きもの     小松百枝
私はとなりの室で少し聞いた。それは母と昔の友だちだと言ふ人と二人の話しである、
母のゆふに「ほんとに女の子供と言ふものは手がかかつてこまります。今度男の子が二人か洋服になったのでえらいたすかりますなにか式があつても常のまゝで出られますしほんとに男の子が幾人あってもよいが女の子はきものがめんどうでやりきれません、」私は少しいやに思った。來た客は「そうですよほんと私共でも同じでそれに男の子供は少はおしりの所がきれていてもそれでもどこでも出られるが着物がきれていてはみつともないし男の子が少しは着物でもきれていてもよいが女の子はそうゆうことができませんからほんどにやつかいです、洋服なら二枚で夏服と冬服でよいが女の子は夏でも幾枚も作らなければいけないのでほんとにいやになります、女の方も洋服になればよいが」母は笑って居る様である、私はそれでも洋服よりもきものの方がよいと思ふ。冬寒い時でもちよつとふところへ手を入れて暖くすることが出來る。母にとってはそんなに着物がこまるのであらうか、夏になればうすぎをし冬になればあつぎをしそれがやっかいであらう


おもしろくよみました。すっかり感心してしまった。よい場面をあらはすことが出來た。
しかし怠るな、
この文であらはそうとした心もちは
母と母との友といふ客との間の話によって文を進めてゐるとこにおもしろいところがある
男の子と女の子とのきものにたいする考へのちがいや
母なる人が子供にたいする心づかいなどが思はれる
人の母といふ人が子供のきものにたいしてどんなに思ふてゐるかといふことが生々と感じられるところにおもしろいところ、よいところがある。
そこであなたがこんどは自分の心に向って話しかけるところが、たりないやうな氣がしる、
母と客との話だけかくのがこの文で自分がかこうとした目的ではなかったやうだ むろんそれだけでもよい文にはなってゐるがもっともっと自分の心にとひ話しかけるところがあればよい