月別アーカイブ: 2019年9月

女子日誌

明治丗九年五月ニ十日
午前一時女児出産
大阪市東区東雲町二丁目一六〇番屋敷、伊吹堂ト云フ骨ツギ医ノ裏手ニ当ル小屋ニ生ル
五月廿七日海戦記念日マデト思ヒシガ遂ニ今日生ル、而カモ男子ナレカシト祈リシニ女子ナリ、喜ビ従ツテ少ナシ
母ハ三日前ヨリ産婆ノ言ニテ出産近ヅキツツアル事ヲ知レリ 産婆ハ毎日来宅、此レ前ハ一ヶ月ニ三四回ヅツ)
十九日早朝ヨリ看護婦一人ヲモ仕ヒ置ケリ、産婆看護婦皆河野婦人科病院ヨリ来レリ
十九日午后学校裁縫教師ナド頼ミ布団ヲ作ル
産婆看護婦ノ其他ノ人ノ出入多キヲ以テ隣家目ヲ側立ツ而カモ妊婦ハ戸外ニ時々出ヅルヲ見テ驚ケルモノヽ如シ
午后九時布団整ヒ一回入浴シ食事ヲ済シ十時頃就辱ス 十一時ヨリ妊婦腹痛ヲ叫ブ 十二時ヨリ痛ミ増シ出産ノ傾向明ナリ 寝室ヲ便所側ニ移ス
看護婦 産婆俄ニ■ニシテ大ニ困難ス
余電話ニテ看護婦ヲ呼バントセシモ公衆電話所十時後ハ許サレズ 依ツテ車夫ヲ走ラス
産婆来ラザルニ正ニ出産ノ■■アリ 小児ノ頭見フ
機迫ルヤ産婆来リ直チニ出産ス
家ノ狭キト不ナレノ者ノミニテ大ニ困難ス
気候ノ暖カキハ大ニ好都合ナリ 戸ヲ開キ外気ノマヽナルモ何等ノ故障ナシ
生児ハ女児、隣家二歳ノ男子ノ泣声ヲ聞キテモ感触ヲ起ス位ナリ
生児ノ健骨格ノ堅固肉附ノヨキ産婆モアキレ居レリ「母ハ気丈夫ダカラヨイガ随分難儀デアツタロー」ト
母ノ経過極メテ良好出血モナク安臥談笑ス
夜明ケ朝食後若手看護婦用事ニ出デ晝迄帰ラズ 家内一同立腹ス
谷川ト云フ人大サ二尺斗リノ タイヲ持チ来リシモ切ルニ手ヲ傷ケ二時間苦シミシモ遂ニ切レズ 魚屋ニ持チ行キ切リ貰ヒタリ、 食ヒキレズ腐敗セシムル恐レアリ
味噌ヅケトセリ
牛村氏ヨリカン入スープニ、瓶入アメヲ持チ来ル
午后産婆又来リ手当ヲナス

五月ニ十一日
学校教員ヨリ祝品ヲ受ク 戸塚和気二氏見舞ニ来ル
武井勝■二氏ヨリ祝品ヲ受ク
母子更ラニ異常ナン
生児ノ目方ヲ見シシニ 七百六十九匁アリ
カゴナドニ入レ計リシ コツケイサ 頗ル面黒シ
産婆来リ湯アゲシノ際行ヘり
身長五十センチ位アラント産婆云フ
生母辺縁ノ傷ノ痛ム発熱アラバ医師来診ヲ乞ヘト産婆任意(注意)アリ

五月廿二日
生母乳タマリ張ル 看護婦吸出ニツトム 中々労多キ仕事ナリ
生児稍母乳ヲ吸フニ■■
武居陸路ニ婦人ノ見舞アリ
立入婦人ノ見舞アリ 祝品ヲ受ク
陰山裁縫教師来リ 児衣枕ヲ作ラル
産婆来リ説ク常ノ如シ

五月廿三日
産婆来リ説ク事常ノ如シ
生児黄胆ヲ始ム 之レ生児ノ常ナル由、始メテ知リヌ 田舎人ハ知ラズ
生児日ト夜トヲ違ヘテ終日眠ルハ不都合千万ナリ

五月廿四日
生母損傷尚止マズ 熱度七度六分ナレバ産婆又来ル
中村氏ヨリ祝品ヲ受ク
生児吸乳大ニ巧ミトナルモ尚乳出多キ過ギ乳房ノ張リ過分産婆生母ニ少シク養分ヲ扣ヘル事ヲスヽム
横傷手当ノ際痛ミ烈シキヲ訴フ
神経過敏小事ニ怒リ甚シ 夜電話ニテ産婆ト相談ス

五月廿五日
久保氏ヨリ祝品ヲ受ク
和気訓導母祝品ヲ持チ来ル下婢ノミ面会セシガ下碑来■■人ナルニ目ヲ廻ワシ驚キ居レリ
産婆来リ丁寧ニ手当ヲナス
生児黄胆ヲ始ム 之レ初生児ノ皆ナス所ナリト云フ

五月廿六日
生母損稍痛ミ減ジタルヲ云フ
臍帯取レルベシト云ヒテ浴セシメズ
岡林博太郎氏祝品ヲ持チ来ラル 児名ニ付種々相談スルモヨキモノナシ 難波津ニ咲くや木の花冬ごもり今を春べと咲くや木の花ノ王仁ノ歌ヨリ取リ 冬籠(フユロ)トシテ如何ト云フ

五月廿七日
臍帯尚取レズ 産婆来リ又■セシム
児名ニ付相談スレドモ良名ナシ 古事記ヲ探シ 王仁ノ歌ノ文字ヲ見ントセシモ右ノ歌フ古事記ニナシ

五月廿八日
此日臍帯去ル
渡辺■氏ヲ清水谷高等女学校国語教師ノ許ニ遣リ歌ノ出所ヲ正サシム 万葉集ノ序文ニアル旨ヲ知リ得
名ノ候補、摂子、茅渟子、茅江子、瓢、幸子、みを、等ナリシガ遂ニ 澪子ト決定ス
大阪ヲ澪標(みをつくし)ト云フヨリ採レリ

五月廿九日
出生届ヲ東区役所ニナス
生児ノ目方ヲ見ントシ衡ヨリ落ス 母驚キ赤面ス、目方七百八十二匁
河野病院庶務ヨリ薬價及看護婦費通知来ル
廿日ヨリ廿五日迄ノ費用拾弐円斗ナリ(産婆費ハ含マレズ)

五月丗日
中村清彦氏ヨリ祝品ヲ受ク

五月丗一日
長谷川君ヨリ祝品ヲ受ク
竹内区役所書記ヨリ祝品ヲ受ク
出生十二日ニナルモ生母傷所全快セズ当看護婦ヲ置ク事ニ決ス

六月一日
産婆休日ナリトテ通常婦人服ニテ来ラレ話ヲナス
郷里ヨリ電報来リ鋳物師屋女死去ヲ報ズ

六月二日
生児眼ヲ開キ泣カズニ居ル事多キテ加フ
吸乳量昼多シ、黄胆全快ス

六月三日
南区青■第三校ニ展覧会アリ 生徒ヨリ生母ヲ招クモ行キ得ズ遺憾ナリト云フ
午后余展覧会ニ行ク計画中々ニ大キク経費八百円ニテモ大ナルヲ知ル
松家喜■氏祝品ヲ持チ来ラル
看護婦十五日雇ヒタルモ最早用ナシトテ辞シ去ル、茶菓ニテ送別ス、生母終日起キ働キタレバ疲レタリト云フ

六月四日
産婆来ル 湯ヲアブシ生母ヲ診察ス
河野病院長最早生母ニ薬ヲ要セズト云フ
陰山氏ヨリ祝品ヲ受ク
生児目方八百三十五匁トナル
臍帯腹帯ヲトル

六月五日
看護婦来リ湯ヲアブス種々用事ヲナシ夜ニ入リテ帰ヘル

六月六日
看護婦来リ湯ヲアブス
毎日湯アブシヲ自宅人ニテナスベクスヽムルモ為シ得ルモノナシ
生児午后泣キ方例ヨリ多シ何力異常アランカト疑フ

六月七日
生児早朝ヨリ親ノ顔ヲ見ツメテ能ク笑フ
看護婦来リ見シニ生児臍少シク痛ミ赤色液ヲ分泌スルモヨフ湯アブシヲナサズ 生児泣キ方稍多シ
陰山裁縫教師来リ 小布団ヲ作ラル
生児ノ知恵付キ人ノ顔ヲ見テ笑フニアキレタリ
立入婦人来リ 之レヨリ湯アブシヲナシクレント云フ

六月八日
産婆モ看護婦モ来ラズ 湯ヲアブサズ
学校医ヲ頼ミ来リ 生児ノ臍ヲ見テ貰フ別ニ心配スルニ及バズト云フ
生後廿日ノ児トシテハ大ナリト云フ

六月九日
産婆モ看護婦モ来ラズ 湯アブシヲナサズ
石井鈞三郎君祝品ヲ持チ来ラル
本日ハ生児ノ臍全快セシ如ク見ユ
チリメンヲ買ヒタリ衣ヲ作リ■■ノ用意ヲナサントスルナリ
立入婦人来リ相談セラル

六月十日
立入君来リ祝ニ付相談シタル、看護婦来宅
他家ヨリノ祝品ヲ見積リシニ十三■金額廿余円ナリ

六月十一日
秋田氏ヨリ祝品ヲ受ク
生母始メテ湯ニ入ル 明日病院ニ行準備ナリ
夜泣多ク睡眠不足ス

六月十ニ日
母子車ニ乗リ病院ニ行キ診察ヲ受ク
生母尚少シ傷アリ 生児ノ臍少シスリ傷アリ 他ニハ不都合ナシ

十三日
立入婦人ヨリ湯アブシヲシモラフ

六月十四日
立入婦人湯ニ入レラレシニ熱カリシト見エ泣キタリ

六月十五日
生母自ラ湯アブシヲナス

六月十六日
生母湯アブシヲナス
祝返礼ノ用意ヲナス

六月十七日 小使二人 及び下婢ヲ
返礼ニ廻ハラシム
返礼品物ハ鰹魚節ヲ主トス 立入氏内旋ニヨル 價格ハ豫定ヨリ減ジテ品トナス 立入氏ノ忠告ニヨレルナリ
貰ヒシ祝品價格大畧左ノ如シ
一五、〇立入君 三〇、〇秋田君 一五〇 不破君
五〇〇 学校教員 一〇〇 ■丁中 一二〇 岡村君
一五〇 石井君 一五〇 松家君 一五〇 伊吹堂
一五〇 中村君 一〇〇 武井■■家 一〇〇 和氣君母
一〇〇 陰山君 五〇 竹内君 五〇 長谷川君

井伊掃頭部様
昨三日五ツ時御登城之砌外桜田御門外松平大隅守様御屋敷者つ連(はずれ)ニ而御駕籠江左右ゟ及
狼藉候もの有之五六人雪中桐油ニ而平伏いたし候處御通行御駕籠前ニ而桐油笠等取候而下ニ白布ニ
而鉢巻襷を掛け抜打ニ御駕籠を目掛ヶ切付候處御駕籠脇之衆ふ意之事ニ而相支候得共抜合せ候間合
も無之六人程深手即死等も有之趣ニ御座候直ニ御駕籠者跡江立戻ニ相成候得共陸尺(?)逃去御国
仲間侍分之者表門ゟ奥迄御乗込ニ相成候よし且又狼藉之もの共同處ゟ日比谷御門江出八代洲川岸増
山河内守様辻番前ニ而弐人深手負候者自殺同所辰之口ニ而壱人切腹外ニ手負人壱人遠藤但馬守様辻
番勝手外ニ而相果右之外辰之口切腹ㇵ酒井雅楽頭様ゟ戸板囲立番警護ニ御座候遠藤様辻番前脇(破損)
引小笠原右近将監様ゟ御固メ人数御差出ニ相成候昨日之處荒増如是御座候以上

小松与兵衛の御用日記および「我が家の歴史 小松家」について

小松家には「大正4年8月創起 我が家の歴史 小松家」という16ページからなる家系をしるした冊子が残されている。筆者の名前が明記されていないが、多分養子になって小松家に来た笹岡武平の手になるものであろうと思われる。中々見事な筆跡であり、武平は小さい時から字が上手かったらしい。「此記録は自家保存の戒名札、紫雲寺過去帳、墓所石碑及小松長兵衛氏所蔵の古記録により摘録したるものなり」とある。ここに書かれている戒名札は正徳元(1711)年から大正九(1920)年にいたる二百余年の17枚のものである。正徳元(1711)年から明治八(1875)年のものは大きさが一致しており、(152㎜×43㎜)である。大正九(1920)年の米治と昭和6年(1931)の妻とくの札は長くなって(175㎜×42㎜)である。正徳元(1711)年から明治八(1875)年のものは両面が利用されていて、一枚に二人の戒名が書かれている。
小松家はこの冊子の記録によれば、16世紀末あたりから諏訪の埴原田に住み始めたようである。それには「天正十五年上諏訪灰原田に住居定むる 小松理兵衛家度タリ」と書かれている。働き者が続いたのだろう、徐々に耕地を増やして行き、そのうち代々名主を務める家になっていったようである。その歴史を物語る様々な文書や生活用品などがかなり残されている。ここに紹介する小松与兵衛の「御用日記」も小松家に残された文書の一つである。
「大正4年8月創起 我が家の歴史 小松家」では以下のように初代から第七代までの当主が記されている。

第一代 正徳元(1711)年四月八日亡 清與浄本信士 俗名茂右衛門有忠
第二代 寛保三(1743)年十一月七日亡 昌與宗(般の下に糸)信士
第三代 寛政四(1792)年十月十四日亡 松與漢月信士 茂右衛門
第四代 文政九(1826)年九月六日 盡與松嚴信士 吉之丞
第五代 安政二(1855)年十二月三十日亡 徹與映松浄安居士 与兵衛
第六代 明治八(1875)年九月五日亡 儻與虧負清生居士 吉蔵
第七代 大正九(1920)年十一月十八日亡 念與西岸智海大徳 米治

第七代米治が私の曽祖父にあたる。与兵衛は第五代当主で生年は不明だが、没年は安政2年(1855)12月30日となっている。没年から数えると天保14(1843)は12年前である。この冊子には与兵衛から人物の性格に関する短い記述がある場合があり、それによれば与兵衛は「性剛毅村人を威服したり」と書かれている。大正4年にこの冊子が編まれたころはまだそういった過去の人物の言い伝えが生きていたのであろう。
与兵衛の妻は冊子によれば66歳で明治10(1877)年2月5日に没している。従って妻は文化8年(1811)生まれとなり、与兵衛の生年は、例えば妻より5歳上とすると、1806年となり、没は49歳となる。(しかし明治6年1月31日の日付の千鹿頭社の札では、与平亡妻もととして文化4年4月8日生まれとなっている。したがって明治6年には与平の妻はすでに亡くなっていることになる。没した年齢が66歳だとすれば、明治6年に死んでいる可能性はある。)与兵衛には政吉と吉蔵という二人の息子がいたようだが、政吉は「学ヲ好ミ其師モ之ニ教フルニ堪ヘズト嘆ジタル程ナリシモ年少ニシテ父ニ先ツテ死セシハ惜シムベシ」とあり、弘化3年(1846)に没している。天保14年の御用日記にもその名がみえている。長男として時折父の仕事を引き継ぐべく父に同道することもあったのだろう。しかし、その死は父に先んずること9年であった。そして次男吉蔵が第6代当主になる。吉蔵は「性豪傑肌ニシテ酒ヲ嗜ミ常ニ悠遊シ時々働ク時ハ大ニ働キ人ヲ驚カス如クナリ維新前後当諏訪藩下筋一万石ノ蔵番ヲ勤メタリ是ヲ以テ武田耕雲斎ノ戦争ニモ出デズ」とある。没年は明治8年(1875)9月5日、45歳である。吉蔵死去の後米治が家督を引き継ぐが、その折の役所への書類には吉蔵は急に腫物が出来て十日余りで死ぬという急死であったことが記されている。
この家系を記した時は米治が当主であり、第7代の米治は後から書き加えられた形跡がある。この冊子が書かれた大正4年の小松家の状態はどうかというと米治が当主で、一人娘のいさのは笹岡武平を明治38年(1905)養子に迎え、当時は奈良県師範学校主事として大阪の小学校長から転勤した小松武平に従って奈良に住みすでに4人の子持ちであった。米治の弟、造之助は埴原田で明治10年に分家して隣に住んでいた。米治という人は大変温和な人であったらしい。妻のとくは米治の前に長田淺右衛門との間に一人男の子をもうけている。どういう原因でそこの家を去ったかははっきりしないが、何らかの原因で米治の所に来たという訳である。そういうこともあり、いさのがひとり娘になったのである。やはり小松家はいさのの代に大きな変化を遂げる。いさのの夫、笹岡武平は東京高等師範学校を卒業と同時に小松家に入り、大阪・奈良・上田・諏訪・松本と各地で教員の生活を送り、農業に従事することはなかった。明治という大きな時代の転換は小松家にも大きな影響をもたらしたというべきだろう。
この与兵衛の残した文書は結構がいろいろあり、天保14年についてもこの外、御触書御廻状帳、宗門帳、大検見にかんする文書などがある。御用日記を見ると名主の生活もなかなか忙しそうである。日々農事はあり、あちこちに出かけねばならず心身ともに頑強でないと務まらないであろうと思われる。
小松紘一郎記
2014年2月
2019年9月改定