この不当な、時代におもねる動向に対して元気に斗つて下さい。私たちも出來るだけの支持を惜しみません。みんな手をつないで進まねばならぬ時になりました。祈御健祥!」
 名古屋大学の服部英次郎氏わ(二五年五月)、
 「これまで私の不行届のため貴兄はじめ皆さんに御迷惑をかけて申訳ない次第でありますが、これまでの御苦労もきつと神戸大学創設の輝かしい数頁となるものと信じて居ります。」
 和歌山大学の北川宗藏氏わ(二五年七月)、
「昨年來のはげしい斗争でおつかれのことと思います。我国の学問の自由のための斗争史上の一つの大きな事件故、苦しいでしようが最後まで斗いぬいて下さい。学兄の不屈の斗争は和歌山の若い教師たちにも大きな影響を与えています。公開審理には和大職組の代表も毎回傍聴に出ています。」
 この一年間の絶大な支援に対してわ感激の外わない。こゝで厚く謝意を述べておきたい。
 問題わ全国的の輿論に支持され、パージに賛成の声わ殆ど聞かれない。僅か二十人の評議会が、しかも十一対九という二票の差で、教授会の決定をも無視して押切るのわ決して民主主義とわ言えない。輿論を無視して顧みない点でわファツシズムに通ずるものであり、その上レツド・パージが戦争えの地均らしであることを思えば、東條・ヒツトラーの道を歩むものと云つても過言でわない。
 尚、三月末私に対して辞職勸告が行われ、三月二十七日の予科教授会において、私がこれを受けないことを決し、教授会の承認をえた。
      3
 三・一六以後も学外からの調査団派遣、抗議申入れ、声明書発表等わ後を絶たない。何れも申請拒否が不当であるという点を主張している。その中の主なもの二、三を摘記しておく。
 大学法対策委員会大阪地方協議会委員わ、單に学長に対してでなく、各学部教授会に対して次のような申入れを行つた。
  神戸大學に起つている小松問題は學問の自由・思想と良心の自由が守られるか否かの重大なテストケースをなすものでありますが これについて仝教授の申請拒否を決議した仝大學協議會ならびに田中學長の態度は學問と思想の自由を自らふみにじるものであつて、その不当は吾々のとうてい黙過し得ないところであります。わが大學法対策委員会大阪地方協議會としても、この問題についてはすでに再三にわたつて田中学長に対して抗議を行つてきてをり、また今後も必要に應じて適宜の行動に出るつもりでありますが、貴學部教授會におかれましてもごの問題の本質に関して深く検討され學問の自由と思想の自由擁護のために何らかの具体的行動に出られるよう切に希望する次第であります。
   一九五〇年五月二日
                                   大學法対策委員會
                                    大阪地方協議會委員長
                                          伏 見 康 治
     大學
      学部教授會御中」
 調査団の方わ、三月二十、二十一日の兩日、渡瀬譲、伏見康治、山口省太郎(以上阪大)、西川清治(大阪市大)、成田日出雄(民科)の五氏が調査に來られた。その結果を『神戸大学小松教授申請拒否問題調査報告』として発表された。結論わ「学長が申請を拒否するにたる正当な理由は認められない」というのであるが、「調査報告」わ次の如くである。
  (一)提訴理由の有無にかかわらず学術会議に提訴したことを問題とするのは不当である。
  (二)一九四九年八月の第一回の申請から小松教授を省いたのは、定員其の他の技術的な理由によるといふが、其の場合実際には「客觀状勢」「文部省の意向」「小松教授の思想傾向」が考慮に入つているのである。明らかに同教授を差別的に取扱つているのであり、この点に提訴の理由は充分認められる。
  (三)声明の内容が激越不当であつたかどうかは、大学教授の適格又は申請の問題とは関係はない。
  (四)声明の内容は不当なものでない。
  (五)小松教授の行動については、学校当局との間に若干の連絡不充分のあつたことは認められるが、其の責任は同教授のみにあつたのではなく、それは申請の問題とは全然無関係である。
  (六)このために特に開かれた文理学部合同教授会は、いろいろな事情を充分かんがえた上で小松教授の申請を要求することを決議したとのことである。それは以上の我々の結論と、同様の見解であつたものと推察される。
 次に、四月十二日、渡瀬譲、山口省太郎、成田耕造、美馬源次郎、津村正光(以上阪大)、矢野豊(大教組大学高専部)、名和統一、西川清治(以上大阪市大)、堀江英一(京大)、成田日出雄(民科)の十氏が調査団として來られた。そして、職員食堂で文科教授、経濟学部教授、学生自治委員及び私等と五時間に亘つて懇談した。その結果を『神戸大学小松教授申請拒否問題調査報告』として発表された。結論わ、前回伏見教授等のと一致していて、次の如くである。
  (一)学長の申請拒否の理由は正当なものとは認めがたい。
  (二)小松問題の本質は、それが「特定の政党に所属すると云うだけの理由にもとずく差別待遇であり、学問、思想、良心の自由が守られるか否かの重大なテストケースである」ことである。
  (三)文科教授会の三月二十七日の学長及び評議会への申入れを支持する。
  (四)問題の重要性にかんがみ全神戸大学の教職員諸氏の奮起を望む。
  (五)学生の要求は正当でありそのために闘ふのは当然である。
  (六)小松教授を守ることは、学問の自由、思想良心の自由を守ることであり、学問、思想、良心の自由の弾圧は戦争の思想的準備である。
  (七)学長のやり方は日本国憲法、一九四五年の連合軍最高司令部の指令及び、日本学術会議の決議に反するものである。
  (八)平和をのぞむだけでは戦争は阻止出來ない、団結と行動によつてのみ平和は守られる。
 もう一回、五月十七日、阪大の山口省太郎、津村正光、大阪市大の西川清治氏等の調査団が來られ、同じく職員食堂で文科教授、学生自治委員等と懇談した。この時わ別に報告わ発表されなかつたが、結論わ同じであつた。丁度文科教授会のあつた日であつたので、文科教授の出席が多く、懇談わ活溌であつた。特に、公開審理等の法的問題も出ていたので、この方面の問題も討議された。
 以上、数回の調査団の結論わいつも同じで、申請拒否の理由わない、ということであつた。これわ当然のことであつて、学長があげている理由わ何れもつまらないことである。何れもとるに足らない些事である。度々云うように、それわこじつけであつて、本当の理由わ別の所にある。
 一体、大学教授の適格・不適格をきめる根本の基準わ何であるか。それわ学問的能力と業績とでなければならない。所が、学校当局わこの根本問題を忘れて了つている。そして枝葉末節のみをつついている。これわ極めて奇怪のことと云わねばならない。
     
七 公 開 審 理
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 四月十二日、名和教授等調査団との懇談会の席上、学生の服部一君からこの問題の法的性質について発言があつた。今迄我々わ法的問題についてわ比較的無関心であったが、この方面について研究する必要を認めた。
 四月二十四日、文科教授会が行われたのを機に、弁護士菅原昌人氏を招いて説明を聞いた。即ち、この問題を法的にみれば、二つに分れる。第一わ、「審査事由説明書」の問題であり、第二わ、教授会の決議を評議会が無視した問題である。
 前者に関してわ、私わ四月十四日に次のような「審査事由説明書」を受取つた。
   審査事由説明書
                                   文部教官 小松攝郎
 神戸大学神戸経濟大學豫科の課程は本年三月三十一日限り廃止された。よつて貴官は国家公務員法第七十八號第四号の「官制の改廃による廃職」に該当し免職となる。こゝに本評議会は教育公務員特例法第六條及び第五條第二項の規定により審査事由説明書を交附する。
 昭和二十五年四月十三日
                              神戸大学評議会
                                 右代表 田中保太郎 印
 併し、これでわ審査事由が明かでない。例えば、「刑法により懲免六年に処す」と同じであつて、個々の事例の説明がない。「死んだから死んだ」という同語反復と同じである。又、不平等取扱いをしているのであつて、人事院規則に悖るものである。
 なお、昨年度末のレッド・パージにおいてわ全国的に同文の「審査事由説明書」が交附されていることに注意せねばならない。このことわ、何処かで指令を出して、同文のものを交附させたことを証明するものである。外部からの指令で動くのわ、共産党員でわなくて、大学当局である。教授会における策動も同じ手である。
 併し、問題の本質わ、レッド・パージを「官制の廃止」にすりかえたということである。本当の理由を表面に出さず、新制大学から閉め出しをして、首切りでないという形をとろうとした。他の予科教授わ何れも新制の方え移したのに、不平等の取扱いをして一人だけ申請せず、官制の廃止になるのを待つていた訳である。從つて、官制の廃止以外に何の理由もなく、かくて同語反復の「審査事由説明書」が生れた次第である。
 予科の課程が二十五年三月末日で廃止になることわ二年も三年も前から分つていたことである。それを知りながら放任しておいてのわ、新制大学からの閉め出しによる首切りをねらつたからである。今更「審査事由説明書」もそらぞらしいものである。從つて、問題の重点わ、「審査事由説明書」よりも、三月十六日の評議会にある。
 法的に云えば、教授を採用する權限わ教授会にある。教育公務員特例法わこのことを明示している。
 第四條 学長及び部局長の採用並びに教員の採用及び昇任は、選考によるものとし、その選考は、大学管理機関が行う。
 第二十五條 この法律中「大学管理機関」とあるのは、当分の間、次の各号の区別に從つて読み替えるものとする。 
  一 第四條第一項については、………… 
   教員にあつては「教授会の議に基き学長」
「教授会の議に基き学長」とわ学長に拒否權がないことを意味する。「議を経て」の場合わ拒否權があるが、「議に基き」わこれと異る。又、学長が申請すれば、文部大臣に拒否權がない。これによつて大学の自治と学問の自由が守られるのである。然るに、茨城大学の梅本克己氏の場合のように、大学で申請しても、文部省でつき返したような例もある。文部省が大学の自治を蹂躙している。
 併し、法的問題わとにかくとして、どこの大学でも人事權わ教授会が持つている。これわ厳として犯すべからざるものである。大学の教授会わそれだけの權威と責任を持たなければならない。そうでなければ、大学とわ云えない。京大の瀧川問題にみても分るように、教授会の決議が無視されたら、大学の存在の意義わないと云える。実際問題としても、学部の人事に対し、他の学部から干渉されたら、学部の編成わ出來ない。それ故、学部の自治わ何処の大学でも自明のこととなつている。
 所が、神戸大学だけわ自明のことが自明でない。文理学部教授会、しかもわざゝゞ開かせたところの教授会の決議を学長わ無視した。これわワンマンによる独裁であり、学問の自由わ蹂躙された。評議会が審議したことわ越權であり、学長が教授会の決議を無視したのわ違法である。
 神戸大学の評議会わその成立、權限わ随分あやしいものである。それも内規によるものである。文科教授会に対してわ内規によるからと云つてその決議を無視しながら、評議会の方だけわ認めるというのでわ矛盾も甚だしい。今わ過渡期だから五ヵ年間わ評議会が人事件を持つということであるが、それわ少しも法的意義を持つものでわない。内規わ法律に優先することわ出來ず、法律に反する内規わ無効である。
 以上のような意味において、学長がパンフレットの最後において述べていることのいかにこじつけであるかわ明かであろう。
  「教育公務員特例法は、教官の選考は学部教授会の議に基き、学長がこれを行うと定める(同法第四條第一項および第二十五條第一項第一号)。およそ完成せる總合大学においては、教官の選考は文字通り学部教授会の議に基き行わるべく、別に評議会がこれに干渉することの好ましからざることは勿論であるが、本学の如く、数個の大学、高等学校、専門学校及び師範学校の合体により成立し、なお完成途上にある大学においては、特別の措置も亦必要なのであり、しかも右の制規は、これを法律的に見れば、学長が学部教授会の議に基いて教官の考をなすに当つて、その制規に從つて評議会に附議し、その決定に從つて学長としての態度を決定するというに帰し、何等右の特例法に抵触するものではないのである。
  もとより評議会は、その審議に際し、学部教授会の決定を重んずべきことは当然であるが、しかし内部の制規により評議会の承認によつて大学の意思が決定されることが定められている以上、各評議員において、学部教授会の決定を承認すべきや否やについて、各自独自の判断を下すべき責任を負うものなること、從つて場合によつては学部教授会の決定を承認せざる事態を生ずることあるべきは、改めていうをまたないところであろう。」
 こゝにわ何等の合理性もみられない。この問題だけでなく、同様のこじつけが終始行われている。西田哲学の絶対矛盾的自己同一に近い矛盾が平気で横行している。他人に対してわ、根掘り葉掘り揚足とりをしながら、自分の方わ全く無感覚で、平気で矛盾を犯している。服部氏の云う「軍部的感覚」とわこのことである。
 教授会の決議を無視することの違法であること位わ英米法の大家が知らない筈わない。知つていて頬被りをしているのわ何故であるか。それわ、教授会の出したような結論でわ具合が悪いからである。何とでもして白を黒に変えければならない。白いものを白いと云つたのでわ自分が困るのである。そのため、陰謀を使い、桐喝を加え、違法を犯してまでも強引に白を黒と言いくるめて了つた。遵法精神があれば、教授会の決定に從つた筈である。何故從えなかつたかという点に根本問題があり、その他のさまざまの理由附けわこじつけにすぎない。
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 教育公務員特例法によれば、「審査事由説明書」を受取つたものわ、三十日以内に公開審理を請求出來る。そして請求があつたときわ、大学管理機関わ口頭審理を行わねばならない。それによつて私わ五月一日に「口頭審理請求書」を神戸大学評議会代表田中保太郎宛に出した。その「審査の性質」即ち「不服の理由」わ次の如くである。
  「(一)昭和二十五年四月十三日付の宛名人より請求者に交付された『審査事由説明書』は、人事院規則にもとり、
 『免職となる』ことの理由とはならず、(二)文理学部教授会の決議を無視した評議会なるものの決議は違法である
 から、教育公務員特例法第五條及び第六條による審査を請求する。」
 辨護人わ、辨護士としてわ自由法曹団の菅原昌人(主任)、浪江源治、山本治雄、能勢克男の四氏、大学関係でわ服部英次郎(名大、元神経大予科長)、古林喜楽(神経大)、伏見康治(阪大)、寺沢恒信(都立大)の四氏、それに第二回公開審理からわ文科の教授の井上増次郎、多田英次、二宮尊道(尊徳五世の孫)の三氏が加わり、計十一氏となつた。
 さて、「審査請求書」を出してから、学校当局が学生等に語つた所によると、学校側の考えわ次の如きものであつた。「小松問題わ既に濟んだ問題である。從つて結論わ出ており、公開審理わ形式的に開くだけであつて、一分か二分ですんで了う。(一)の問題わ審議するが、(二)の問題にわ入らない。(二)に入つたら発言を禁止する。」
 併し、これわ驚くべきことと云わねばならない。自ら違法を犯しながら、その問題に觸れたら「黙れ」というのであれば、東條軍閥のやり方と同じである。あの時代に佐藤軍務局長わ、議員が自分の気にいらないことを云うので「黙れ」と云つて言論を封じて了つた。神戸大学当局の態度もこれと同じであつて、ファッシズムと云うより外ない。悪いことをしていなければ、どの問題に觸れても困らない筈である。(二)に觸れられるのを恐れるのわ、うしろめたい所があるからである。そのため問題を(一)の形式的論議に限つて、(二)は頬被りですごそうとするのである、併し、(二)わ(一)の原因である。原因を伏せておいて、結果だけを問題にするのわ凡そナンセンスである。
 さて、公開審理わ今迄に六月一日、一五日、二十九日の三回開かれた。その詳細わ略して、記録の意味で新聞報道を借りることにする。
 第一回についてわ『毎日新聞』(六月二日)による。
  「第一回口頭審理開く  神経大小松教授問題
三日の全学連のゼネストに先立ち神戸大学の百二号教室で一日午後二時半からかねて注目されていた神戸経大予科教授共産党員小松摂郎氏の免官に関する第一回公開口頭審理が田中学長議長となり同大学評議員によつて開かれた、会場は定刻前から阪大、京大、大阪市大、同商大をはじめ和歌山大などからも教授学生がかけつけ、全金属労組の赤旗を交えた聴衆約八百名が詰めかけ息づまる空気をはらんだ
 まず菅原昌人弁護人から「同審理が裁判の形式をとるものか、裁くものは誰か」の技術的な面から鋭く評議会(二十名)に対して発言、一たん休憩後再開、小松教授の弁護人で当時の予科長であつた服部名大教授が「神戸   大学の評議員会は官報にすら掲載されていない、大学の管理機関としては法的根拠をもつておらずしたがつて今回の小松教授の場合のごとき教授の任免を論ずる資格はない」と論及し結局小松教授の口頭は審理の本論に入らぬまま次回を十五日として同日午後四時十五分閉会した」
第二回わ『神戸新聞』(六月十六日)。
  「意見書めぐる論戰 小松神經大教授の公開審理
神経大予科教授小松攝郎氏(共産党員)の第二回公開審理は十五日午後三時から神大六甲学舎一〇二号教室で行われたが、第一回と異り自治会は傍聴学生に対し「審理中の野次を自粛し、最後まで学生らしさを失わぬこと」を要望、赤旗の姿もなく静粛に進められた、弁護人側はさらに同校文学部教授三名を弁護人團に加えて審理を開始し、まず『神戸大学教育職員の轉任などの処分に関する口頭審理手続規則に関する意見書」が弁護人から提出され、評議会との間に激しい意見の交換があった、意見書について弁護人側が
一、憲法によって保障された大学の教育特例法は大学の憲法である、これが一部によって作成された審理規則であってはならぬ
一、同審理にあっては学長は原告で小松氏は被告である、学長も調べられる身である と説明すれば評議会柚木法学部長は
一、同審理規定作成の場合立法権のある評議会は議会が憲法を作るのと同じだ
一、規則そのものは評議会が決定するものだ、手続を愼重に多くの人に判断してもらうための公開審理だと述べ、また小松教授から
評議会は最高のものであとはどうでもよいという考えがあるのではないか、同審理は学長のワンマンパーティの感が深い、これがやがてファシズムに通ずるとの発言などがあり、終始評議会の構成、公開審理の目的について論議され、同五時十五分閉会した。次回は二十九日」
 第三回に関してわ、新聞報道わ見当らなかつたが、三回をまとめたものとして『学園新聞』(七月一〇・一七日)を再録しておく。
 「展開する激烈な法理論争 伏見康治氏ら特別弁護に
  ☆不申請をめぐって……
 小松教授の不申請事件はいわゆるレッド・パージなのか?昨年のイールズ声明に端を発した同じような事件が佐賀、富山、山形等の各大学に起り、昨年末から本年三月頃にかけて学園問題を多彩にいろどり、その後次第々々に下火になつて行つたのも全國的な傾向であつたが、ひとり神戸大学のみは一月の小松教授の学術会議提訴、これをめぐつての数度にわたる学生ストライキ、三月の田中学長の不申請声明およびパンフレツトの弘布、阪大伏見、渡瀬教授等の調査團派遣等双方はげしい應酬をつづけ、ついに小松氏および学生側の公開審査要求がパスし、六月一日その第一回審査が神大一〇二教室で施行されたのである
  ☆双方陣容整う
 さすがに第一回目は神大始まつて以來のこととて、大学評議員側にも請求者側にも傍聴人である学生側にも物々しい空氣がみなぎつていたが、尼ヶ崎電産をはじめ阪神間各種労働組合から大挙應援にかけつけるという噂も風評にすぎず赤旗をたずさえた姫路分校の学生が古道補導課長と押問答の末まかり通つた程度であつた、定刻より三十分おくれて午後二時三十分議長たる田中学長はじめ十八名の評議員が着席、小松教授側の弁護人としては自由法曹團の菅原、能勢、浪江各弁護士、特別弁護人には山本治雄氏、服部名大教授(前神経大予科長)、古林神大、伏見阪大教授、寺沢都立大助教授の八人であつたが、二回目からあらたに神大教官たる多田、二宮(二宮尊徳五世の孫)、井上三氏が追加された、まず議長の田中学長が「今回の審査は、神経大予科の解消に伴う課程担当教官の身分の解消についてであり……」に対し「ウソをつけ!」というヤジがとぶ、会場の構成、議事録問題で小競合があつた後、審理に先立つ約二十日前神大評議会が判定した口頭審理手続規則についての討論が開始され、実体審議に入る以前に請求者側菅原浪江両弁護人対評議員側川上、柚木各法学部教授との間にはげしい法理論争が展開され、これが第三回目までの議事の主流となっているのである
  ☆手続規則で一もめ
 そもそもの始まりは、寺沢弁護人により「学校側の手続規則には第三條に弁護人の数を三人以内と制限しているが(後に改正した)、これは教育公務員特例法に定められた権利を侵害するものとして法律上違反ではないか」の動議が提出されたもの、一方菅原弁護人からは「評議会の会長として、小松教授の不申請を決定し、かつそれについてパンフレットを発行して全國各大学に配つたような田中学長が、ある種の偏見をもつていることは疑いなく、中正なるべき審理の議長としては不適当である」という意味の不信任案も出たが、議長(田中学長)は「手続規則は評議会の責任において作るものだから、自主的にきめ得るものであり、またかゝる議長の不信任案は評議会そのものの存在を否定することになり、公開審査は成立たぬ」と反はく、弁護團からの代案制定希望を強硬に拒否した
  ☆法理論に攻防酣わ
 引続いて六月十五日の第二回目には「本審理は調べるものと調べられるものと二者しかなく、明らかに糾明主義である」との浪江弁護人の主張に、菅原氏が附言し「本審理の手続規則は大学自治、学問の自由の憲法でなければならぬ、それがこのような欽定であつてはならぬ」と力説、学校側柚木評議員は「原告、被告という裁判所的構成が必要なら人事院がある、評議会自体が裁定する時はそれと観点を異にする」と反論、これをきつかけに六月二十九日の第三回審査にわたつて「英米法の大家」と自他ともに許す田中議長と弁護人側はあるいはバウンドの行政法を引用、あるいはフランス革命人権の宣言に言及両々相譲らず多彩な法理論争をくりひろげ最後に菅原氏は「大正以來学問の自由を守つてたゝかつてきたわれゝゝ自由法曹團の幾多先輩の実績に照して、あくまで不正を糾明するだろう」と延べ万場の拍手を買つた
  ☆当事者のプロフィール
 第三回までは以上のような法理論争に終始し、実体審理には程遠く感じられるが、注目すべきことは第一回目には各々遠隔地のため連絡不十分であつたためか、田中学長に牛耳られていた観ある弁護人側が、二回目以後は三人の神大教官を弁護人に加え組織的な論陣を整え出したことで、実体審理に入ると一層の波らんが予想される一方評議員側は「まるで学長に飼いならされた家畜のようですよ」と学生自治委員の云うように、田中議長が「それじゃ一つこれについて柚木さんどうですか?」と指名してはじめて答弁する整然(?)たる有様「弁護人に反論した某評議員も個人的には別の意見をもつているのですよ、今はたゞ学長の御用説を云つているだけなんだ」といううがつたような一神大生の言も全然的外れではなかろう
 「ひどいのはU評議員ですよ、会議も何もほうつておいて女子藥専の修学旅行について日光へ遊びに行つてしまつたんだ」これは某学校関係者の話、弁護人側には前予科長服部名大教授のような豪傑肌の人もいて「学長も小松問題で一方ならず頭を痛められたので、御記憶がうすらいだとみえる、家へ帰つて顔を洗つてゆつくり考えてごらんなさい」と直言して満場の爆笑と拍手をさそうことがある
 「われわれは少くとも物事を実質的に考えようとするが、学長はそれをすぐ法律に解消して実質をはぐらかせてしまう。そして違法にさえならねばどんなことをしてもかまわないという考えになり勝ちなのは遺憾だ」と小松教授が陳述したが(第三回目)「英米法の大家」田中学長が自己の学問に誠実なる余り満心これ法の一字というなら敬服の至りではあるが……
  ☆何処へ行く?
 しかし第一回公開審査の時からわずか一ヶ月の間に客観状勢はめまぐるしい変化を遂た、当初は二年計画だつた弁護人側も早急な対処方法を迫られているのではないか、しかし学校側はあくまでレッド・パージではないと断言しており、当局から審査打切りの指令がない限り続行されるであろう、東大についで全國的に稀な公開審査だけに、その去就が注目されるのであつて、大学自治、学問の自由の限界を何らかの形で示す試金石となるであろう」
 次に、私が『東大学生新聞』(第五四号、八・二四)に載せた文を掲げる。

 良心の灯を守る
 私の公開審理わ今までに六月一日、十五日、二十九日の三回開かれた。場所わ六甲校舎の一番広い教室で、傍聴人わ五、六百人位、学生が多い。弁護人わ弁護士として自由法曹團の菅原昌人(主任)、浪江源治、山本治雄、能勢克男の四氏、大学関係でわ、服部英次郎(名大、元神経大予科長)、古林喜楽(神経大)、伏見康治(阪大)、寺沢恒信(都立大)の四氏それに第二回からわ神大文科教授の井上増次郎、多田英次、二宮尊道(尊徳五世の孫)の三氏が加わり、計十一人となつた。弁講人の数も、評議員が二十人であれば、その位までふやしても良いはずである。
 第一回公開審理わ、まず座席の問題から始まつた。学長、学部長が壇上、次が評議員、その次が請求者側となつていたのを壇上のものを引下し、両者対等の位置にした。ついで議事録について小競合があつた後審議に入つた。公開審理わ全国でも珍しいことであり、特に第一回わ物々しい空気がみなぎつていた。赤旗をたずさえた姫路分校の学生も古道補導課長と押問答の末まかり通つた。まず、議長の田中学長が「今回の審査は、神経大予科の解消に伴う課程担当教官の身分の解消についてであり……」というと「ウソをつけ!」という弥次が飛ぶ有様であった。
 三回までの審理わずつと規則でもんでいる。規則わ今後の先例になるから大事である。大体東大と同じような問題が議論されている。弁護人側も代案を出し、両者の根本態度について法理論が展開された。「本審理は調べるものと調べられるものと二者しかなく明かに糺明主義である」「本審理の手続規則は大学自治、学問の自由の憲法でなければならぬ、それがこのような欽定であつてわならぬ」という弁護人側の主張に対し学校側の主張わ、「原告、被告という裁判所的構成が必要なら裁判所、人事院がある。評議会自体が裁定する時わ、それと観点を異にする』というのであった。
学校側の根本的態度わ、法的に違法でなければ何をしてもいい、公開審理にわ予断があるがそれで不服なら裁判所、人事院え行け、という所にある。併し学校自ら違法を犯して教授会の決定を無視している。更に、私の行動わ凡て法律の範囲内であるのに、私の著書・論文・講演・行動等を根掘り葉掘り調べ上げ特高的思想調査もしている。また、大学わ追放するが、不服なら裁判所、人事院え行けというのでわ、大学わ何のために存在するものであるか。大学わ人を追放する所、裁判所、人事院わ人を救うところというのでわ奇妙なことになる。
 大学わレツド・パージの責任を裁判所、人事院に轉嫁している。根本の問題として大学の自治、学問の自由わ失われている。大学わ単に法律で動く所でわないはずである。学問に対する愛、人間を尊重するヒユーマニズムが大学の魂であろう。大学が裁判所、人事院よりもつめたい所になったらおしまいである。
今までの公開審理でわ、規則に関し、意見が対立したままである。七、八月わ休みで、次回わ九月七日である。状勢わ激変しているが我々わ良心の灯を守らねばならない。
昨年来のレツド・パージの問題でわ、何れの大学でも奇怪なことが行われている。併し、真相わほとんど明かににされていない。神戸大学に関してわ、私わ色々の方法で真実を明かにして行きたいと思つている。
 
公開審理わ七月二十日、二十七日に行われる筈であったが、私の健康のため休会となり、次回は九月七日に行われる。なお、一年間の回顧のために、『神戸大学新聞」(九・二五)の記事を掲げる。
 「 神大を震ガイさせた一年
  波乱動乱の一ヶ年ーその底流に目まぐるしい状勢の変化をおきここに小松問題も微妙な帰回点に到達するに至つた。ともあれこの問題は神戸大学を震がいせしめた一ヶ年であり、ここにこの回想を総括しつつ腦裡によびおこす事は意義のあることだと思われる。
   ―暗き序曲―
  七月のイールズ声明はレッド・パージに明確な一線を画したのではないかと予断していた折も折、九月の休暇あけ、無氣味な風雲が靜穩なるべき学園に襲來した。自治会はこの風評を頼りに新任早々の小松教授に焦点を絞り対抗にたちあがつた。嵐をつげる共産党細胞の壁新聞は独特のひゆと嘲笑を以つて挑戦を開始、所謂これが壁新聞事件としてクローズ・アツプされ、噴射機的な闘争展開にあわてた学校は九月十五日その意向を宣明した。
  即ち「(一)定員配置(二)イールズ声明(三)教授の学問的見地から愼重考慮している」と
   ―対立の中の小康―
  眞向より対峠した両者の緊迫状態は試驗、自治委の改選で緩和され更に九月二十三日の大学教授連盟の反対声明、十月十七日南原総長の学問の自由に対する声明もあづかつて力となつた。学問・自由と学園の自治を第一のスローガンと掲げる自治委もこの秋風の小康にのつて専ら日常闘争に血の氣をあげ、学生の意識から小松問題はやや下向した。イールズ氏講演も形式的に終り力弱い斜陽と木枯の風のうちに静かに暮れていつた。
   ―放烈な冬期攻勢―
  コミンフオルム日共批判、英國中共承認と國際國内のあわただしい雲行きと共に明けた一九五〇年初頭小松問題は愈々最后の段階に突入した。即ち小松教授の一月二十日開催される学術会議への提訴、それと共に提訴に寄する声明の公表を以つて点火され自治委が中核となつて各團体が糾合した小松教授を守る会が偉大なるエネルギー蓄積を以つて待機していた予科学生と共に激烈な冬期攻勢を開始した「早く申請せよ」「愼重考慮中」相対立したまま全学は凄絶な斗争の修羅場と化した。全学連中執も本学自治会も該問題はレツド・パーヂであるとして正面より追及、学校当局は定員配置とか学問的能力とか、政治活動の調査とかいつた問題でその鋭峰をかわそうとした。しかしこの学生の怒濤の如き圧力は十四日学部自治委のハンストを以つて頂点に達し遂に学校は十六日第一回評議会の開催を余儀なくせしめられた。予備的な討議が二回、三回評議会でなされ①教授の学問的能力②学問の自由と党規約の拘束④小松教授の提訴前后の行動が中心的議題としてとりあげられ激しい論争が行なわれた模様である。当時旧制学生は既に試験―休暇と春眠の夢を結ぶ以外に道はなくただ新制大学のみが続いて圧力をかけつつ、その採決をかたずをもつて凝視していた
   ―さいは振られた―
  三月十六日、午後八時すぎ、六ヶ月の格闘の終止符は「さい」を黒にふることを以つて打たれた。十一対九、二票の差を以つて不申請と決定されここに事態は一変するに至つた。学長の声涙下る説示にも拘ず新制大学は無期限ストに突入するに至つた。このストは小松教授を不申請と決めるに至つた。学校当局に対する抗議ストの形態をとるに至ったのである。
  ―複雑な帰趨点―
  一轉して「公開審理」開催となつた小松問題はその背景に極度に急迫化した客観状勢の潜在する事を看過することはできない。即ち全國二十五万の組織をもつ全学連の反帝反戦闘争はそのまま神戸にも入りこれが小松問題と組合されて立体的な闘争が展開されるに至つた。六月一日、十五日、二十九日と三回に亘つて開かれた公開審理は激しい法理論戦をもつて終始し、公開審理の手続規則をめぐつて両者は眞向より衝突するに至つた。だがすでに公務員の公職追放の意図も表明され、朝鮮問題の勃発にもとずく内外状勢の極度の急迫は小松問題に大きな要因として作用するに至り安易な予断は許されなくなつた。
  ともあれ波乱怒濤の一ヶ年は日本がたどつた苦難にみちた変革と矛盾の民族的うごめきの縮図ともみられるべき、且この解決方途如何も日本の一断面を展示するものであろう。(Q)」
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 今日わ一九五〇年八月十五日である。五年前の今月今日、我々わ「終戦の詔勅」というものを聞いた。そして、久し振りにすがすがしい解放感を味わつたのであつた。学問・思想の自由も恢復され、唯物論であれ、マルクス主義であれ、自由に研究することが出來るようになつた。大学においても、歯の浮くような戦争讃美をしていた戦犯教授達わ追放され、自由主義者なるが故に教壇を追われていた教授たちが教壇に復歸した。大学も久し振りに奴隷状態を脱して、自由を獲得し、生気を取り戻した。
 十数年の「歴史の暗い谷間」から抜け出た我々わ、戦争中の馬鹿げたことどもを語り合い、再び同じ誤謬を犯すまいと誓つたのであつた。所が、終戦後二年たち三年たつにつれ、次第に暗雲が蔽い始めた。五年後の今日でわ歴史わ再び「暗い谷間」に入り、東條時代と同じことが、或わそれ以上のことが公然と行われている。大学も再び轉落の歴史を辿り始めたようである。
 この時、神戸大学わその創設史にどんな数頁を書き込まうとするのであろうか。併し、何よりも歴史に学ぶことが必要である。荒木大將、鳩山文相わどんな歴史的裁きをうけ、河上、佐々木、瀧川、河合等の諸教授わどんな歴史的評價を受けたであろうか。神戸大学事件がどんな意義を持つかわ歴史が明かにするであろう。今日再び昭和初頭のファッシズムの夢をみていても、やがて夢わ破れるであろう。歴史わ機械的に同じことを繰返すものでわない。
 再び入つた「暗い谷間」において、我々わ良心の灯を守つて行かねばならない。
 良心の灯わ千度かき消されようとも、千一度燃え上るであろう。
  「京大事件の最中に、荒木陸相は、鳩山文相に、京都大学のような大学はつぶしたらよい、あんな愛国心のない学者のいる大学はつぶしてしまえといつたそうであります。それを聞いて、わたくしは、眞実を語る教授を追い出して、うそをいうような教授を残すというのなら、思いきつてつぶしたらよろしいと申しました。大学の教授がうそをいえば、世間の人はそれを本当だと思う。そのことは、やがて国家を滅すもとになり、社会を毒する結果となる。だから、眞理を究めず眞実を語らない教授をおく大学にしようというのなら、そんな大学は、お説の通りに、国家社会のためにつぶしたほうが結構である。そんなことをいつたことがあります。」(末川博・『学 問・思想の自由のために』一一八ー九頁)