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気分はだんだん与兵衛さん
                            小松紘一郎       

 タイトルはなかなかうまいこと付けたと思うが、さて本文のほうはどうか。与兵衛さんというのは、私の父方の5代前の先祖である。たぶん18世紀から19世紀に変わる頃に生まれ、死んだのは1855(安政2)年12月30日である。政吉(1823-1846)、吉蔵(1829-1875)という子供がおり、1843年と1844年に村の名主をやっており、1849年から1851年までは、年寄役であった。その村は埴原田村といい、今の茅野市の西北4キロくらいの所にある、当時人口300人ぐらいの村であった。
 一昨年の夏、私が相続している与兵衛さんも住んだ家が余りにもひどくなって、ほうっておくと本当に倒壊する感じになってきたので、ついに修理に手を付けた。その前にある建築家に見てもらった。すると、これは相当古い、創建は17世紀にずれ込むかもしれないということであった。民家の年代決定には証拠になるようなはっきりしたものがあればいいが、なかなかそういうものは残りにくいようで、私の家の場合もみつからなかった。ただ古い位牌があり、その一番古いのが1711(正徳2)年であったので、この建築家のいうことも、だいたい正しいのかも知れぬという、傍証にはなった。直すことに決めはしたが、どういうふうにするかではなかなか決まらず、大分頭を悩ましたが、出来るだけ古いままの感じを残しながらということでやった。
 家の方が一段落したので、蔵の整理を始めた。かなりいろいろな物が出てきた。一番古い文書は、1749(寛延2)年の畑の買い入れ証文で、代金二両、年季八十年という記載があった。いろいろ漁っている間に、1枚のきれいに茶色、黄色、緑、青、墨の5色で書き分けたこの村の地図が出てきた。これは『諏訪の近代史』によると、一村限村地図というものらしく、1733(享保18)年、藩主から各村に村地図を出せという命令が出て各村で地図を作ったらしい。これがその下絵となれば、随分と古いものだが、それにしては色が鮮やかである。しかし、その絵の端にある記載事項は、村の家数、お城からの距離、石高が書き込まれている。家数は、九十二軒、距離は「御城ヨリ弐里弐十八丁四十三間五尺寺前まで」(寺というのは村にある浄土宗紫雲寺のこと)、元高四百五十石、高六百四拾六石六斗六升六合七夕、物成参百拾六石壱斗参升六号、内三斗四升七夕山役米とある。280年前のものにしては色が鮮やかすぎる気もするが、その考証は後日の宿題としよう。
江戸時代村では毎年、役所に宗門帳というものを提出していたが、与兵衛が、作った天保15(1844)年の宗門帳が出てきた。正確に書くと「浄土宗宗門御改並人別帳」という。最初に前書きがある。一つは、キリシタンおよび悲田宗の者は村にいないこと、もう一つは、よそ者が居着いた場合も寺で宗旨改めをすること、最後に、流れ者や商人は家に泊めないこと、たとえ親類縁者といえども泊める場合は年寄り五人組に届けるということである。次に、五人組の名前が列挙されている。全部で68人である。それから人別帳が続く。この宗門帳は、名主の控えであり、その後の異動を当該人物の所に張り紙を貼って記録している。江戸へ出稼ぎ、嫁を貰った者、他村へ嫁に行った者、誕生、死亡などである。ちなみに村ではこのは女5人、男3人が生まれている。 宗門改めについては、まず正月十五日に宗門改めについての廻状がやってきて、すると名主はこの控えを取り出して、村を回り、異動を調べ、変わったところは張り紙をして訂正し、これを下帳として提出する。すると奉行の手下の書き役がそれによって新しい帳面を二通作って名主にわたす。名主はそれぞれに各人の認め印を押させ、寺の証明印をもらう。そうして、当日改めの席上で宗門送状、請け状とともに奉行に提出する(『諏訪の近代史』)ということであった。天保15年は2月2日に与兵衛は鋳物師屋新田の万右衛門と一緒に役所に行きこの下帳を出し、四日に同僚の孫兵衛がそれを貰いに行っている。3月4日には「御宗門御奉行様山田左太夫様御出被遊古役鬼場迄御出迎致し」とある。その日、宗門帳が提出されたのであろう。御なになに様が目立つだけに、与兵衛さんも緊張したのだろう。宗門帳も何冊か揃うとおもしろいが、残念ながら1冊しかなかった。まあしかし1冊でも当時の村のことがなにがしかはわかる。これによると、村の人口は男153人、女162人、計315人。家族数は、89である。その内訳は≪1人もの≫12、≪2人≫17、≪3人≫16、≪4人≫18、≪5人≫12、≪6人≫9、≪7人≫4、≪人≫1である。意外に大家族がない。男の平均年齢は33・1歳、女は35歳になっている。年齢構成を表にすると以下のようになる。

 年齢   男 女   年齢    男 女
1~9   16 22  50~59   19 18
10~19   29 21  60~69   10 14
20~29   26 33  70~79   4 11
30~39   33 18  80~89   2 1
40~49   20 21  90~99   1

40代、50代は男女だいたい同数だが、それ以上になると、女のほうが多くなってくる。男は70代の4人のうち、一人は27年前から行方不明であり、80代の一人は29年前から、90代の一人にいたっては54年前から行方不明となっている。これらの男は生存の可能性はあまりないとすれば、年寄の女性優位はさらに強くなる。
 男女を年齢別に並べてみる。女のほうは平仮名2字の名前、くら、たつ、ゆき、あさなどという名前が続き、18歳くらいからその中に女房という漢字が入ってくる。そして女房が続くようになり、その間に適齢期だがなんらかの理由で2字のままでいる女が挟まっている。さらにたどっていくと、こんどは後家が現れ、母が続くようになる。つまり結婚した息子の母ということである。この時代の女が、女房、母という役割で一括されている様子に今更ながら感じいった。 
さて、与兵衛さんの公務日誌といったものが残っていた。「御用日記帳天保十四癸卯年八月五日植原田村」、同じ日付の「御廻状書留帳」があった。これは役所や宿駅からくる命令の文書の写しである。日記は翌年の11月26日まで続いている。村の名主というのはそうとう忙しい役のようであり、農業と両方はなかなか大変なようだ。したがって小作人を使いながらということになるのであろう。とにかくお上からいろいろな要請がやってくる。やれ年貢だ、やれ人足だ、やれ金を貸せ、役人がやってきては飯を食っていく。これだけの仕事をこなすのは、かなり大変である。もちろん役得もあったに違いないが、そう楽な役ではなさそうだ。このことについては、もう少し時間を貰ってまた考えてみたいと思う。

 追記 ここのところ、都会生活の疲れからか、私は気分的にずいぶん田舎への傾斜が激しい。江戸時代、人口300余の村は、今、人口500人である。都会に比べればその人口の変化は少ない。都会生活者の妄想といわれるかも知れないが、このくらいの規模を単位にした単純な生活が、結局は人間にとって一番いいのではないかなどと思ってしまう。与兵衛さん調べもそういう気分のしからしむるところということだろう。
           (1942年生 出版社勤務)
注:これは1987年8月発行の御茶ノ水女子大学の中文科を卒業した人たちがやっている雑誌「誌上同窓会」という雑誌の7号に載せてもらった駄文です。一番最後にのっけてくれて、「戦いがない」という批判を頂きました。そういわれれば確かにそういう気がします。小松家の文書を扱い始めたころで、与兵衛さんの「御用日記」や宗門帳をいろいろいじくっていました。ワープロの時代で「ゟ」など自分でドットを処理して作ったりしました。御用日記は出来るだけ早く文書館にきちんと載せたいと思っています。早くしろと与兵衛さんに叱られそうです。

私の履歴書⑥ 弊衣破帽
明石康
 終戦になって、進駐軍のチョコレートやチューインガム欲しさに英会話を勉強するのは、なんとなく卑屈に見えたので、そうしたグループの中に入り込む気がしなかった。そのため、後で苦労することになった。岩波英和辞典を編纂した田中菊雄氏がいる旧制の山形高校。一九四八年、英語教育に期待して入学したが、田中先生は古めかしい独特の抑揚をつけて発音した。点数のやたら辛い深町という先生は、イギリス随筆の味わいについて教えた。好き嫌いが激しい私はドイツ語教師になじめず、いまもってドイツ語ができない。
 ひもじいせいもあって、寮の部屋に万年床を敷いて、図書館から借りた本を手当たり次第に読むことにする。分厚いショーペンハウエルやモンテーニュを深刻な顔をしてよむ。左翼思想が学園を風靡していた。小松摂郎というマルクス主義哲学者の講義はむんむんとして立錐の余地もなかった。校内に共産党の細胞ができたという噂だった。今まで幅を利かせていた思想が、ガラガラ崩れた後で唯物史観は確かにわかりよかった。
 講堂ではダンスの講習会が開かれ、私は講師の大胆で優雅なステップにみとれるばかり。羽仁五郎という有名な思想家もやってきて、滑らかな口調で自由主義について熱っぽく語った。秋田から持ちかえったまっ白い米を校庭の片隅で焚火をし、飯盒で炊く。車座になって納豆をかけて食べた。旧制高校らしく弊衣破帽、草履をはいて街を歩く。安い焼酎を上級生に飲まされ、屋台の前にしゃがんで雪の上に吐いた。バンカラ学生のまねごとをしているうちにつまらなくなり、みんなと一緒に寮歌を歌うのはやめてしまった。
数人で十和田湖に旅をする。秋の湖畔は紅葉がみごとだった。泊めていただいた十和田神社で、ついでに御神酒も頂だいしてしまう。八幡平に登山した時は遭難しかけた。地図にあった道は山崩れで切断されていて、迷ったあげく寒さと空腹で休憩。深夜になってたどりついた救援隊により救出された。眠ったら凍死していたにちがいない。
いまの蔵王をしらない。リフトの一つもない時代。山を一歩一歩登って山小屋に到着した。交代で薪をくべて暖をとり、寝袋に入って眠る。ロケの時に原節子が使ったという寝袋の取りあいだった。朝、樹氷の間を新雪に跡をつけてすべった醍醐味。
学制改革になり、東京の大学を受験したものの、すべって浪人をした。秋田中学が新制高校になっていたので、司書として採用される。実に勝手な司書で、自分の読書や勉強のために図書室のドアを閉めてしまったりした。
社会科学や文学を語る仲間がいた。ひとりは憂鬱な詩を書いていた。やさしいまなざしの男だった。別のひとりは、無頼の文学者気取りで、虚無的な目をしていた。もうひとりは、少学校時代の喧嘩仲間。その後大きな商店を開いて繁盛したが、夭折した。心のやさしい人は、神に愛されて早死にする傾向でもあるのだろうか。
郷里に帰る度に、同級生たちが集まってくれる。酒を酌み交わしながら、一別以来のよもやま話に花を咲かす。民謡も歌うが、秋田音頭には替え歌がほとんど無限にある。なかにはかなりきわどい文句のものが交じっている。
一緒に歌いながら、こうした歌にはどこかとぼけた素朴さと土の臭いのするユーモアがあると思う。秋田はまぎれもなく東北地方の一部なのだが、東北的な質実剛健さよりも、地中海的な明るさと楽天性をただよわせている感じがしてならない。(前国連事務次長)
(注:ここでは小松摂郎の講義が大変学生にもてたことが書いてある。新時代の論客として大もてであったが、それだけ反感を持った人も多かったに違いない。それが1949年以降の反共時代になって噴出するのである。明石康は後に国連で働いて著名な人となる)。

書架散策 千田夏光 
戸坂潤 科学論 雷鳴のごとき観念論批判
 
敗戦三ヶ月後の某日。学徒出陣でとられた軍隊から解放されたものの家は「満洲」。帰るべきネグラはない。放浪のはて、やっと雨露をしのぐ三畳間をえたが金はない。その日の全財産は二十円だった。新宿にでた。東口の焼け跡にできた青天井のヤミ市でなにか食べ物を考えたのだった。五本十円の蒸し芋が目に入った。十円はその日の全食料費である。よし、と思ったとき、すぐ脇へ地ベタにゴザを敷き古本を山と積んだのがいた。
後から考えると戦時中に逮捕した人の家から押収した“蔵書”、それを敗戦後のゴタゴタのなか警察からカッパラって来たものらしかったが、ふとなかの一冊が目にとまった。十円だという。著者の戸坂潤がどんな人物かなど知らなかった。ただ科学の二文字にひかれたのだった。蒸し芋はあきらめた。夜、空の胃袋を抱えページをめくると心酔しきっていたカントがばさばさと論破されている。『純粋理性批判』『実践理性批判』をとおしカントのいう「物自体は知りえない」となることばを信じきっていた観念論の信徒へ、そこにある「しからば知りえないものをどうして想定しうるのか」のことばは雷鳴のごとくひびいたのであった。さらに四項目にわけ“物の考え方”をじんじんといていくくだりは、二度三度よみかえすなか、いつしか今日の思考方法になっていったのだが、それは後のことだ。
奥付けに三笠書房刊『唯物論全書』第一巻とあった。おろかな私はこのときはじめて唯物論なることばを知ったのだった。
それにしても戸坂潤とはいかなる人物か。翌年二月、ヤミ米担ぎでえた金で彼にくわしいという山形高校(現山形大)の小松摂郎教授をたずねにいった。山形は雪だった。途中で寝ているところを名人技をもった泥棒にはいている靴を盗まれた私は、はだしで雪を踏み先生をたずねた。
戸坂潤が、日本の哲学者のなかでその思想的理論活動のゆえ獄死した最初の人であること、場所は長野刑務所、敗戦直前の八月九日、四十六歳であったことを静かな言葉で教示してくださった。帰りに「これしかないので・・・」とわら草履を下さった。
先生はのちに甲南大学に移られたが『科学論』は三笠書房で復刻され、さらに『戸坂潤全集』全五巻におさめられている。ものの考え方を知りたいという若い方にすすめたいこと切なるものがある。(作家)『戸坂潤全集』第一巻所収  

注:当時私は三歳。こんなことがあったのは知るよしもないが、面白い記事なので、文書館に採用させてもらおうと思う。裸足で山形駅から雪の中あの家まで歩いて行ったのは大変である。靴は無いが草履ならと、草履を与えたというのも何とも時代を彷彿とさせる話ではある。甲南大学に移るというのは間違いだが、関西方面という認識は著者にあったようである。摂郎の日記では残念ながらこの日が何日かは確定できなかった。著者は2000年に亡くなったが、従軍慰安婦という言葉を始めて提起した人として、名を知られている。)