明治35年長野師範学校女子部の東京への修学旅行の記録
『和か葉の雫」なる小冊子(A6版)を発見した。これは1902年(明治35年)6月6日から10日にわたる長野師範学校女子部の東京への修学旅行の記録である。これまでは男子に限られていた修学旅行が初めて女子にも認められたということで大いに感激して旅程にのぼったことが書かれている。60頁弱の小冊子だがその文語体の文の味わいと行文中の和歌がなかなかに良い。編輯人として4名が挙がっている。その中に有賀ミつ子という名が見える。この人物はのちに太田水穂と結婚する人で、自らも歌人として歌を残している。彼女とはいさのは友人として長く交流があり、いさのも歌については少なからぬ関心を持っていたようである。この修学旅行の記録中の和歌がすべて有賀ミつ子の作とは言えないだろうが、かなりの部分は彼女の作かもしれない。なかなか捨てがたい味わいがある冊子であるので、全文を掲載することにした。ぜひ一覧をお願いする。この旅行には在学中のいさのは参加しなかったようであるが、この冊子を手にしたことは間違いないところだろう。
『修学旅行のすべて1987』という本があり。そこに「修学旅行100年史」の年表があるので、少しそこから参考のために記事を引いてみよう。まずそこでは「修学旅行形成期」として明治5年から19年まで、「修学旅行整備期」が明治19年から38年まで、「修学旅行充実期」が明治39年から昭和3年までという風になっている。この旅行は明治35年であるので整備期の最後の方に当たるわけである。修学旅行という名前の初見は明治20年『大日本教育会雑誌』に載った「長野県師範学校修学旅行」であるとする。これによれば修学旅行はまず長野県が先鞭をつけたようである。この年は東京への修学旅行の初見であるとする。これは千葉県尋常中学ということであり、比較的近いところから行くことが可能であったのだろう。そして明治22年に女子の修学旅行の初見が出ている。これは山梨県女子師範学校生徒とある。長野県に近いところであるが、なんらかの影響が長野県師範学校女子部の修学旅行にあるかどうか。そして明治30年をもってこの年表では「修学旅行の普及」と銘打っている。こういった修学旅行の流れのなかで長野県師範学校女子部の修学旅行も可能になったのであろう。