これが墓地の全容です。茅野の家の裏の山のふもとにあります。数年前、一本大木が倒れてからこれは大変とほかの大きな木を伐採してしまい、様子がすっかり変わってしまいました。深山幽谷の墓地の感がなくなってかんかんと日が当たるようになり、石塔の表面が変色したり、草が生えるようになりました。しかし、数年経つとまた木が生えてきて今はまたそれなりに日影ができて、以前よりは多少落ち着きがでてきました。伐採以前はこのアングルではなく、右の石塔の列の奥からこちらをみるアングルが大変すばらしく、ここなら私も収めてもらうかと思ったのですが、この状態では如何なものかと考慮中という状態です。閑話休題。菩提寺は紫雲寺といって浄土宗のお寺です。かなり歴史のあるお寺です。この墓地はお寺のすぐ横の山裾に昔からここに墓地がある何軒かの家の墓とならんであります。左の高いところで異彩を放っているのは祖父祖母の石塔です。昭和12年8月には祖父17回忌、祖母7回忌、父7回忌の法要が行われて、法要供物受帳が残っています。祖父母の石塔と曾祖父母の石塔が同じ8月12日の日付で建てられています。この法要を機会に祖父母、曾祖父母の石塔を一緒作ったと思われます。祖父母の石塔は3人の息子の連名で、曾祖父母の石塔は長男の摂郎の名義で建てられています。昭和12年ですから祖母はまだ存命です。祖父の死去については祖母の深い思い入れがあって、このように一段高いところに建てられたように思います。確かではないのですが、祖母が多分長男の摂郎に言ったのだろうと思いますが、ほかの石塔とは別に高いところに作れと言ったという話を聞きました。祖父は東京高師を卒業し、各地の中学などの校長を務め、最後は今の県ヶ丘高校の初代校長を務めました。右下にあるのが初代から九代目(つまり私の父母)までの当主の墓石やその子供たち、幼児のうちに亡くなった子供たちの墓石があります。幅6メートル奥行3メートルぐらいの土地に18柱の石塔が並んでいます。曾祖父母の石塔は画面右下一番手前の大きな石塔です。
ここで歴代当主の戒名と亡くなった年月日を挙げておきます。資料としたのは、大正四年に作られた祖父武平の手になると思われる「我家の歴史」なる冊子が主です。これは前書きで家に伝わる戒名札と小松長兵衛所持の資料と現存する石塔を調べたと書いてあり、非常に貴重なものです。しっかりとした楷書で書かれていて、書いた人の性格が分かります。七代の小松米治までが書かれていますが、大正4年は米治はまだ存命ですから、米治死後誰かがあとから書き足した形跡があります。そのあとは私が今回追加いたしました。
小松家歴代当主
初代 茂右衛門 清譽浄本信士 正徳元年(1711)亡
覺譽智本信女 正徳二年(1712)亡 妻
二代 俗名不明 昌譽宗(般の下に糸)信士 寛保三年(1743)亡
本室妙還信女 正徳六年(1716)亡(前妻ならんか)
正譽栄覺信女 宝暦十年(1760)亡 妻
三代 松譽漢月信士 茂右衛門 寛政四年(1792)亡
松譽繰光信女 享和二年(1802)亡 妻
四代 盡譽松嚴信士 吉之丞 文政九年(1826)亡 七十歳(碑)
嚴譽貞松信女 天保十四年(1843)亡 妻 七十四歳(碑)
五代 徹譽英松浄安信士 與兵衛 安政二年(1855)亡 (碑)
映譽智松妙安大姉 明治十二年(1879)亡 妻 六十七才(碑)
六代 儻譽虧負清生居士 明治八年(1875)亡 吉蔵 四十五才
清譽糸玉名称大姉 明治四年(1871)亡 妻 四十一才
(次男造之助分家)
七代 念譽西岸智海大徳 米治 大正九年(1920)亡 六十九才
寶樹軒攝譽妙願智順大尼 とく 昭和六年(1931)八十六才
八代 禮禳義譽恭山良心居士 武平 昭和5年(1930)55才
純徳院仁譽良室功貞大姉 いさの 昭和25年(1950)72才
九代 學眞院攝譽諦忍哲心居士 摂郎 昭和50年(1975)67才
恭眞庵延譽亮浄彗大姉 延世 平成13年(2001)83才