昭和9年の摂郎の日記から、信州帰郷の部分を抜き出してみた。一家が久しぶりに埴原田の旧家に集合した。この時は家はもちろん茅葺で古い農家のままである。摂郎自身もここで生活したことはない。田舎と都会の違いについて考えることも多かったようである。地主の一家が帰ってきたということで、いろいろな人がやって来るので、その接待もなかなか大変である。そういう当時の人間関係が色々出てくるので、興味深いものがある。昭和9年は摂郎の山形高校への就職が決まったり、姉の出産、妹の結婚と一家にも大きな変化があった。茅野には7月29日から8月24日まで滞在している。8月25日、1カ月ぶりに研究室に出る。28日には東京の家で姉の第一子が生まれる。妹百枝も結婚し、東京へ夫婦で來るという中々多事の様である。以下日記を紹介しよう。少し注を加えたりしてみた。
7月29日
午前六時半起される。歸郷の日。八時半新宿駅発。車中暑し。午後二時茅野に着く。タクシー(八十銭)でかへる。一年振りであける家で入る迄が大変である。ひるね。隣を廻る。ほたるが飛んでゐる。
(注)当時新宿―茅野は5時間半かかったことが分かる。それと茅野から家までタクシー料金は80銭であった。どういう車だったか。道は舗装されてはいないから、けっこうでこぼこ道だったろう。一年振りであけるというので、この家は空き家になっていたようである。新家が隣にあったわけだがあまり世話はしてくれなかったようである。蛍が飛んでいるというのがやはり田舎らしい。
タクシーに関しては、「昭和初期には外に浜商会の中央自動車株式会社が、茅野-原村八ツ手、八ツ手―落合村瀬澤新田、玉川村神之原―泉野、茅野―上社間などのバス営業を行い、東諏自動車株式会社が、茅野-上諏訪、茅野―蓼科、茅野―米沢などの、バスおよびハイヤーの運行を開始した。」(茅野市史下巻、p.394)とある。
7月30日
涼しいのと自然の美しいのとは快い。倂し生活と食物の単調なのは一日で閉口する。
翻訳訂正を再び開始する。四日休んだわけであるⅡ,1からはじめる。新聞配達がだまってゐても「朝日新聞」を置いて行く。大工が来て便所を作る。午后ひるね。夕方、和郎と矢ヶ崎へ買物に行く。
(注)翻訳というのはハルトマンの譯。この便所を作るというのはどういうことか。弟の和郎も一緒に来たことが分かる。「朝日新聞」を置いてゆくというのが面白いといえば面白い。田舎らしい。新聞代なんかはどうなのだろうか。
7月31日
翻訳の続きをする。郵便物は未だ一つも來らず。従つて校正は未だ來ない。ためてよこす積りだらう。中村氏も來らず。人に会わないのも面白くない。井戸に蛙が入るので、セメントでぬる。片付けなど。家の片付けは一段落の由。どうも体がしっかりしない。消化不良で、食欲もない。夕方手紙が來る。暑中見舞いを書く。
(注)井戸に蛙が入るというのは面白い。今の土蔵の横の井戸だろうか。この日欄外に「歸郷に際してははさみと小刀を忘れぬこと。「歸郷の注意」名詞と軽い読み物を可成り持って來ること。『追想録』」と書いてある。名詞は名刺の間違いだろう。そんなに人に会うつもりなのだろうか。『追想録』は『小松武平追想録』で昭和6年9月発行、これも持ってきて人に贈呈する、ということか。
8月1日
昨夜、豪雨。夜中よくねむれず。餘り人に會はないので神経衰弱になつたらし。変化のないのも苦しいものである。朝一回新聞と郵便とが神経を傳へて來る。この辺りは蚕でひどく忙しがってゐる。午后ひるね。それから矢ヶ崎の銭湯へ行く。往復(ママ)けば約2時間を要す。少し快し。空の青さが美しい。どうも田舎は僕の性(しやう)に合はない。都会生活が骨の髄迄しみ込んでいると見える。
(注)矢ヶ崎の銭湯というのはどこにあったのだろうか。ここでは内風呂はなかったらしい。私が子供のころ夏休みを過ごした時は内風呂があった。戦後いさのさんが住むようになって作ったのだろう。ここでは田舎は性に合わないというが、全く反対のこともいったりする。8月9日、13日など参照。
8月2日
朝、醇郎が來る。昨夜も僅かしかねむれず。一日中全く不愉快な日。一種のホームシックである。独房に入れられた如し。午前翻訳。午后矢ヶ崎へ買物に行く。夕方中村氏等が來る。計六人で急ににぎやかになる。皆で久し振りで大いにだべる。少しは快くなる。アダリンで眠る。「哲学雑誌」八月号着。
(注)計六人とは摂郎、和郎、醇郎、中村吉次、百枝、母だろう。
8月3日
中村氏と上諏訪へ行く。上諏訪へ十二時。本屋などを歩いて、風月の二階で食事。この日は暑し。それから諏訪郡教育会へ行く。途中から一人でホテイ屋で高坂正顕氏に會ふ。一時間程漫談。停車場で中村氏と會ひ、五時の汽車で帰る。之で少し快くなる。上諏訪はなかなかハイカラである。昨日は一日中禁煙。今日は又吸ふ。翻訳は今日は少しもせず。広島高校で五人程教授がやめられる。
(注)広島高校の話は自分の就職との関係で気にしているのだろう。上諏訪の風月堂、ホテイ屋はどの辺だろうか。
8月4日
鋳物師屋に小平寛司、土橋芳数が來てゐる由。隣家へおこわをくばる。中村氏の披露。
訂正はⅡ,1が終了。校正は來ない。來なければ來ないでかまはない。夕方中村氏、醇郎と矢ヶ崎へ行く。六合堂で本を買ひ、おやぢと漫談する。景色が美しい。寺から碁石をかりて來て囲碁する。ゐてみれば、田舎もたしかにいい所がある。色々のことを考へる。將来のことなど。
(注)六合堂は不明。
8月5日
昨日できものにどくだみをつけたらいいらしい。午前、中村氏隣家を廻る。中村しず子さん、武井安子さん来訪。夕方帰へる。午后、長田義男氏来訪。飜訳は少しもせず。今日も何だか体の具合悪し。
8月6日
今日が一番暑いらし。本格的夏景色である。おそまき乍ら之から夏である。飜訳訂正は
Ⅱ,2にかかる。これからは餘こらずに早くすますことにしよう。午后ひるね。夕方、醇郎、中村氏と矢ヶ崎の湯に行く。夜、みきえさん、おことさん來る。両ばあさん大いにしゃべって行く。皮フ病どくだみもよくないらし。ここにいてもどうものんびりした気分になれない。
8月7日
中村氏、醇郎と上諏訪へ行く。九時のバスに乗り遅れて鬼場からタクシー。汽車にもおくれてバスで上諏訪へ。河西先生の所へ寄ったが留守。雨の中を鵜飼先生の所へ行く。久闊を叙す。一時間程で去る。公園を通り、町へ出て、鳥梅で晝食。雨止み、暑し。教育会館を通って布半別館へ行く。中川氏等會食の間三人で球を突く。のち中川善之助氏等と會す。例の五時の汽車でかへる。留守に母等墓の掃除。家でたてた野天風呂に入る。
8月8日
母「ウエ・ハラ」へ行く。寺の和尚がなくなったので、今年は寺でピンポンが出來ない。昨日汗をかいたので、少し汗もが出來たらし。トラックが切り(ママ)に繭をつんで下る。午後高浜虚子の「風流懺悔」(文庫版)読了。ひるね、など。飜訳は大体晝食(二時頃)までとする。校正來らず、却ってよろし。一日中家にゐるのはよろしからず。消化もよからず、気持もよくない。
8月9日
午前飜訳。そこへ校正が來る。『ヘーゲルの思想体系』の残り全部。午後までかかって全部見て了ふ。我乍ら硬い訳である。午後中村寅一氏來る。泊す。ここへ來た当座はトーキョー・シック。それがこの頃漸く少し落着いて來た。田舎のいい所も段々分って來る。神経も少しはにぶくなって來たらし。夜は昨日あたりから寒くなって來た。皮フ病は今度はいいらし。例の薬也。
8月10日
校正を全部同文館へ送る。昨夜よくねむれず。庄三郎老人を呼んで、中村氏等故事を聞く。母、桑原へ葬儀に行く。笹岡初之亟氏。夕方中村寅一氏かへる。
有島武郎『宣言』読了。前にもよんだことがある。之は始の方がいい。終りの方は細工がすぎる。
(注)笹岡初之亟氏が死んだように見えるがちがうらしい。
8月11日
七時起床。少し飜訳。十一時新家へ行く。家中で行く。御馳走になって午後二時かへる。午後三時半のバスで又家中で鋳物師屋へ行く。墓参りをし、御馳走になって七時過ぎ辞す。歩いてかへる。今日は二軒お客に呼ばれたので疲れる。皮フ病漸く全快。長い間であったが、治りかけたら早かった。妙なものである。
8月12日
六時起床。山や雲が美しい。午前中かかって翻訳Ⅱ,2が終り。七日を要す。中村氏原村へ行く。おそくかへって來る。午後造之助氏、初之亟(ママ)氏の二人で墓の段を作る。新家の一家(造之助氏、婆さん、嫁さん、花岡の子供二人)と初之亟氏を招待して御馳走する。十時近くに散会。女同士の喧嘩は犬も喰はない。女は困りものである。明日から盆だから、人の往来が多い。自動車や買物に行く人がしきりに通る。夜、星をみる。滿天の星美し。流星がしきりである。
(注)墓の段、どこか?
8月13日午前、皆で父の墓参り。飜訳。七時起床。午後、しばらく振りでひるね。五時から鬼場、矢ヶ崎へ盆の買物に行く。売出しで街が賑わってゐる。六時半帰宅。ひでさんに逢ふ。母、山岸さんの所へ行く。いもじやの婆さん來る。昨日から新家でしきりに蓄音機をかける。迎火。正木不如丘『診療簿餘白』読了。大したものでない。田舎も馴れると中々いい所がある。のんびりしてゐていい。この頃では気分も落着いて來、体の調子もいい。
(注)ひでさんは細田秀子?細田秀子はいさのの異父兄弟の家系の人。
8月14日
午前、飜訳。午頃、松本寛次氏夫人墓参りに來訪。午後、ひるね。ひでさん、来訪。囲碁。夕方から相当強い雷雨。都会と農村とは生活が餘にかけ離れすぎてゐる。百姓は全く見当違ひの事を云ふ。百姓と話をすると譯が分らないので閉口する。
8月15日
午前、三人で餅をつく。そこへ大工が來る。中村氏夫婦が伊那へ行くので、一緒に(醇郎も)上諏訪まで行く。十二時に上諏訪に着く。大手町の喫茶店に入ったら、中学の同級生加藤正氏がやっている店であった。大手町の撞球場で醇郎と玉をつく。長坂の所へ行く。端午氏に會ふ。しばらくで大和へ行く。小口治男氏は下諏訪へ行って留守。島田の所へ行く。衛氏がいる。囲碁など。夕立が來る。のたもちの御馳走になる。一汽車おくらせて六時半の汽車でかへる。停車場で平林貴邦氏及び名を思ひ出せない中学の同級生に会ふ。盆で上諏訪は賑わってゐる。汽車バスもこむ。米沢は猛烈な夕立であった由。留守にお寺の長老がたな行に來た由。長坂は変らず硬い。面白味ない男である。
(注)長坂は長坂端午。
8月16日
午前、仏様の飾り物を川へ流しに行く。お墓参り。新家の人達と鋳物師屋の伯父さんと和さん。歸りに一同家へ寄って休んで行く。
午后、矢ヶ崎へ買物に行く。笹岡美代吉氏と子供さん二人来訪。輝夫氏だけ泊る。墓参りなどでこの辺りも少し賑わってゐる。今度持って来ないで不便であるもの、金と本。送り火。夜、母と新家へレコードをききに行く。百枝には全く困り者である。人に心配をかける人間である。人は環境に自分を適応させなくてはならない。そしてそれによって環境を利用しなくてはならない。
8月17日
一同で伊那へ行く。九時に出て、十時に著く。午后、天竜川へ行く。寅一氏が網(あみ)を打つ。コリントゲームをする。母と醇郎だけ先にかへる。午后八時半発で。停車場へ送って、かへりに辰野銀座を散歩する。
8月18日
午前、コリント。散歩。日光浴になる。午后、皆で武井製糸所へ見学に行く。中々面白い。ひどく暑い。和郎だけ先にかへる。
8月19日
午前、散歩など。十二時発の汽車で皆で上諏訪へ行く。教育会へ寄ってから、片倉会館へ行く。郷友会があるので、島田衛氏、河西健児氏等に会ふ。湖畔を歩いてから布半(本館)
へ行く。風呂に入り、寿司の御馳走になる。中村氏夫婦と三人で五時発の汽車で米沢へかへる。寅一氏夫婦及び恒坊とは上諏訪駅で分れる。日にもだいぶ焼け、体もっかりして來た。歩くのが苦勞でない。食も進み、睡眠も。一年ここにゐればすっかり丈夫になるに違ひない。将来の長さを考へれば、さうしようかとも思ふ。倂し一年はいいとしてその後が困る。
(注)恒坊というのは寅一夫婦の長男で(恒夫)で令和3(2021)年7月亡くなった。89歳。当時は2才か。
8月20日
午前。十一時少し前に五味重郎氏が來る。漫談、ピンポン、囲碁等をして、六時去る。翻訳少し。この頃甚だ進まず。小学校も中学校も始まる。一寸新学期気分になる。火祭り。夜皆でお寺の庭に行く。踊りもあったが、余りよくない。
8月21日
午前、翻訳を進め、Ⅱ、3を終る。輝夫氏が來る。母、中島へ行く。午後、ピンポン、囲碁。夕方矢ヶ崎へ買物。伊那からかへってからは蚊帳をつらず。夜はふとん一枚では寒い位。『浪漫古典』から原稿依頼が來る。夜、三人で中島政一郎氏の家へ行く。今日から石垣(川の)をとり始める。しち郎とげんえさ。帰郷以来一月に近し、気分もだいぶ大きくなって來た。東京のせせこましい気分も抜けて來たらし。
8月22日
翻訳はⅡ,4にかかる。『浪漫古典』8月号着。Ⅱ,1-3だけ長屋さんの所へ送る。午後、中村氏、和郎と三人で釣りに行く。一匹も釣れず。川で遊んでかへる。――中村氏、醇郎と寺へ行く。しばらくして、和郎が來て、勘助さんが來たと云うのでかへる。勘助爺さん、碁を打って夕飯を食べて行く。この辺りでは老人が多く、若者が少いのが目につく。翻訳も愈々先が見えて來た。早く片付けたいものであるい。
8月23日
午前、翻訳。午後、鋳物師屋へ出かける。一さんの所へ行って石屋の手傳の交渉。かへりに小平寛司氏の所へ寄る。土橋芳数氏も來て貰ふ。久し振りで會談する。米沢のインテリは先ずこれ位のもの。かへつたら長田畔夫氏が來てゐる。百枝のお祝い。おそくまで(十時半)戦争の話などして去る。
8月24日
朝、桑木さんから木村善太郎氏の件で手紙が來る。直ぐ支度をして、零時四十二分茅野発で上京。八王子から急に暑くなる。東京は今日三三度の由。夕食後桑木さんの所へ行く。木村氏が日大に行ってゐるかどうかは分らないがとにかく會う方がよからうと云うので手紙を貰ふ。丁度灯火管制。神楽坂を歩いてからかへる。汽車で花袋の『田舎教師』を読了。余り面白くない。その他『サンデー毎日』、『週刊朝日』等。
(注)この頃すでに灯火管制があった。
8月25日
午前、研究室。約一ヶ月振、未だ閑散。郵便物山積。木村善太郎の家へ行く。文部省へ行って呉れと。文部省で會ふ。日大へは今は行ってゐないと。文部省でヒョッコリ岩井君に逢う。木村氏と會見の結果を母と桑木さんに知らせて、この件は之で片が付いた訳。山形の細谷氏の姉さんと子供二人來訪。もう一人女中來る。夕方散髪に行ったら休日。松坂屋で買物をし、永藤でコーヒーをのんでかへる。東京のコーヒーは甘い。夜、鶴田氏を訪ひ、打合せなど。夜に入って涼し。今日は翻訳を少しもせず。桑木さんから『記念号』の原稿二つ來る。少し下痢気味。
8月26日
午前、飜譯、Ⅱ,4を終る。Ⅱ,5にかかる。午後、散髪。それから浅草へ行って常盤座へ入る。「與太者と海水浴」は存外見られる。「めをと大学」は愚作。沼袋のおっかさん來訪。細谷氏の荷物の片付け。『浪漫古典』の原稿を承諾する。休み前にくらべればだいぶ体に力がついてゐる。一ヶ月の休養は無駄ではなかった筈。田舎の生活の方が本当であるやうにも思ふ。埴原田の生活をなつかしむ。今度の夏は面白く且つ有意義であった。
(注)田舎の生活の方が本当であるようにも思うという言葉もあるが、結局都会生活に流されていくようである。
8月27日
午前、研究室。午後、小野さんへ行って平林氏のことを交渉する。それから西片町の太田の所へ行く。成田へ行って留守。一旦家へかへってから今度は今泉君の所へ行く。しばらく話してからかへる。細谷氏の荷物発送。産婆來る。姉、今夜か明日から始まる由。東京にゐると気にかかること、神経にさわることが多い。夕方涼し。それでも秋らしくなった。午後母上京。産婆、看護婦來る。始まったらし。
8月28日。午前、研究室。飜訳。これにも長い間煩わされたものである。午後、赤ん坊生る。男也。埴原田へ電報で知らせる。之で先ず一段落と云ふもの。『現象論』の英訳はかなりいい訳である。じんましんが少し始まったらし。
8月29日
午前、研究室。人來らず、翻訳進む。午後、醇郎と和郎
上京。岩波へ行って本堂氏に會見。細谷氏沼袋へ行く。今日は暑い。三十・四度だけれども。今夜この家にとまるもの九人。母、姉、僕、醇郎、和郎、看護婦、女中二人、赤ん坊。
8月30日
昨夜、雨。赤ん坊が泣く。午前、研究室。風がなく、曇っていてひどくむし暑い。十二時半岩波へ。岩波さん、細谷氏と銀座の「濱作」へ行く。晝食の御馳走になる。西田さんの本(「全集」)の校正をして呉れという話。二時三丁目の明菓へ。醇郎初め数学の連中と会ふ。「帝国館」へ入る。「大学の若旦那太平楽」一寸面白い。「治郎吉格子」かなりいい。飯塚敏子がうまい。その他ナンセンス「惚れた強味」。ここは「常盤座」より器械がいいので、良く聞こえる。細谷氏がとまるので計十人。「浪漫古典」九月号(夏目漱石研究特輯)着。
8月31日
午前、研究室。飜訳Ⅱ,5を終る。この章を終るに六日を要した。割合に早かった。之で全く一段落。後は校正だけである。校正だけなら比較的楽である。「十一月号」原稿の催促状を出す。午後、飜訳Ⅱ,4-5を長屋さんへ送る。伊藤さんの所へ行く。桂氏の原稿を貰ひ、
「十一月号」の相談をする。伊藤さんは相変らず固い。歸りに岩波に寄って、桂氏と篠原氏の原稿を置く。仕事が一段落ついたので身辺の片付けなどする。次の仕事はヤスパースである。
9月1日
午前、研究室翻譯が一段落したので、雜用など果す。午後、無爲にすごす。防空演習。地震あり。細谷氏明日立つので送別会。織田裕萌氏松本から広島へ行った由。岩波の辞典の件。西田さんの件。下痢気味。夜、お茶を飲むのが悪いらしい。強い神経を欲す。ヤスパースのプラン。赤ん坊のへそがおちる。防空演習で今度は呼びに來らず。いいあんばいである。
(注)防空演習。これはどういう具合だったのか。要研究。