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御柱大祭を觀るの記 小松攝郎

 

大正十五年四月四日五日六日と三日に渡つて御柱大祭を見物した。今、其心覺の爲に其の記を書かうとする。此は人に見せる爲でなく自らの心覚の爲に書きつらねるのである。

此御柱大祭と云ふのは官幣大社諏訪神社式年御柱祭典と稱するのであつて、六年に一回宛四月より五月に亘つて執行されるのである。官幣大社諏訪神社は上社下社の二社に分れ、上社に本宮前宮があり、下社に春宮秋宮がある。祭典は上社下社別々に行はれる。上社の山出しは四月一日二日、里引きは五月一日二日に行はれ、下社の山出しは四月七日八日九日に行はれるのである。祭典に際し、上社に屬する村は、永明・宮川・玉川・豊平・米沢・湖東・北山・中洲・湖南・四賀・豊田・原・泉野・本郷・境・落合・富士見・金澤の十八箇村であつて、下社に屬するのは上諏訪・下諏(ママ)の兩町と湊・川岸・平野・長地の四箇村とであつて、此で諏訪郡全部の町村が屬する譯である。祭典は、山より巨木を切り出して來て、之を引いて境内に立てるのである。其數は上社の本宮四本、前宮四本、下社の春宮四本、秋宮四本計十六本である。各柱への割り宛ては二村又は三村を一組としてあるのであつて、祭典毎に受持の柱が変るのである。本年度の割に(ママ)当ては本一(永明・宮川)前一(玉川・豊川(ママ))本二(米沢・北山・湖東)前二(中洲・湖南)本三(四賀・豊田)前三(原・泉野)本四(本郷・落合・境)前四(富士見・金澤)である。下社に就いては自分は見なかつたのであるから、以下略する事とする。

御柱祭山里(ママ)しの行程は、三十一日に山へ登り、四月一日拂曉引き出し、一日の中に子の神迄来て、二日の中に安国寺迄引き付けて、山里(ママ)しは終り、五月一日から里引きとなつて、神皇(ママ)寺の社の境内へ立てるのである。が、色々の都合で後れ勝ちである。

木を切り出す所は御小屋と云ふ事であつて、綱置場迄は、順序なく競爭で引き來り、其處から順序を正して、本一・前一・本二・前二・本三・前三・本四・前四と云ふ順で引き出すのである。新聞に依つて見るに、四月一日綱置へ著いた順は前一午前五時本一午前五時三十分本三午前六時十分であつて、午前八時迄に八本共揃つたと云ふ事である。三日は雨で休の為随分遅れたが、途中を略し、直ぐ四日僕が見物した時から始める。

四日午後零後(ママ)五十二分發上諏訪驛の臨時列車に乘り茅野驛に下りる。同勢は父・母・姉・妹・弟二人と女中と計八人である。茅野驛を出て見ると、もう非常な人出であつた。上川橋を渡つて、少し行くと、丁度其處へ五味染八氏奉納騎馬が來た。其を見物して、木落し下の方へ行つて見た。もう、村旗が崖の上へ出て居た。見よい所に棧敷を構へてあつたので、皆で其處へ上り込んだ。御柱は晝休であつたので、父と僕と和郎と妹と女中とで御柱を見に、崖を登つて行つた。御柱を見屆けて、其場で逢つた久保田隆君を連れて棧敷に歸る。尚、御柱の大きさは次の如し、

口徑     周圍根廻

本一  四尺五分  一一尺六〇

本二   三・九〇  一〇・七〇

本三   二・八〇   八・九〇

本四   二・五〇   七・×〇

前一   三・九〇  一二・二八

前二   三・一〇   九・五〇

前三   二・八五   八・九一

前四   二・八〇   八・八二

尚長さは本宮前宮各一が五丈五尺で順次五尺落ち即ち四は四丈である。

兎角する中に綱渡りとなつて、段々綱が出て來たが、もう少しと云ふ所でどうしても出て來ない。此は御柱が窪へ突き掛つたのであつて、一時間も掛つて、やつと上げたのである。かくして、落ちたのが午後三時三十五分である。線路が直ぐ下にあるので、汽車の時間を計つて落さなくてはならないので、手間が取れる譯である。げにや、上川をはさんで横内から茅野より木落とし附近一体の黒山の如き觀衆は身動きも出来ない程であつた。木が落ちる時メドテコへ大勢乘つて下りた。柱がズーツと空中へ突き出た時にはどんな気がするだらう。本一には木遣りは余り良いのがなかつた。かくて、持参の壽司で晝食をすまし、午後五時半頃茅野駅を出る臨時で歸つた。(一九二六・四・六)

汽車から見たら、前一が崖の上に來て居たので、其の落ちるのを見れば良かつたと思つたが仕方なく歸つたら、当日は落ちなかつたと新聞に見える。

非常に多忙に就き以下大略に止める。

四月五日、午前九時五十四分上諏訪駅発の列車に單身危く飛び乘る。同列車に、長坂端午君・林毅一君・手島嘉門君等乘つてゐた。

茅野で下りて、直ちに木落しに行つて前一の木落しを見る。直ぐそばで見たので良く見えた。此日曇であつて風又寒く、昨日に劣る事數等。正午前一は木落し上に達したが、めどてこ準備に手間取れて觀衆あせり気味。かくて、午後零時五十分落つ。線路を越えた所で休んでゐた。此時もう本二の村旗が崖上に見えた。

こヽで町へ行つて、パンを買つて晝食としてたべた。此時もう本二の綱が崖を下つて来たので、又崖下に引き返して見物する。本二は割合に前手際良く余り手間取らずに落ちて、線路を越して休んでゐる。すると、前二も負けずに本二を圧迫気味に直ちに後ろに迫り、村旗を立て綱を引き下ろし初めた。抑々本二は力弱く初めから前二から圧迫を受け勝ちであつたのである。前二は本二が線路の直ぐ向に本二が居るので綱を長く引く事が出來ず、非常に綱が短かかつたが其でも頑張つて引き下して、坂の中途から少し下位の所にゐる。と、もう後の本三の村旗が崖上に現れ、綱が坂を下り初めた。が、前ののが動かないので落ちないだらうと思つて、宮川渡しを見るべく宮川に向かつた。新聞で見るに、新聞に依るに、此日本三も前三も落ちたとあるから、今日は五本落ちた譯である。

宮川川越しを見るべく宮川に向ふ。途中本一に逢ふ。景気よく動くので、先に失敬して父に言はれた通り向側へ行つて、待つてゐる。本一は家を離れてからは少しも止まらずに一気に川に来て、午後四時川へ掛つて、重々しい太綱を河の中へ投込み御柱は徐々に這上がつたが折柄中河原堤より鬨の聲を作つて前一は曳き來り、双方茲に先陣爭ひを行ひ、河中に揉合つた。前一は四時卅分本一の東方廿間の距離で堤にのぼり、勇士の面々が水深四尺の激流に踊り込み綱を伸ばし木遣り音頭勇ましく曳き出したので茲に本一前一の先陣爭となり、本一で本餘名の面々は飛び込み曳き出しを演じたが男づな女づなが番手に切れたので本一は遂に川に曳き込が出来ず斯て前一の大御柱は、二名の勇士を柱頭に乘せて現れるや「ドシン−」とばかり激流の中に落下し見る間に御柱は川の勇士を乘せた儘向ふ岸に着き五時二十五分前一は向岸に上陸して一番槍の功妙を演じ同卅五分安国寺注連掛場に安着し、千五百の兩村氏子は一齊に鬨の聲に万歳に天も割れん許りだつた。抑々宮川は今迄は土手が低くかつたので、川に直角に渡して、さう困難でもなかつたが、今度はコンクリートで石垣を困めたので中々渡らず、且多くは岸に横に着けて渡す様になつた。尚、川渡の競爭の時には、後から川に着いたのの方が追ひ越さうと云ふ気がある為景気の良いのが常である。

斯くするうちに本二は忽ち川越しの綱渡しとなり前一の渡り場へ飛び込み力一杯ひき出すやそのすきに乘じて又もや後方より突進し来つた前二は本二の場所へ飛び込み、四本の綱が一緒になつて了つた。本二はケンカを避けてか、解散して了つた。今度は本三は本一の下方に突進し來つた。此間何れも廿五分であつた。初は本一・前二の競爭であつたが、其中に本三が来て三本の競爭となつた。

此時景気から言へば、前二が一番よかつたが遂に本一が勝ち、約三時間を費して激流と戰ひつゝ午後七時十分上陸し同廿分二番先陣で注連掛に安着となつた。此三本競爭の時、岸から下りて注連掛の所へ行つて、歸りがけに川岸にあつた家の前で長田優子氏及妹さん達に逢ふ。寒かつたので、日向の所に来てゐたらしい。斯くして、前二と本三との競爭となつたが、本三が勝ち向岸に上陸し、堤を曳き下し注連掛に安着した時に午後七時卅五分。

今迄幾度も歸らうと思つたが、競爭につられ見てゐたが、後前二だけになつたので歸途に向つた。此時はもう暮色蒼然として、電燈が遠近に輝き初めた。停車場に着いたのが七時頃であつてもう少し早ければ六時二十六分のに間に合つたのだが、遅れた為一時間余りも待つて、午後八時三十某分発で上諏訪に歸つた。

新聞に依るに、前二はセメン工事の急石垣に御柱を横たへた儘約一時間を困難し夜遅くなつて八時半漸く安着したがこの比類なき川越しの壮舉を觀んと兩岸堤塘に山なす觀衆は約數万と註せられつなに追はれ堤に轉び安国寺より中河原に至る廣き一帯は人の波を打ち、夜は提灯の海と化し光景は壮絶を極めた。

四月六日、午前十時五十七分上諏訪驛發で父・母・姉・妹・和郎と六人で御柱見物に行く。茅野へ着いて人に聞くに本四はもう落ちて了つたの事、で後は前四だけ。然し、仕方ないと前四の木落しを見に行く。五日は四日に劣らず觀衆も多かつたが、今日は觀衆も少く、最後の御柱の為觀衆も曳子も熱がない様であつた。然し落とし方は随分上手であつた。八本中一番だらうと言はれた。御柱にめどてこを付けるので手間取り尚泥の中へ入つて了つて尚手間取つたが遂に二時近く木落し上に顔を出した。一体、顔を出すともう後は楽に落ちるのだが、此處で一旦止めた。此は手際の良い所である。見ると、左右のめどてこの綱に人が寄麗(ママ)に付いてゐて、左右の平均がよく取れてゐた。本四は一人も乘らずに落ちたさうだが(一人も乘らないのは此だけ)此には相当乘つてゐた。そこから、徐々に傾かずに引き下ろした。此が上手に落ちたのは、上手にやつたと云ふ事もあるが、御柱の小い事、溝が出来てる事も関する。然し兎に角最後の花であつた。前二などは向かつて左の方へ傾き其方に乘つてる人達は泥まびれになつた。此處で皆で川越しを見る為宮川に向つた。途中で聞くに、本二・前三はすでに渡つて了つたと云ふ事なので何処かで休んで晝食しやうと思つてゐると本四が動き出したので、其処で御柱の平地を動くのを見て、先に宮川に著いて、川のこちら側の岸の影の所で饅頭と菓子とを食つて晝食とす。其中に本四が来たので岸に上つて、見物する。横綱を川岸を曳いて来るので非常に押されて田の方へ下りたりした。其中に前四が非常に急いで来て同じく川へ掛つて競爭となつた。前四の方が景気が良かつたが川下の方の本四が勝ち二分先に上陸した。時丁度午後三時。本四が川へ入る時、御柱と石垣との間に入り、御柱と一緒に川へ落ちて人事不省に陥つた人があつた。後數日にして死亡したとは悼むべきである。

斯くて御柱大祭山出しは終了したので直ちに歸路につき、午後四時五十二分茅野駅発で上諏訪へ歸つた。列車は非常に込み、〆切を行つた程であつた。乘つた者も先世紀の様な車へ牛々詰めにされた。姉や父は空いてはゐたが客車の腰掛けを抜いて作つた牛車兼用の様な奴へ入れられた。可々大笑。

以上で御柱大祭見物記終り。

(一九二六・四・一一)

 

昭和9年の摂郎の日記から、信州帰郷の部分を抜き出してみた。一家が久しぶりに埴原田の旧家に集合した。この時は家はもちろん茅葺で古い農家のままである。摂郎自身もここで生活したことはない。田舎と都会の違いについて考えることも多かったようである。地主の一家が帰ってきたということで、いろいろな人がやって来るので、その接待もなかなか大変である。そういう当時の人間関係が色々出てくるので、興味深いものがある。昭和9年は摂郎の山形高校への就職が決まったり、姉の出産、妹の結婚と一家にも大きな変化があった。茅野には7月29日から8月24日まで滞在している。8月25日、1カ月ぶりに研究室に出る。28日には東京の家で姉の第一子が生まれる。妹百枝も結婚し、東京へ夫婦で來るという中々多事の様である。以下日記を紹介しよう。少し注を加えたりしてみた。

 

7月29日

午前六時半起される。歸郷の日。八時半新宿駅発。車中暑し。午後二時茅野に着く。タクシー(八十銭)でかへる。一年振りであける家で入る迄が大変である。ひるね。隣を廻る。ほたるが飛んでゐる。

 

(注)当時新宿―茅野は5時間半かかったことが分かる。それと茅野から家までタクシー料金は80銭であった。どういう車だったか。道は舗装されてはいないから、けっこうでこぼこ道だったろう。一年振りであけるというので、この家は空き家になっていたようである。新家が隣にあったわけだがあまり世話はしてくれなかったようである。蛍が飛んでいるというのがやはり田舎らしい。

タクシーに関しては、「昭和初期には外に浜商会の中央自動車株式会社が、茅野-原村八ツ手、八ツ手―落合村瀬澤新田、玉川村神之原―泉野、茅野―上社間などのバス営業を行い、東諏自動車株式会社が、茅野-上諏訪、茅野―蓼科、茅野―米沢などの、バスおよびハイヤーの運行を開始した。」(茅野市史下巻、p.394)とある。

 

7月30日

涼しいのと自然の美しいのとは快い。倂し生活と食物の単調なのは一日で閉口する。

翻訳訂正を再び開始する。四日休んだわけであるⅡ,1からはじめる。新聞配達がだまってゐても「朝日新聞」を置いて行く。大工が来て便所を作る。午后ひるね。夕方、和郎と矢ヶ崎へ買物に行く。

 

(注)翻訳というのはハルトマンの譯。この便所を作るというのはどういうことか。弟の和郎も一緒に来たことが分かる。「朝日新聞」を置いてゆくというのが面白いといえば面白い。田舎らしい。新聞代なんかはどうなのだろうか。

 

7月31日

翻訳の続きをする。郵便物は未だ一つも來らず。従つて校正は未だ來ない。ためてよこす積りだらう。中村氏も來らず。人に会わないのも面白くない。井戸に蛙が入るので、セメントでぬる。片付けなど。家の片付けは一段落の由。どうも体がしっかりしない。消化不良で、食欲もない。夕方手紙が來る。暑中見舞いを書く。

 

(注)井戸に蛙が入るというのは面白い。今の土蔵の横の井戸だろうか。この日欄外に「歸郷に際してははさみと小刀を忘れぬこと。「歸郷の注意」名詞と軽い読み物を可成り持って來ること。『追想録』」と書いてある。名詞は名刺の間違いだろう。そんなに人に会うつもりなのだろうか。『追想録』は『小松武平追想録』で昭和6年9月発行、これも持ってきて人に贈呈する、ということか。

 

8月1日

昨夜、豪雨。夜中よくねむれず。餘り人に會はないので神経衰弱になつたらし。変化のないのも苦しいものである。朝一回新聞と郵便とが神経を傳へて來る。この辺りは蚕でひどく忙しがってゐる。午后ひるね。それから矢ヶ崎の銭湯へ行く。往復(ママ)けば約2時間を要す。少し快し。空の青さが美しい。どうも田舎は僕の性(しやう)に合はない。都会生活が骨の髄迄しみ込んでいると見える。

(注)矢ヶ崎の銭湯というのはどこにあったのだろうか。ここでは内風呂はなかったらしい。私が子供のころ夏休みを過ごした時は内風呂があった。戦後いさのさんが住むようになって作ったのだろう。ここでは田舎は性に合わないというが、全く反対のこともいったりする。8月9日、13日など参照。

 

8月2日

朝、醇郎が來る。昨夜も僅かしかねむれず。一日中全く不愉快な日。一種のホームシックである。独房に入れられた如し。午前翻訳。午后矢ヶ崎へ買物に行く。夕方中村氏等が來る。計六人で急ににぎやかになる。皆で久し振りで大いにだべる。少しは快くなる。アダリンで眠る。「哲学雑誌」八月号着。

 

(注)計六人とは摂郎、和郎、醇郎、中村吉次、百枝、母だろう。

 

8月3日

中村氏と上諏訪へ行く。上諏訪へ十二時。本屋などを歩いて、風月の二階で食事。この日は暑し。それから諏訪郡教育会へ行く。途中から一人でホテイ屋で高坂正顕氏に會ふ。一時間程漫談。停車場で中村氏と會ひ、五時の汽車で帰る。之で少し快くなる。上諏訪はなかなかハイカラである。昨日は一日中禁煙。今日は又吸ふ。翻訳は今日は少しもせず。広島高校で五人程教授がやめられる。

 

(注)広島高校の話は自分の就職との関係で気にしているのだろう。上諏訪の風月堂、ホテイ屋はどの辺だろうか。

 

8月4日

鋳物師屋に小平寛司、土橋芳数が來てゐる由。隣家へおこわをくばる。中村氏の披露。

訂正はⅡ,1が終了。校正は來ない。來なければ來ないでかまはない。夕方中村氏、醇郎と矢ヶ崎へ行く。六合堂で本を買ひ、おやぢと漫談する。景色が美しい。寺から碁石をかりて來て囲碁する。ゐてみれば、田舎もたしかにいい所がある。色々のことを考へる。將来のことなど。

 

(注)六合堂は不明。

 

8月5日

昨日できものにどくだみをつけたらいいらしい。午前、中村氏隣家を廻る。中村しず子さん、武井安子さん来訪。夕方帰へる。午后、長田義男氏来訪。飜訳は少しもせず。今日も何だか体の具合悪し。

8月6日

今日が一番暑いらし。本格的夏景色である。おそまき乍ら之から夏である。飜訳訂正は

Ⅱ,2にかかる。これからは餘こらずに早くすますことにしよう。午后ひるね。夕方、醇郎、中村氏と矢ヶ崎の湯に行く。夜、みきえさん、おことさん來る。両ばあさん大いにしゃべって行く。皮フ病どくだみもよくないらし。ここにいてもどうものんびりした気分になれない。

8月7日

中村氏、醇郎と上諏訪へ行く。九時のバスに乗り遅れて鬼場からタクシー。汽車にもおくれてバスで上諏訪へ。河西先生の所へ寄ったが留守。雨の中を鵜飼先生の所へ行く。久闊を叙す。一時間程で去る。公園を通り、町へ出て、鳥梅で晝食。雨止み、暑し。教育会館を通って布半別館へ行く。中川氏等會食の間三人で球を突く。のち中川善之助氏等と會す。例の五時の汽車でかへる。留守に母等墓の掃除。家でたてた野天風呂に入る。

 

8月8日

母「ウエ・ハラ」へ行く。寺の和尚がなくなったので、今年は寺でピンポンが出來ない。昨日汗をかいたので、少し汗もが出來たらし。トラックが切り(ママ)に繭をつんで下る。午後高浜虚子の「風流懺悔」(文庫版)読了。ひるね、など。飜訳は大体晝食(二時頃)までとする。校正來らず、却ってよろし。一日中家にゐるのはよろしからず。消化もよからず、気持もよくない。

8月9日

午前飜訳。そこへ校正が來る。『ヘーゲルの思想体系』の残り全部。午後までかかって全部見て了ふ。我乍ら硬い訳である。午後中村寅一氏來る。泊す。ここへ來た当座はトーキョー・シック。それがこの頃漸く少し落着いて來た。田舎のいい所も段々分って來る。神経も少しはにぶくなって來たらし。夜は昨日あたりから寒くなって來た。皮フ病は今度はいいらし。例の薬也。

8月10日

校正を全部同文館へ送る。昨夜よくねむれず。庄三郎老人を呼んで、中村氏等故事を聞く。母、桑原へ葬儀に行く。笹岡初之亟氏。夕方中村寅一氏かへる。

有島武郎『宣言』読了。前にもよんだことがある。之は始の方がいい。終りの方は細工がすぎる。

(注)笹岡初之亟氏が死んだように見えるがちがうらしい。

 

8月11日

七時起床。少し飜訳。十一時新家へ行く。家中で行く。御馳走になって午後二時かへる。午後三時半のバスで又家中で鋳物師屋へ行く。墓参りをし、御馳走になって七時過ぎ辞す。歩いてかへる。今日は二軒お客に呼ばれたので疲れる。皮フ病漸く全快。長い間であったが、治りかけたら早かった。妙なものである。

8月12日

六時起床。山や雲が美しい。午前中かかって翻訳Ⅱ,2が終り。七日を要す。中村氏原村へ行く。おそくかへって來る。午後造之助氏、初之亟(ママ)氏の二人で墓の段を作る。新家の一家(造之助氏、婆さん、嫁さん、花岡の子供二人)と初之亟氏を招待して御馳走する。十時近くに散会。女同士の喧嘩は犬も喰はない。女は困りものである。明日から盆だから、人の往来が多い。自動車や買物に行く人がしきりに通る。夜、星をみる。滿天の星美し。流星がしきりである。

 

(注)墓の段、どこか?

8月13日午前、皆で父の墓参り。飜訳。七時起床。午後、しばらく振りでひるね。五時から鬼場、矢ヶ崎へ盆の買物に行く。売出しで街が賑わってゐる。六時半帰宅。ひでさんに逢ふ。母、山岸さんの所へ行く。いもじやの婆さん來る。昨日から新家でしきりに蓄音機をかける。迎火。正木不如丘『診療簿餘白』読了。大したものでない。田舎も馴れると中々いい所がある。のんびりしてゐていい。この頃では気分も落着いて來、体の調子もいい。

 

(注)ひでさんは細田秀子?細田秀子はいさのの異父兄弟の家系の人。

8月14日

午前、飜訳。午頃、松本寛次氏夫人墓参りに來訪。午後、ひるね。ひでさん、来訪。囲碁。夕方から相当強い雷雨。都会と農村とは生活が餘にかけ離れすぎてゐる。百姓は全く見当違ひの事を云ふ。百姓と話をすると譯が分らないので閉口する。

8月15日

午前、三人で餅をつく。そこへ大工が來る。中村氏夫婦が伊那へ行くので、一緒に(醇郎も)上諏訪まで行く。十二時に上諏訪に着く。大手町の喫茶店に入ったら、中学の同級生加藤正氏がやっている店であった。大手町の撞球場で醇郎と玉をつく。長坂の所へ行く。端午氏に會ふ。しばらくで大和へ行く。小口治男氏は下諏訪へ行って留守。島田の所へ行く。衛氏がいる。囲碁など。夕立が來る。のたもちの御馳走になる。一汽車おくらせて六時半の汽車でかへる。停車場で平林貴邦氏及び名を思ひ出せない中学の同級生に会ふ。盆で上諏訪は賑わってゐる。汽車バスもこむ。米沢は猛烈な夕立であった由。留守にお寺の長老がたな行に來た由。長坂は変らず硬い。面白味ない男である。

(注)長坂は長坂端午。

8月16日

午前、仏様の飾り物を川へ流しに行く。お墓参り。新家の人達と鋳物師屋の伯父さんと和さん。歸りに一同家へ寄って休んで行く。

午后、矢ヶ崎へ買物に行く。笹岡美代吉氏と子供さん二人来訪。輝夫氏だけ泊る。墓参りなどでこの辺りも少し賑わってゐる。今度持って来ないで不便であるもの、金と本。送り火。夜、母と新家へレコードをききに行く。百枝には全く困り者である。人に心配をかける人間である。人は環境に自分を適応させなくてはならない。そしてそれによって環境を利用しなくてはならない。

8月17日

一同で伊那へ行く。九時に出て、十時に著く。午后、天竜川へ行く。寅一氏が網(あみ)を打つ。コリントゲームをする。母と醇郎だけ先にかへる。午后八時半発で。停車場へ送って、かへりに辰野銀座を散歩する。

8月18日

午前、コリント。散歩。日光浴になる。午后、皆で武井製糸所へ見学に行く。中々面白い。ひどく暑い。和郎だけ先にかへる。

8月19日

午前、散歩など。十二時発の汽車で皆で上諏訪へ行く。教育会へ寄ってから、片倉会館へ行く。郷友会があるので、島田衛氏、河西健児氏等に会ふ。湖畔を歩いてから布半(本館)

へ行く。風呂に入り、寿司の御馳走になる。中村氏夫婦と三人で五時発の汽車で米沢へかへる。寅一氏夫婦及び恒坊とは上諏訪駅で分れる。日にもだいぶ焼け、体もっかりして來た。歩くのが苦勞でない。食も進み、睡眠も。一年ここにゐればすっかり丈夫になるに違ひない。将来の長さを考へれば、さうしようかとも思ふ。倂し一年はいいとしてその後が困る。

(注)恒坊というのは寅一夫婦の長男で(恒夫)で令和3(2021)年7月亡くなった。89歳。当時は2才か。

8月20日

午前。十一時少し前に五味重郎氏が來る。漫談、ピンポン、囲碁等をして、六時去る。翻訳少し。この頃甚だ進まず。小学校も中学校も始まる。一寸新学期気分になる。火祭り。夜皆でお寺の庭に行く。踊りもあったが、余りよくない。

8月21日

午前、翻訳を進め、Ⅱ、3を終る。輝夫氏が來る。母、中島へ行く。午後、ピンポン、囲碁。夕方矢ヶ崎へ買物。伊那からかへってからは蚊帳をつらず。夜はふとん一枚では寒い位。『浪漫古典』から原稿依頼が來る。夜、三人で中島政一郎氏の家へ行く。今日から石垣(川の)をとり始める。しち郎とげんえさ。帰郷以来一月に近し、気分もだいぶ大きくなって來た。東京のせせこましい気分も抜けて來たらし。

8月22日

翻訳はⅡ,4にかかる。『浪漫古典』8月号着。Ⅱ,1-3だけ長屋さんの所へ送る。午後、中村氏、和郎と三人で釣りに行く。一匹も釣れず。川で遊んでかへる。――中村氏、醇郎と寺へ行く。しばらくして、和郎が來て、勘助さんが來たと云うのでかへる。勘助爺さん、碁を打って夕飯を食べて行く。この辺りでは老人が多く、若者が少いのが目につく。翻訳も愈々先が見えて來た。早く片付けたいものであるい。

8月23日

午前、翻訳。午後、鋳物師屋へ出かける。一さんの所へ行って石屋の手傳の交渉。かへりに小平寛司氏の所へ寄る。土橋芳数氏も來て貰ふ。久し振りで會談する。米沢のインテリは先ずこれ位のもの。かへつたら長田畔夫氏が來てゐる。百枝のお祝い。おそくまで(十時半)戦争の話などして去る。

8月24日

朝、桑木さんから木村善太郎氏の件で手紙が來る。直ぐ支度をして、零時四十二分茅野発で上京。八王子から急に暑くなる。東京は今日三三度の由。夕食後桑木さんの所へ行く。木村氏が日大に行ってゐるかどうかは分らないがとにかく會う方がよからうと云うので手紙を貰ふ。丁度灯火管制。神楽坂を歩いてからかへる。汽車で花袋の『田舎教師』を読了。余り面白くない。その他『サンデー毎日』、『週刊朝日』等。

(注)この頃すでに灯火管制があった。

8月25日

午前、研究室。約一ヶ月振、未だ閑散。郵便物山積。木村善太郎の家へ行く。文部省へ行って呉れと。文部省で會ふ。日大へは今は行ってゐないと。文部省でヒョッコリ岩井君に逢う。木村氏と會見の結果を母と桑木さんに知らせて、この件は之で片が付いた訳。山形の細谷氏の姉さんと子供二人來訪。もう一人女中來る。夕方散髪に行ったら休日。松坂屋で買物をし、永藤でコーヒーをのんでかへる。東京のコーヒーは甘い。夜、鶴田氏を訪ひ、打合せなど。夜に入って涼し。今日は翻訳を少しもせず。桑木さんから『記念号』の原稿二つ來る。少し下痢気味。

8月26日

午前、飜譯、Ⅱ,4を終る。Ⅱ,5にかかる。午後、散髪。それから浅草へ行って常盤座へ入る。「與太者と海水浴」は存外見られる。「めをと大学」は愚作。沼袋のおっかさん來訪。細谷氏の荷物の片付け。『浪漫古典』の原稿を承諾する。休み前にくらべればだいぶ体に力がついてゐる。一ヶ月の休養は無駄ではなかった筈。田舎の生活の方が本当であるやうにも思ふ。埴原田の生活をなつかしむ。今度の夏は面白く且つ有意義であった。

(注)田舎の生活の方が本当であるようにも思うという言葉もあるが、結局都会生活に流されていくようである。

8月27日

午前、研究室。午後、小野さんへ行って平林氏のことを交渉する。それから西片町の太田の所へ行く。成田へ行って留守。一旦家へかへってから今度は今泉君の所へ行く。しばらく話してからかへる。細谷氏の荷物発送。産婆來る。姉、今夜か明日から始まる由。東京にゐると気にかかること、神経にさわることが多い。夕方涼し。それでも秋らしくなった。午後母上京。産婆、看護婦來る。始まったらし。

8月28日。午前、研究室。飜訳。これにも長い間煩わされたものである。午後、赤ん坊生る。男也。埴原田へ電報で知らせる。之で先ず一段落と云ふもの。『現象論』の英訳はかなりいい訳である。じんましんが少し始まったらし。

8月29日

午前、研究室。人來らず、翻訳進む。午後、醇郎と和郎

上京。岩波へ行って本堂氏に會見。細谷氏沼袋へ行く。今日は暑い。三十・四度だけれども。今夜この家にとまるもの九人。母、姉、僕、醇郎、和郎、看護婦、女中二人、赤ん坊。

8月30日

昨夜、雨。赤ん坊が泣く。午前、研究室。風がなく、曇っていてひどくむし暑い。十二時半岩波へ。岩波さん、細谷氏と銀座の「濱作」へ行く。晝食の御馳走になる。西田さんの本(「全集」)の校正をして呉れという話。二時三丁目の明菓へ。醇郎初め数学の連中と会ふ。「帝国館」へ入る。「大学の若旦那太平楽」一寸面白い。「治郎吉格子」かなりいい。飯塚敏子がうまい。その他ナンセンス「惚れた強味」。ここは「常盤座」より器械がいいので、良く聞こえる。細谷氏がとまるので計十人。「浪漫古典」九月号(夏目漱石研究特輯)着。

8月31日

午前、研究室。飜訳Ⅱ,5を終る。この章を終るに六日を要した。割合に早かった。之で全く一段落。後は校正だけである。校正だけなら比較的楽である。「十一月号」原稿の催促状を出す。午後、飜訳Ⅱ,4-5を長屋さんへ送る。伊藤さんの所へ行く。桂氏の原稿を貰ひ、

「十一月号」の相談をする。伊藤さんは相変らず固い。歸りに岩波に寄って、桂氏と篠原氏の原稿を置く。仕事が一段落ついたので身辺の片付けなどする。次の仕事はヤスパースである。

9月1日

午前、研究室翻譯が一段落したので、雜用など果す。午後、無爲にすごす。防空演習。地震あり。細谷氏明日立つので送別会。織田裕萌氏松本から広島へ行った由。岩波の辞典の件。西田さんの件。下痢気味。夜、お茶を飲むのが悪いらしい。強い神経を欲す。ヤスパースのプラン。赤ん坊のへそがおちる。防空演習で今度は呼びに來らず。いいあんばいである。

(注)防空演習。これはどういう具合だったのか。要研究。

 

 

明治35年長野師範学校女子部の東京への修学旅行の記録

『和か葉の雫」なる小冊子(A6版)を発見した。これは1902年(明治35年)6月6日から10日にわたる長野師範学校女子部の東京への修学旅行の記録である。これまでは男子に限られていた修学旅行が初めて女子にも認められたということで大いに感激して旅程にのぼったことが書かれている。60頁弱の小冊子だがその文語体の文の味わいと行文中の和歌がなかなかに良い。編輯人として4名が挙がっている。その中に有賀ミつ子という名が見える。この人物はのちに太田水穂と結婚する人で、自らも歌人として歌を残している。彼女とはいさのは友人として長く交流があり、いさのも歌については少なからぬ関心を持っていたようである。この修学旅行の記録中の和歌がすべて有賀ミつ子の作とは言えないだろうが、かなりの部分は彼女の作かもしれない。なかなか捨てがたい味わいがある冊子であるので、全文を掲載することにした。ぜひ一覧をお願いする。この旅行には在学中のいさのは参加しなかったようであるが、この冊子を手にしたことは間違いないところだろう。

『修学旅行のすべて1987』という本があり。そこに「修学旅行100年史」の年表があるので、少しそこから参考のために記事を引いてみよう。まずそこでは「修学旅行形成期」として明治5年から19年まで、「修学旅行整備期」が明治19年から38年まで、「修学旅行充実期」が明治39年から昭和3年までという風になっている。この旅行は明治35年であるので整備期の最後の方に当たるわけである。修学旅行という名前の初見は明治20年『大日本教育会雑誌』に載った「長野県師範学校修学旅行」であるとする。これによれば修学旅行はまず長野県が先鞭をつけたようである。この年は東京への修学旅行の初見であるとする。これは千葉県尋常中学ということであり、比較的近いところから行くことが可能であったのだろう。そして明治22年に女子の修学旅行の初見が出ている。これは山梨県女子師範学校生徒とある。長野県に近いところであるが、なんらかの影響が長野県師範学校女子部の修学旅行にあるかどうか。そして明治30年をもってこの年表では「修学旅行の普及」と銘打っている。こういった修学旅行の流れのなかで長野県師範学校女子部の修学旅行も可能になったのであろう。

 

 

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土蔵の横に山から引いた水を貯めている石の甕が埋めてある。これのことかと思われる記述が攝郎日記の大正15年(1926)にある。これに容量五斗二升。外積三三七五立法寸。算用数字に直すと容量93.6リットル、外積93.8リットルということになるが、容量と外積の関係がどうもおかしい。私が実際に容量を測ってみたら大体60リットルぐらいのようであった。容量の数字が少しおかしいのかもしれない。しかし、この記述で井戸の歴史が分かった。ほぼ100年を経過している。その間絶えることなく山水がこの甕に流れ込んでいるわけで水のありがたさが感じられる次第だ。

やまいきさんがいつも持っている「ヨキ」という小さい斧のような道具があるんですが、これは、三本の線と四本の線が入っています。三本の線は御神酒を表していて、四本の線は五穀豊穣と水の気、地の気、火の気、風の気(空気)、四つの気を表しています。何十本、何百本という木全部に御神酒や塩を供えることはできないので、ヨキにこの線を入れることで感謝の意味を表しているのです。(『巨大おけを絶やすな』岩波ジュニア新書2013)

たまたま風樹文庫で見つけた本書はなかなか愉快な本であった。その本の124-125頁に上のような一段があった。家にもヨキはあったなと思って、みたらやはり三本線と四本線が入っていた。私はこんなことは全く知見がなくて、見ても何とも思っていなかった。これはおそらく家の曾祖父以前の先祖が使ったものだろうと思われる。百年以上前から使われていたものだろう。今も十分使用に耐える。実にしっかりできている。この著書にある写真のとは家のはちょっと違うのだが、確かに三本線と四本線がある。写真をみていただこう。

新しい知見を得た。この本に感謝する。と共にやはりこの家の歴史を感じて昔に思いをはせたことであった。

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祖母が明治37年、23歳の時、鼻の治療のために茅野から東京に行って2か月余り滞在した折、同郷の一高生中嶋喜久平に手紙を書いて、中嶋がそれ対して寄越した返事です。

御玉章今朝ありがたく拝

披いたし候御病気にて御

上京之由は兼て承り及び

候ひしも御宿所も定かな

らず且種々眼前の鎖事

に関ひて御見舞も致さず

罪湯鑊平に御ゆるし被下

度候先以て御全快之由何

よりもうれしく賀し奉候

就ては実は参上いたし拝

眉の栄を得度希望の處月

曜より試業始まり平生ふ

勉強なる小子には目之

上之こぶの如く先此ままにて其

意を得ず何やかや勝手の

ことのみ申し上げ悪からず

御思召被下度候これと申して

別に家庭に用事も無之候

本月廿五日には帰省之途に上

る何れ静けき郷貫にて御

目もじ仕らるべく候先はとり

合へずご返事で早率之

際萬事意を果さず筆端

妨□御判読被下度候  以上

 

拾七日午前〇時

南寮七

中嶋喜久平

いさの様

 

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上座敷の床の間の引き戸に書いてある詩。どうも読めない字があり、意味も分からない
ので、最近投稿して教えてもらっている「古文書が読みたい」に投稿してみました。
ありがたいことにすぐ返事があり、疑問氷解でした。これはうれしいことです。以下に
紹介します。

松竹凌霜翠
素梅衝雪香馨
倣斯三友節
當得百年貞
録歳寒三友故詩
六十五齢
大哉散人
先生は大哉散人はあまり自信はないということでしたが、小生は翠と馨が読めなかったので、意味がさっぱり
分からなかったです。

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これが戒名札の全部を年代順に並べてみたものである。全部一枚に二人の名前が書かれているので、実際の枚数はこの半分である。最後の米治のものは特にサイズが大きい。昭和六年の妻とくのも米治の大きさにならったものであろう。白紙に書いたのは表面が黒くなって字が読みにくいので、書き直した。こういう札はどうも繰出位牌というらしい。「複数の位牌を一つにまとめてまつります。戒名を記した板を命日の順に並べ、命日が終わると後ろに回します。」(『冠婚葬祭のことば』ことば舎編著 評論社 2019.1.20)家の仏壇にはそれを入れるような箱みたいなものは見つからなかった。時間的に二百年ほどの間があるので、数人の人の手になったように見えるが、筆跡を見ると最初の半分ぐらいは同一人の手になるように見える。超岸蓮光信士や松譽操光信女なんかは明らかに他の人のようである。やはりある程度の祖先が増えてきたところで仏事があってまとめて書いたか、お寺の和尚に書いてもらったのだろうか。一枚目の正徳元年四月初八日とあるのは、四月初八日は釈迦の誕生日と言われる日で、あえて初八日という言葉を使ったのだろうか。外に宝暦五年に四月初四日、宝暦七年に五月初八日が見える。仏教用語は今よりは親しいものであったろう。和尚が書いたなら当然かもしれないが。正徳元卯天だがこの天は年の意味であろうが、この使い方はちょっと分からない。

 

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戒名札について

 

家に残された戒名札が18枚ある(写真左)。幅40mm、縦150mmの大きさの薄板で、すべて裏表に一人の戒名が書かれている。たぶんお寺で書いてくれたのであろうが、どういう時点で書かれたのかははっきりしない。複数の手によったものらしいが、かなりの部分は一人の筆跡のように見える。最後のは曾祖父母のものだが、これはほかのものより大ぶりで、幅41mm、縦175mmでる。この戒名札については大正4年に書かれた小松武平の手になる「我が家の歴史」に参考資料として出ているのと、母が昭和42年、小松いさの13回忌の折、年代順に並べ替えた表が残されていた(写真右)。母がなぜかこの札をみて、年代順に並べてみて記録を残している。なぜか寛延、寛保の西暦年が不明だなどと書いてある不備があるが、母も並べてみようという気持ちがあったらしく何となく親子のつながりが感じられるようでほほえましい感じもする。「我が家の歴史」にも石碑があるのが見落とされている間違いはあるが、非常に完ぺきなものを残してくれたのはさすがである。祖父は小松家に養子で入った人であるが、小松家に縁あって入った人として、この家の人のつながりを認識して、これからの一家の繁栄を祈願しようと思ったのであろう。今、私がこれらの先人の仕事を引き継いで最後に一応の完成をしようという次第である。

 

1清譽浄本信士 正徳元卯天(1711)四月初八日

2覺譽智本信女 正徳二辰天(1712)六月廿九日

3本室妙還信女 正徳六辰天(1716)二月廿五日

4節心宗忠信士 享保二年(1717)九月七日

5雪窓道白信士 享保七年(1722)正月二日

6幽光童子   享保十丁巳天(1725)七月二十五日

7清岳台操信女 元文二年(1737)十月廿四日

8昌譽宗■(般の下に糸)信士 寛保三年(1743)十一月七日

9法瑞吟道信士 寛延三年(1750)十二月十二日

10寂音童女   宝暦五年(1755)正月九日

11實相體全信士 宝暦五年(1755)四月四日

12游暫童子   宝暦七年(1757)五月八日

13正譽栄覺信女 宝暦十年(1760)三月廿八日

14電明貞光信女 宝暦十一年(1761)正月廿九日

15岱含雪應信士 明和八年(1771)十二月十五日

16轉譽妙致信女 安永七年(1778)正月十四日

17寶岸妙樹信女 天明三年(1783)七月全二日

18松譽漢月信士 寛政四年(1792)十月十四日

19超岸蓮光信士 寛政十一未天(1799)六月廿(?)三日

20松譽操光信女 享和二年(1801)三月廿(?)七日

21盡譽松嚴信士 文政九年(1826)六月四日

22玉性童子   天保七年(1837)五月十八日

23嚴譽貞松信女 天保十四癸卯年(1843)五月上五日 (行年七十四才)

24欣譽求道松應信士 弘化三平午天(1846)閏五月十二日  (小松政吉)

25徹譽映松浄安信士 安政二乙卯天(1855)十二月三十日 (小松与兵エ)

26日智善童女    安政三丙辰天(1856) 十月上七日

27清譽糸玉名称大姉 明治四辛未祀(1871)二月十三日  (吉蔵サイ不三)

28儻譽虧負清生居士 明治八乙亥年(1875)九月上五日 (小松吉蔵)

29映譽智松妙安大姉 明治十年(1877)二月五日   (小松与兵衛サイ)

30寶雲軒念譽西岸智海大徳 大正九年(1920)拾一月十八日  (小松武平養父米治事六十九歳)

31寶樹軒攝譽妙願智順大尼 昭和六年(1931)四月廿八日 (小松武平養母登く事八十六才)

以下は戒名札はありません。

32禮禳院義譽恭山良心居士 昭和五年(1930)九月五日 小松武平

33純徳院仁譽良室功貞大姉 昭和三十年(1955)一月一日 小松いさの

34學眞院攝譽諦忍哲心居士 昭和五十年(1975)五月九日 小松摂郎

35恭眞庵延譽亮浄彗大姉 平成十三年(2001)九月七日 小松延世

 

このように31 人の戒名札がある。■譽■■というのは浄土宗の戒名の定型パターンである。当主夫妻にはこの■譽■■が使われるようである。つまり1、2、8、13、18、20、21、23、25、27、28、29、30、31、32、33、34、35である。

戒名につく位は150年ぐらい信士、信女、子供は童子、童女という位で続いてきたが、明治に至って、居士、大姉が出てくる。明治になり小松家は平民ではなく、士族になったことと関係があろうか。曾祖父の米治は大徳という位がついている。米治は村の名士であり、その葬儀は相当立派なものであったようで、この称はそういう社会的位を表しているのだろうか。曾祖父夫婦には軒号が与えられている。これも小松家の戒名史上初めてであった。その後■■院が出てくる。軒号の上は院号と言い、最高のものである。

2021.10.10