小松摂郎「神戸大学事件の記録」について
この記録は小松摂郎が1950年7月18日から8月15日にかけて大体毎晩書き続けた400字詰め原稿用紙102枚の神戸大学での事件の記録である。7月9日の日記に、「夏の中に事件の初めからの経過を書くつもり」とある。14日にまた「この休み中に一年間の記録を書いておくつもり。」とある。18日の日記には「『良心の火は消えず』を書き始める。」とある。しかし、その後題名を『神戸大学事件の記録』と改めたようである。原稿に『良心の火は消えず』を消して『神戸大学事件の記録』とした形跡がある。24日に「夜、原稿。提訴問題に入る」、30日に「夜、原稿。一日平均五枚位書いている。62枚になった。」、8月1日に「夜、原稿。三・一六まで書く。71枚。」3日に「「公開審理について」を書かく」、6日に「夜、原稿。八〇枚まで。今迄で大体主なことわ書いたと云える。」13日に「夜、原稿。一応一段落。一〇〇枚也。後、「結語」を少し書く。」15日に「夜、原稿。一〇二枚で完了とする。この休みの収穫わ『神戸大学事件の記録』を書いたこと。」となっている。
新制の神戸大学から追放されてしまったのだがこの段階ではまだ将来の日本の社会主義化に対する信念は盛んであり、7月6日には「終戦ともなれば必ず十一人のファシストを追放する。」と書いて、自分を追放した十一人に仇討ちをする計画を述べている。一方、体調は一生不調であったが、この時期もかなり悪く、なかなか根治しない皮膚病になやまされていることが分かる。この後、結核で病臥することになる。