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小松いさの「女教育者の自省」について

この一万余字の文章はいさのが長野県師範学校女子部で明治三十六年二月に学校に課題として提出した文章である。いさのは明治三十六年四月同校を卒業し、その後小学校教諭の経験をし、その折に作った教案が数冊あり、それとともにこの作文があった。二十歳のいさのが女教育者たらんとして些か大げさな見解を述べたものである。(「女教師」という言葉は使っていない。まだ「女教師」という言葉は定着していなかったのだろうか。)

始めに日清戦争の勝利と北清事件で日本が東洋の小国から世界の大国へ発展する時期に至ったことが誇らしげに述べられる。このあたり日清戦争の勝利が日本にもたらした高揚感というものが如何に大きいものであったかを思わせるもので興味深いものがある。そういう国家の情勢において女も家庭だけでなく、何らかの家庭外の社会的貢献をせねばならないと考えたようである。

明治30年代は長野師範において教師・生徒が非常な積極性を発揮した時代であり、女子部においてもその雰囲気は伝わっていたことであろうと思われる。女子部の友人は一生の友となり、友情はいさのの死去まで変わらなかったようである。

いさのがどのようにして教育者としてやっていこうという考えに至ったかははっきりはわからないが、女というものは子供を産み育てるという天職があり、これが女が小学校教育にとっては生来的な適性を持っている由縁だとも言っている。

本論では、七つのテーマをあげる。一、力が足りない。二、確固不抜の主義と勇気を有するや。三、広く目を宇宙に放ち度量を広くすべきこと。四、元気と研究心に乏しきこと。五、卑俗に流るるなきか。六、身を以て卒ゆべきこと。七、家庭につきて。

以上であるが、師範女子部ができて以来、女教育者も増えてきたが、現実は女教育者が十分に力を発揮できるような状態ではない。女教育者自身が努力も不足しているし、女教育者を育むような体制も全く不十分である。そういう中で師範女子部というのは一般のこの時の女性を囲む環境のなかでは女の解放区のようであり、そこでは非常に自由に発言し、研究がなされている。しかし、この彼女たちが卒業して教育現場に入ると一転して彼女達はすっかり元気がなくなり、上からの要請に唯々諾々の存在になってしまうのが現実である。これは一体どうしたらいいのだろうか。社会自体が男中心になっていて、男の教師はそれに乗っていれば安泰でいられる。しかし、女はそうはいかない。どうしたら女が教育界において発展することができるだろうか。六の中でこういう一文をいさのは引用している。

良家ノ女子ヲシテ小學校ノ教員タラシムルワ利益実ニ多クシテ若シ遠慮ナシニ其所望ヲ云ワシメバ女子ノ小學校ノ教員ノ職ニツクコトワ男子ノ兵役ニ於ケルガ如クニシテ未婚ノ女子ヲシテ必幾年ノ間小學ノ教職ニ服スルノ責ヲ負ワシメタシト迠思エド斯ル事ノ容易ニ行ワルベキニ非ラサレバ責メテ女子ノ教職ニ従事スルヲ以テ世間一般ノ風習トナシ此風習ニ従ツテ一度教員ノ職ニツキタル者ニ非レバ容易ニ他ニ嫁スルコトヲ得ザルコト尚裁縫ノ心得ナキモノノ他ニ嫁シ難トニ同様ニ感ズルニ至ラバ大ニ婦女ノ面目ヲ改メ啻ニ小學教員ノ不足ヲ補フニ余リアルノミナラズ女子ヲシテ自営自活ノ道ヲ得ラシメ廣ク人ニ交リ又母トシテ愛児ノ教育ヲ主ドル上ニ無限ノ益スル所見ルベシト

これは出典がないので誰の発言かは不明だが、いさのは読んでハタと膝を打ったに違いない。男子の兵役と女子の小学校教育経験を並べるという考えは女子の社会的地位を男並みにする上で大変な英断であろう。実際はとても実現はしないだろうと発言者も言っているがこれは画期的な考えであろうといさのは思っただろう。

いさのは地元の小学校と武平と結婚して行った大阪の小学校でしばしの教員生活をしたが、教員生活は長くはなく、子供ができて仕事から撤退した。武平は同じ村の出身で東京高等師範を卒業した人で彼との結婚はこれ以上の人はいないという思いであったろう。自分の教育的思想を彼に託したという面もあったのであろう。