井伊掃頭部様
昨三日五ツ時御登城之砌外桜田御門外松平大隅守様御屋敷者つ連(はずれ)ニ而御駕籠江左右ゟ及
狼藉候もの有之五六人雪中桐油ニ而平伏いたし候處御通行御駕籠前ニ而桐油笠等取候而下ニ白布ニ
而鉢巻襷を掛け抜打ニ御駕籠を目掛ヶ切付候處御駕籠脇之衆ふ意之事ニ而相支候得共抜合せ候間合
も無之六人程深手即死等も有之趣ニ御座候直ニ御駕籠者跡江立戻ニ相成候得共陸尺(?)逃去御国
仲間侍分之者表門ゟ奥迄御乗込ニ相成候よし且又狼藉之もの共同處ゟ日比谷御門江出八代洲川岸増
山河内守様辻番前ニ而弐人深手負候者自殺同所辰之口ニ而壱人切腹外ニ手負人壱人遠藤但馬守様辻
番勝手外ニ而相果右之外辰之口切腹ㇵ酒井雅楽頭様ゟ戸板囲立番警護ニ御座候遠藤様辻番前脇(破損)
引小笠原右近将監様ゟ御固メ人数御差出ニ相成候昨日之處荒増如是御座候以上
日別アーカイブ: 2019年9月28日
小松与兵衛の御用日記および「我が家の歴史 小松家」について
小松家には「大正4年8月創起 我が家の歴史 小松家」という16ページからなる家系をしるした冊子が残されている。筆者の名前が明記されていないが、多分養子になって小松家に来た笹岡武平の手になるものであろうと思われる。中々見事な筆跡であり、武平は小さい時から字が上手かったらしい。「此記録は自家保存の戒名札、紫雲寺過去帳、墓所石碑及小松長兵衛氏所蔵の古記録により摘録したるものなり」とある。ここに書かれている戒名札は正徳元(1711)年から大正九(1920)年にいたる二百余年の17枚のものである。正徳元(1711)年から明治八(1875)年のものは大きさが一致しており、(152㎜×43㎜)である。大正九(1920)年の米治と昭和6年(1931)の妻とくの札は長くなって(175㎜×42㎜)である。正徳元(1711)年から明治八(1875)年のものは両面が利用されていて、一枚に二人の戒名が書かれている。
小松家はこの冊子の記録によれば、16世紀末あたりから諏訪の埴原田に住み始めたようである。それには「天正十五年上諏訪灰原田に住居定むる 小松理兵衛家度タリ」と書かれている。働き者が続いたのだろう、徐々に耕地を増やして行き、そのうち代々名主を務める家になっていったようである。その歴史を物語る様々な文書や生活用品などがかなり残されている。ここに紹介する小松与兵衛の「御用日記」も小松家に残された文書の一つである。
「大正4年8月創起 我が家の歴史 小松家」では以下のように初代から第七代までの当主が記されている。
第一代 正徳元(1711)年四月八日亡 清與浄本信士 俗名茂右衛門有忠
第二代 寛保三(1743)年十一月七日亡 昌與宗(般の下に糸)信士
第三代 寛政四(1792)年十月十四日亡 松與漢月信士 茂右衛門
第四代 文政九(1826)年九月六日 盡與松嚴信士 吉之丞
第五代 安政二(1855)年十二月三十日亡 徹與映松浄安居士 与兵衛
第六代 明治八(1875)年九月五日亡 儻與虧負清生居士 吉蔵
第七代 大正九(1920)年十一月十八日亡 念與西岸智海大徳 米治
第七代米治が私の曽祖父にあたる。与兵衛は第五代当主で生年は不明だが、没年は安政2年(1855)12月30日となっている。没年から数えると天保14(1843)は12年前である。この冊子には与兵衛から人物の性格に関する短い記述がある場合があり、それによれば与兵衛は「性剛毅村人を威服したり」と書かれている。大正4年にこの冊子が編まれたころはまだそういった過去の人物の言い伝えが生きていたのであろう。
与兵衛の妻は冊子によれば66歳で明治10(1877)年2月5日に没している。従って妻は文化8年(1811)生まれとなり、与兵衛の生年は、例えば妻より5歳上とすると、1806年となり、没は49歳となる。(しかし明治6年1月31日の日付の千鹿頭社の札では、与平亡妻もととして文化4年4月8日生まれとなっている。したがって明治6年には与平の妻はすでに亡くなっていることになる。没した年齢が66歳だとすれば、明治6年に死んでいる可能性はある。)与兵衛には政吉と吉蔵という二人の息子がいたようだが、政吉は「学ヲ好ミ其師モ之ニ教フルニ堪ヘズト嘆ジタル程ナリシモ年少ニシテ父ニ先ツテ死セシハ惜シムベシ」とあり、弘化3年(1846)に没している。天保14年の御用日記にもその名がみえている。長男として時折父の仕事を引き継ぐべく父に同道することもあったのだろう。しかし、その死は父に先んずること9年であった。そして次男吉蔵が第6代当主になる。吉蔵は「性豪傑肌ニシテ酒ヲ嗜ミ常ニ悠遊シ時々働ク時ハ大ニ働キ人ヲ驚カス如クナリ維新前後当諏訪藩下筋一万石ノ蔵番ヲ勤メタリ是ヲ以テ武田耕雲斎ノ戦争ニモ出デズ」とある。没年は明治8年(1875)9月5日、45歳である。吉蔵死去の後米治が家督を引き継ぐが、その折の役所への書類には吉蔵は急に腫物が出来て十日余りで死ぬという急死であったことが記されている。
この家系を記した時は米治が当主であり、第7代の米治は後から書き加えられた形跡がある。この冊子が書かれた大正4年の小松家の状態はどうかというと米治が当主で、一人娘のいさのは笹岡武平を明治38年(1905)養子に迎え、当時は奈良県師範学校主事として大阪の小学校長から転勤した小松武平に従って奈良に住みすでに4人の子持ちであった。米治の弟、造之助は埴原田で明治10年に分家して隣に住んでいた。米治という人は大変温和な人であったらしい。妻のとくは米治の前に長田淺右衛門との間に一人男の子をもうけている。どういう原因でそこの家を去ったかははっきりしないが、何らかの原因で米治の所に来たという訳である。そういうこともあり、いさのがひとり娘になったのである。やはり小松家はいさのの代に大きな変化を遂げる。いさのの夫、笹岡武平は東京高等師範学校を卒業と同時に小松家に入り、大阪・奈良・上田・諏訪・松本と各地で教員の生活を送り、農業に従事することはなかった。明治という大きな時代の転換は小松家にも大きな影響をもたらしたというべきだろう。
この与兵衛の残した文書は結構がいろいろあり、天保14年についてもこの外、御触書御廻状帳、宗門帳、大検見にかんする文書などがある。御用日記を見ると名主の生活もなかなか忙しそうである。日々農事はあり、あちこちに出かけねばならず心身ともに頑強でないと務まらないであろうと思われる。
小松紘一郎記
2014年2月
2019年9月改定