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これが小松家の墓地の全容です。すぐ横に紫雲寺という浄土宗のお寺がありそこが菩提寺ということになります。画面左上に一基墓石があります。これは祖父母のお墓ですが、一段高いところにあり、異彩を放っています。なんでも祖母の要請であったと言われていますが、詳しいことは不明です。右下に墓石が18個あります。一番古いのは300年以上経っていて、表面の字がもうはっきり読み取れません。ここの詳細は別途説明をいたすことにします。

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左の写真が祖父母の石塔のところから撮った全体の写真になります。写真の左手、前列の三基は左の二基が明治十年に分家した新家(しんや)のもの、一番右のが私の父母の墓です。三基の大きい墓の後ろに並んでいるのが一番古いもので左から三番目が初代の墓で相当古いので戒名もはっきり読めない状態です。

右の図は全体の墓石を図にして種類で分類したものです。①から⑨までの番号がついているのが、初代から9代までの石塔です。初代から4代までは小ぶりの石塔で、5代からかなり大きいものになります。5代というのは譽平さんとその妻と若くしてなくなった息子の政吉さんの3人の墓です。妻が亡くなったのが明治10年ですから、そのころ建てられたものでしょう。明治になってお墓のスケールも前代とは違ってきたのでしょうか。笠のある墓石はこの5代だけです。2代から5代までがまとまったところにあります。丸にダッシュがついているのは、その代の子供の石塔です。こういうのが4基あります。初代の子供は雪窓道白信士 享保二年(1722)、 2代のは實相體全信士 宝暦五年(1755)、3 代は二人あって、岱含雪應信士 明和八年(1771)と■岸妙樹信女 天明天明三年(1783)となっています。なにやらいわくありげな命名になっているようです。〇は子供のお墓です。何々童女、何々童子という名前がついています。このお墓は光背を背負った仏像がついているスタイルが定型であったようですが時代によって違いが出てきます。これは詳しく別途見たいと思います。

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小さいうちに亡くなった子供たちの墓が七つあり、列挙します。戒名の木札には「安政三丙辰天(1856) 智善童女」というのがあるのですが、これはどうも石塔が見つからない。

享保十丁己(1725)(乙巳の間違?)天  幽光童子位 七月二十五日

宝暦五乙亥(1755) 寂音童子 正月九日

宝暦七丁丑天(1757) 遊暫童子  五月初八日

十八日 天保七丙申年(1836) 玉性童子 五月

明治二十九年(1893)游夢童女位 四月廿六日

昭和十七年(1942)釋證晋童子

18世紀の三つとそれ以降のはスタイルが違っているようです。幽光童子と寂音童子は仏像があって光背をもっています。遊暫童子は仏像だけで像の横に遊暫童子という名前が彫られています。19世紀のなると仏像がなくなって玉性童子と釋證晋童子は四角の石柱に名前と日付が彫られていて、游夢童女位は光背のような石に名前と日付があります。なお、この游夢童女は明治10年に分家した造之助の子供です。いずれも何歳で亡くなったかはわかりませんが、釋證晋童子は私の叔父小松醇郎の長男で、生れて間もなく亡くなったようです。死亡は昭和17年3月18日です。彼が生きていれば私と同じ年のいとこが一人いたことになります。

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これは一番古いもの。幽光童子。享保十(1725)丁己天 七月二十五日。

P1020574二番目。寂音童子。寶暦五(1755)乙亥正月九日。

P1020572三番目。游暫童子。寶暦七(1757)五月初八日。

P1020575四番目。玉性童子。天保七(1836)丙申天五月十八日。

P1020519五番目。游夢童女。明治廿九(1896)四月廿六日

日。

P1020579六番目。釋證晋童子。昭和十七(1942)。

いずれも小さい墓石です。小さいお墓の前に親や兄弟がしゃがんでお参りをしただろう様子が思われます。そういう人たちも時間とともにいなくなり、石塔だけが来る人を待ち続けた時間が過ぎてきました。

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初代の石塔で以降その前に分家の墓ができたりしてすっかり後列で小さくなっている。右から読んでいくと、正徳元卯天四月八日 清譽浄本信士 覚譽智本信女 正徳二辰天六月廿九日となり、下に各灵(霊の字、中国の簡体字はこれを使っている。)とある。これは二人以前の各灵ということであろうか。正徳元年は西暦1711年で、310年ほど昔である。干支は十二支のみである。この辺の習慣はどういうことか、少し勉強しないといけない。

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これが祖父母の墓石で一段高いところにあります。戒名は祖父が禮禳院義譽恭山良心居士、祖母が純徳院仁譽良室功貞大姉です。昭和12年8月12日、摂郎、醇郎、和郎連名で建てられています。

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これが墓地の全容です。茅野の家の裏の山のふもとにあります。数年前、一本大木が倒れてからこれは大変とほかの大きな木を伐採してしまい、様子がすっかり変わってしまいました。深山幽谷の墓地の感がなくなってかんかんと日が当たるようになり、石塔の表面が変色したり、草が生えるようになりました。しかし、数年経つとまた木が生えてきて今はまたそれなりに日影ができて、以前よりは多少落ち着きがでてきました。伐採以前はこのアングルではなく、右の石塔の列の奥からこちらをみるアングルが大変すばらしく、ここなら私も収めてもらうかと思ったのですが、この状態では如何なものかと考慮中という状態です。閑話休題。菩提寺は紫雲寺といって浄土宗のお寺です。かなり歴史のあるお寺です。この墓地はお寺のすぐ横の山裾に昔からここに墓地がある何軒かの家の墓とならんであります。左の高いところで異彩を放っているのは祖父祖母の石塔です。昭和12年8月には祖父17回忌、祖母7回忌、父7回忌の法要が行われて、法要供物受帳が残っています。祖父母の石塔と曾祖父母の石塔が同じ8月12日の日付で建てられています。この法要を機会に祖父母、曾祖父母の石塔を一緒作ったと思われます。祖父母の石塔は3人の息子の連名で、曾祖父母の石塔は長男の摂郎の名義で建てられています。昭和12年ですから祖母はまだ存命です。祖父の死去については祖母の深い思い入れがあって、このように一段高いところに建てられたように思います。確かではないのですが、祖母が多分長男の摂郎に言ったのだろうと思いますが、ほかの石塔とは別に高いところに作れと言ったという話を聞きました。祖父は東京高師を卒業し、各地の中学などの校長を務め、最後は今の県ヶ丘高校の初代校長を務めました。右下にあるのが初代から九代目(つまり私の父母)までの当主の墓石やその子供たち、幼児のうちに亡くなった子供たちの墓石があります。幅6メートル奥行3メートルぐらいの土地に18柱の石塔が並んでいます。曾祖父母の石塔は画面右下一番手前の大きな石塔です。

ここで歴代当主の戒名と亡くなった年月日を挙げておきます。資料としたのは、大正四年に作られた祖父武平の手になると思われる「我家の歴史」なる冊子が主です。これは前書きで家に伝わる戒名札と小松長兵衛所持の資料と現存する石塔を調べたと書いてあり、非常に貴重なものです。しっかりとした楷書で書かれていて、書いた人の性格が分かります。七代の小松米治までが書かれていますが、大正4年は米治はまだ存命ですから、米治死後誰かがあとから書き足した形跡があります。そのあとは私が今回追加いたしました。

小松家歴代当主

初代 茂右衛門 清譽浄本信士 正徳元年(1711)亡

        覺譽智本信女 正徳二年(1712)亡 妻

二代 俗名不明 昌譽宗(般の下に糸)信士 寛保三年(1743)亡

        本室妙還信女 正徳六年(1716)亡(前妻ならんか)

        正譽栄覺信女 宝暦十年(1760)亡 妻

三代 松譽漢月信士 茂右衛門 寛政四年(1792)亡

   松譽繰光信女 享和二年(1802)亡 妻

四代 盡譽松嚴信士 吉之丞 文政九年(1826)亡 七十歳(碑)

   嚴譽貞松信女 天保十四年(1843)亡 妻 七十四歳(碑)

五代 徹譽英松浄安信士 與兵衛 安政二年(1855)亡 (碑)

   映譽智松妙安大姉 明治十二年(1879)亡 妻 六十七才(碑)

六代 儻譽虧負清生居士 明治八年(1875)亡 吉蔵 四十五才

   清譽糸玉名称大姉 明治四年(1871)亡 妻 四十一才

   (次男造之助分家)

七代 念譽西岸智海大徳 米治 大正九年(1920)亡 六十九才

   寶樹軒攝譽妙願智順大尼 とく 昭和六年(1931)八十六才

八代 禮禳義譽恭山良心居士 武平 昭和5年(1930)55才

   純徳院仁譽良室功貞大姉 いさの 昭和25年(1950)72才

九代 學眞院攝譽諦忍哲心居士 摂郎 昭和50年(1975)67才

恭眞庵延譽亮浄彗大姉 延世 平成13年(2001)83才