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永い間御無沙汰しました。八月二十四日、舞鶴海軍施設部より通知
あり、八月十五日付けにて左記のとおり発令なりました。
             記
     舞鶴海軍施設部建築業務を嘱託す
     但し報酬年額千百參拾圓を給し部内限高等官とす
              (八月十五日海軍省)
以上の如しです
漸く小生も七等の高等官となった次第です。職名は嘱託とい
ふ訳です。之は二三ヶ月の間でそれが過ぎると武官になるか文官に
なるか決定し、武官なれば大尉、文官なれば技師です。
實は二十五、六、七と信州に歸る予定でおりました。二十四日の
晩に、西宮に行って居たのです。二十四日の夕方、舞鶴施設部より
通知あり下宿より直ちに西宮に電報を打ってくれたのです。
本二十五日西宮より急いで舞鶴に歸りました。
明二十六日始めて施設部に出勤してみる積りです。
愈々純軍部の御役人となったわけ、少々身の緊る思ひです。
俸給は安いですが戰時手当其の他がつきます故相当にはなると思ひます。
南にやられる可能性はありますが致し方ありません。
今度は働き甲斐があります故死力を盡して働いてみます。
次に小生の縁談のこと
此の地方の風習に依ると談が決った時に貰ふ方より
「ふところ扇子」なるものを、おくるのだそうです。
それは知りませんでしたが、先日其事を知り、或る店より買ひ
求め酒料、及びさかな料と共に仲人の人に持って行って貰ひました。
以前の御手紙でこちらに来て戴けると思ひ嬉んで居りました處、
本日の御手紙では不明とか、是非来て戴き度いと思ひます。養子に
行くのでは無いのですから、一度位は遠いですけれども舞鶴位迠来て下さい。
貰っても良いと許して下さった以上、もう少し小生の親兄弟が熱を持って
戴き度く思ふのです。それでないと小生が可愛相では無いでせうか。
八月末か九月始めにおかんがこちらへ来て呉れるといふので、娘は
支度に広島へ歸るといふのを、舞鶴に無理に止めて置いたのです。
以上の事をお願ひ旁々東京の友人に相談旁々東京廻り
信州へ歸らうと思って居りました處、最早発令になり
行けなくなりました。是非而も可及的早く来て下さい。
醇つあ達は二日に歸るとか、醇つあ達と一緒に来て下さらば
幸甚であります。お願ひします。
鎌太郎大尉殿の戰死惜しみても余りある次第です。
攝つあの結婚式の時、一度お会ひしただけでしたが、
聡明にして、男性的なる御性格、蔭ながら畏敬して
居た次第でした。
御悔みの手紙も差出さず、甚だ申譯なく思って居ります。
小生自身、鎌太郎氏と同様な運命になるやも知れず、心細い
気が致します。
次に信州の家の事、勞働者が入るとか、入らないとか、の問題は
如何なりましたか。若し誰か常住しなければいけない
のでしたら、そして又住む人が無ければ營団の人で
(塚本で小生と仲の惡かった主任)是非借り度いといふ
人があります。多分東京の人で田舎へ疎開する人
で借り手があるでせうが、その加減で貸せる様ならば
貸してやって下さい。
取り急ぎ取止めもない無いことを記しました。亂筆
御判讀願へれば幸甚であります。

(別紙一枚)時局愈々重大化して來ました。空襲警報鳴る度に多分に重圧を感じます。
大阪と同様に舞鶴も集中爆撃を喰らう恐れあり、安心なりません。
八月二十五日夜            和郎
母上様
延世様

封筒宛先  長野県諏訪郡米澤村埴原田790   小松いさの様
本人住所 舞鶴市西舞鶴驛前定由勇方   小松和郎