九月一日     第一學年二部 小松百枝
九月一日を思ひ出せばほんとに私は其の時の有様がはっきりと思はせられる。
其の日はなんとなくむしむしする様な暑ひ日であった。
畫のぢしんに皆おそれて今度は夜中に大きなぢしんが來ると言って近所ではもうそこらへひなんしに行ってしまった。
私達は始のウチはそんなことには信じずに居ったがあまり隣でも家など明けてどっかへ行ってしまふので私はそろそろ心配し出した。
人のうはさに動かされてはいけないと思っても、もしもと思ふとどうしても心配で心配でならない。
姉は「人のうはさはうそでもたしかにこないとはきまらない」など、言ふので尚恐しくなって來る。
兄などは平氣で夕飯を食べて居るがちょっとへんな音がすると私はすぐに逃げる眞似をするので皆に笑はれるがぢしんが來て私達をつぶしてしまふ様子を思ひ出すと胸がしめられる様な氣がする。
だんだん暗くなるにつれて心細くなる。
そこらはしんとしていつもとは異ひなんだか私達のあやふひのを報せて居るやうな氣がしてならない。
せめて母でも居ってくれたならと思ったりした。
姉は一しょうけんめひで兄に若し來たときの用意等を話して居るので姉でもほんとに來ると思って居るのではないか、と思ふとどうしてもこうしてはいられない様な氣がして來た。私は外へ出れば心配がとれる様な氣がしてそっと外へ出た。なんだか足がぶるぶるして歩けない様な氣がする。
いつも子供達の遊ぶ電氣柱はひっそりとして唯電氣ばかりがぼおんとしてヰる。
遠くの方からは火の用心の様な鐘の音がきこへて來るのでいつもはこないのにぢしんが來るからかと思ふとほんとに心配で息もつけない様な氣がして來た。
ヲハリ
大正十二年九月二十六日

大へんよく氣もちがでゝゐます。
(用紙 諏訪高等女学校作文用紙)