作成者別アーカイブ: 館長

小松与兵衛の御用日記および「我が家の歴史 小松家」について

小松家には「大正4年8月創起 我が家の歴史 小松家」という16ページからなる家系をしるした冊子が残されている。筆者の名前が明記されていないが、多分養子になって小松家に来た笹岡武平の手になるものであろうと思われる。中々見事な筆跡であり、武平は小さい時から字が上手かったらしい。「此記録は自家保存の戒名札、紫雲寺過去帳、墓所石碑及小松長兵衛氏所蔵の古記録により摘録したるものなり」とある。ここに書かれている戒名札は正徳元(1711)年から大正九(1920)年にいたる二百余年の17枚のものである。正徳元(1711)年から明治八(1875)年のものは大きさが一致しており、(152㎜×43㎜)である。大正九(1920)年の米治と昭和6年(1931)の妻とくの札は長くなって(175㎜×42㎜)である。正徳元(1711)年から明治八(1875)年のものは両面が利用されていて、一枚に二人の戒名が書かれている。
小松家はこの冊子の記録によれば、16世紀末あたりから諏訪の埴原田に住み始めたようである。それには「天正十五年上諏訪灰原田に住居定むる 小松理兵衛家度タリ」と書かれている。働き者が続いたのだろう、徐々に耕地を増やして行き、そのうち代々名主を務める家になっていったようである。その歴史を物語る様々な文書や生活用品などがかなり残されている。ここに紹介する小松与兵衛の「御用日記」も小松家に残された文書の一つである。
「大正4年8月創起 我が家の歴史 小松家」では以下のように初代から第七代までの当主が記されている。

第一代 正徳元(1711)年四月八日亡 清與浄本信士 俗名茂右衛門有忠
第二代 寛保三(1743)年十一月七日亡 昌與宗(般の下に糸)信士
第三代 寛政四(1792)年十月十四日亡 松與漢月信士 茂右衛門
第四代 文政九(1826)年九月六日 盡與松嚴信士 吉之丞
第五代 安政二(1855)年十二月三十日亡 徹與映松浄安居士 与兵衛
第六代 明治八(1875)年九月五日亡 儻與虧負清生居士 吉蔵
第七代 大正九(1920)年十一月十八日亡 念與西岸智海大徳 米治

第七代米治が私の曽祖父にあたる。与兵衛は第五代当主で生年は不明だが、没年は安政2年(1855)12月30日となっている。没年から数えると天保14(1843)は12年前である。この冊子には与兵衛から人物の性格に関する短い記述がある場合があり、それによれば与兵衛は「性剛毅村人を威服したり」と書かれている。大正4年にこの冊子が編まれたころはまだそういった過去の人物の言い伝えが生きていたのであろう。
与兵衛の妻は冊子によれば66歳で明治10(1877)年2月5日に没している。従って妻は文化8年(1811)生まれとなり、与兵衛の生年は、例えば妻より5歳上とすると、1806年となり、没は49歳となる。(しかし明治6年1月31日の日付の千鹿頭社の札では、与平亡妻もととして文化4年4月8日生まれとなっている。したがって明治6年には与平の妻はすでに亡くなっていることになる。没した年齢が66歳だとすれば、明治6年に死んでいる可能性はある。)与兵衛には政吉と吉蔵という二人の息子がいたようだが、政吉は「学ヲ好ミ其師モ之ニ教フルニ堪ヘズト嘆ジタル程ナリシモ年少ニシテ父ニ先ツテ死セシハ惜シムベシ」とあり、弘化3年(1846)に没している。天保14年の御用日記にもその名がみえている。長男として時折父の仕事を引き継ぐべく父に同道することもあったのだろう。しかし、その死は父に先んずること9年であった。そして次男吉蔵が第6代当主になる。吉蔵は「性豪傑肌ニシテ酒ヲ嗜ミ常ニ悠遊シ時々働ク時ハ大ニ働キ人ヲ驚カス如クナリ維新前後当諏訪藩下筋一万石ノ蔵番ヲ勤メタリ是ヲ以テ武田耕雲斎ノ戦争ニモ出デズ」とある。没年は明治8年(1875)9月5日、45歳である。吉蔵死去の後米治が家督を引き継ぐが、その折の役所への書類には吉蔵は急に腫物が出来て十日余りで死ぬという急死であったことが記されている。
この家系を記した時は米治が当主であり、第7代の米治は後から書き加えられた形跡がある。この冊子が書かれた大正4年の小松家の状態はどうかというと米治が当主で、一人娘のいさのは笹岡武平を明治38年(1905)養子に迎え、当時は奈良県師範学校主事として大阪の小学校長から転勤した小松武平に従って奈良に住みすでに4人の子持ちであった。米治の弟、造之助は埴原田で明治10年に分家して隣に住んでいた。米治という人は大変温和な人であったらしい。妻のとくは米治の前に長田淺右衛門との間に一人男の子をもうけている。どういう原因でそこの家を去ったかははっきりしないが、何らかの原因で米治の所に来たという訳である。そういうこともあり、いさのがひとり娘になったのである。やはり小松家はいさのの代に大きな変化を遂げる。いさのの夫、笹岡武平は東京高等師範学校を卒業と同時に小松家に入り、大阪・奈良・上田・諏訪・松本と各地で教員の生活を送り、農業に従事することはなかった。明治という大きな時代の転換は小松家にも大きな影響をもたらしたというべきだろう。
この与兵衛の残した文書は結構がいろいろあり、天保14年についてもこの外、御触書御廻状帳、宗門帳、大検見にかんする文書などがある。御用日記を見ると名主の生活もなかなか忙しそうである。日々農事はあり、あちこちに出かけねばならず心身ともに頑強でないと務まらないであろうと思われる。
小松紘一郎記
2014年2月
2019年9月改定

これは大正4年八月に小松武平が作り始めたらしい,小松家歴代の当主の年代記である。大正4年と言えば武平は奈良師範学校に奉職しており、
大正五年には上田中学の校長に転じる。やはり諏訪に近い上田に来てから作られたものであろうか。まず年代表あり、江戸時代の開始、
元和から始め、明治に至る。次に「過去を明にして将来家系の永續と子孫の繁榮とを図り以て邦家に報ぜしめんとす」という前書があり、
この記録の元になった諸資料を述べる。ここに出てくる「小松長兵衛氏所蔵の古記録(安永年間の記録ならん)」というのが出てくるの
だが、今の所これは探し得ていない。次に系図があり、平重盛から始まっているが、このあたりは十分フォロウできない。生没が詳しく
書いてあるが、どれほど信頼できるかな疑問である。重盛の次に資盛の名前があるが、資盛は壇ノ浦で25歳(又は28歳)で死んだことに
なっているが、この系図では嘉禄二年六十七歳でしんだことになっている。重盛から10代目に忠実がいて、元亀三年に63歳で死すとある。
この人が甲斐国へ西国から来て天文十三年武田信虎から「忠義有」として「永拾貫文」を貰ったとある。天正十五年小松理兵衛が上諏訪
灰原田に住み始めたとあり、その次男茂右衛門が第一代当主ということになっている。没年が正徳元年(1711)だから、17世紀半ばぐら
いから埴原田に住み始めたということになろうか。私はそれから十代目になる。

img364

img365 img366 img367

img368 img369 img370

img371 img372 img373

img374 img375 img376

気分はだんだん与兵衛さん
                            小松紘一郎       

 タイトルはなかなかうまいこと付けたと思うが、さて本文のほうはどうか。与兵衛さんというのは、私の父方の5代前の先祖である。たぶん18世紀から19世紀に変わる頃に生まれ、死んだのは1855(安政2)年12月30日である。政吉(1823-1846)、吉蔵(1829-1875)という子供がおり、1843年と1844年に村の名主をやっており、1849年から1851年までは、年寄役であった。その村は埴原田村といい、今の茅野市の西北4キロくらいの所にある、当時人口300人ぐらいの村であった。
 一昨年の夏、私が相続している与兵衛さんも住んだ家が余りにもひどくなって、ほうっておくと本当に倒壊する感じになってきたので、ついに修理に手を付けた。その前にある建築家に見てもらった。すると、これは相当古い、創建は17世紀にずれ込むかもしれないということであった。民家の年代決定には証拠になるようなはっきりしたものがあればいいが、なかなかそういうものは残りにくいようで、私の家の場合もみつからなかった。ただ古い位牌があり、その一番古いのが1711(正徳2)年であったので、この建築家のいうことも、だいたい正しいのかも知れぬという、傍証にはなった。直すことに決めはしたが、どういうふうにするかではなかなか決まらず、大分頭を悩ましたが、出来るだけ古いままの感じを残しながらということでやった。
 家の方が一段落したので、蔵の整理を始めた。かなりいろいろな物が出てきた。一番古い文書は、1749(寛延2)年の畑の買い入れ証文で、代金二両、年季八十年という記載があった。いろいろ漁っている間に、1枚のきれいに茶色、黄色、緑、青、墨の5色で書き分けたこの村の地図が出てきた。これは『諏訪の近代史』によると、一村限村地図というものらしく、1733(享保18)年、藩主から各村に村地図を出せという命令が出て各村で地図を作ったらしい。これがその下絵となれば、随分と古いものだが、それにしては色が鮮やかである。しかし、その絵の端にある記載事項は、村の家数、お城からの距離、石高が書き込まれている。家数は、九十二軒、距離は「御城ヨリ弐里弐十八丁四十三間五尺寺前まで」(寺というのは村にある浄土宗紫雲寺のこと)、元高四百五十石、高六百四拾六石六斗六升六合七夕、物成参百拾六石壱斗参升六号、内三斗四升七夕山役米とある。280年前のものにしては色が鮮やかすぎる気もするが、その考証は後日の宿題としよう。
江戸時代村では毎年、役所に宗門帳というものを提出していたが、与兵衛が、作った天保15(1844)年の宗門帳が出てきた。正確に書くと「浄土宗宗門御改並人別帳」という。最初に前書きがある。一つは、キリシタンおよび悲田宗の者は村にいないこと、もう一つは、よそ者が居着いた場合も寺で宗旨改めをすること、最後に、流れ者や商人は家に泊めないこと、たとえ親類縁者といえども泊める場合は年寄り五人組に届けるということである。次に、五人組の名前が列挙されている。全部で68人である。それから人別帳が続く。この宗門帳は、名主の控えであり、その後の異動を当該人物の所に張り紙を貼って記録している。江戸へ出稼ぎ、嫁を貰った者、他村へ嫁に行った者、誕生、死亡などである。ちなみに村ではこのは女5人、男3人が生まれている。 宗門改めについては、まず正月十五日に宗門改めについての廻状がやってきて、すると名主はこの控えを取り出して、村を回り、異動を調べ、変わったところは張り紙をして訂正し、これを下帳として提出する。すると奉行の手下の書き役がそれによって新しい帳面を二通作って名主にわたす。名主はそれぞれに各人の認め印を押させ、寺の証明印をもらう。そうして、当日改めの席上で宗門送状、請け状とともに奉行に提出する(『諏訪の近代史』)ということであった。天保15年は2月2日に与兵衛は鋳物師屋新田の万右衛門と一緒に役所に行きこの下帳を出し、四日に同僚の孫兵衛がそれを貰いに行っている。3月4日には「御宗門御奉行様山田左太夫様御出被遊古役鬼場迄御出迎致し」とある。その日、宗門帳が提出されたのであろう。御なになに様が目立つだけに、与兵衛さんも緊張したのだろう。宗門帳も何冊か揃うとおもしろいが、残念ながら1冊しかなかった。まあしかし1冊でも当時の村のことがなにがしかはわかる。これによると、村の人口は男153人、女162人、計315人。家族数は、89である。その内訳は≪1人もの≫12、≪2人≫17、≪3人≫16、≪4人≫18、≪5人≫12、≪6人≫9、≪7人≫4、≪人≫1である。意外に大家族がない。男の平均年齢は33・1歳、女は35歳になっている。年齢構成を表にすると以下のようになる。

 年齢   男 女   年齢    男 女
1~9   16 22  50~59   19 18
10~19   29 21  60~69   10 14
20~29   26 33  70~79   4 11
30~39   33 18  80~89   2 1
40~49   20 21  90~99   1

40代、50代は男女だいたい同数だが、それ以上になると、女のほうが多くなってくる。男は70代の4人のうち、一人は27年前から行方不明であり、80代の一人は29年前から、90代の一人にいたっては54年前から行方不明となっている。これらの男は生存の可能性はあまりないとすれば、年寄の女性優位はさらに強くなる。
 男女を年齢別に並べてみる。女のほうは平仮名2字の名前、くら、たつ、ゆき、あさなどという名前が続き、18歳くらいからその中に女房という漢字が入ってくる。そして女房が続くようになり、その間に適齢期だがなんらかの理由で2字のままでいる女が挟まっている。さらにたどっていくと、こんどは後家が現れ、母が続くようになる。つまり結婚した息子の母ということである。この時代の女が、女房、母という役割で一括されている様子に今更ながら感じいった。 
さて、与兵衛さんの公務日誌といったものが残っていた。「御用日記帳天保十四癸卯年八月五日植原田村」、同じ日付の「御廻状書留帳」があった。これは役所や宿駅からくる命令の文書の写しである。日記は翌年の11月26日まで続いている。村の名主というのはそうとう忙しい役のようであり、農業と両方はなかなか大変なようだ。したがって小作人を使いながらということになるのであろう。とにかくお上からいろいろな要請がやってくる。やれ年貢だ、やれ人足だ、やれ金を貸せ、役人がやってきては飯を食っていく。これだけの仕事をこなすのは、かなり大変である。もちろん役得もあったに違いないが、そう楽な役ではなさそうだ。このことについては、もう少し時間を貰ってまた考えてみたいと思う。

 追記 ここのところ、都会生活の疲れからか、私は気分的にずいぶん田舎への傾斜が激しい。江戸時代、人口300余の村は、今、人口500人である。都会に比べればその人口の変化は少ない。都会生活者の妄想といわれるかも知れないが、このくらいの規模を単位にした単純な生活が、結局は人間にとって一番いいのではないかなどと思ってしまう。与兵衛さん調べもそういう気分のしからしむるところということだろう。
           (1942年生 出版社勤務)
注:これは1987年8月発行の御茶ノ水女子大学の中文科を卒業した人たちがやっている雑誌「誌上同窓会」という雑誌の7号に載せてもらった駄文です。一番最後にのっけてくれて、「戦いがない」という批判を頂きました。そういわれれば確かにそういう気がします。小松家の文書を扱い始めたころで、与兵衛さんの「御用日記」や宗門帳をいろいろいじくっていました。ワープロの時代で「ゟ」など自分でドットを処理して作ったりしました。御用日記は出来るだけ早く文書館にきちんと載せたいと思っています。早くしろと与兵衛さんに叱られそうです。

私の履歴書⑥ 弊衣破帽
明石康
 終戦になって、進駐軍のチョコレートやチューインガム欲しさに英会話を勉強するのは、なんとなく卑屈に見えたので、そうしたグループの中に入り込む気がしなかった。そのため、後で苦労することになった。岩波英和辞典を編纂した田中菊雄氏がいる旧制の山形高校。一九四八年、英語教育に期待して入学したが、田中先生は古めかしい独特の抑揚をつけて発音した。点数のやたら辛い深町という先生は、イギリス随筆の味わいについて教えた。好き嫌いが激しい私はドイツ語教師になじめず、いまもってドイツ語ができない。
 ひもじいせいもあって、寮の部屋に万年床を敷いて、図書館から借りた本を手当たり次第に読むことにする。分厚いショーペンハウエルやモンテーニュを深刻な顔をしてよむ。左翼思想が学園を風靡していた。小松摂郎というマルクス主義哲学者の講義はむんむんとして立錐の余地もなかった。校内に共産党の細胞ができたという噂だった。今まで幅を利かせていた思想が、ガラガラ崩れた後で唯物史観は確かにわかりよかった。
 講堂ではダンスの講習会が開かれ、私は講師の大胆で優雅なステップにみとれるばかり。羽仁五郎という有名な思想家もやってきて、滑らかな口調で自由主義について熱っぽく語った。秋田から持ちかえったまっ白い米を校庭の片隅で焚火をし、飯盒で炊く。車座になって納豆をかけて食べた。旧制高校らしく弊衣破帽、草履をはいて街を歩く。安い焼酎を上級生に飲まされ、屋台の前にしゃがんで雪の上に吐いた。バンカラ学生のまねごとをしているうちにつまらなくなり、みんなと一緒に寮歌を歌うのはやめてしまった。
数人で十和田湖に旅をする。秋の湖畔は紅葉がみごとだった。泊めていただいた十和田神社で、ついでに御神酒も頂だいしてしまう。八幡平に登山した時は遭難しかけた。地図にあった道は山崩れで切断されていて、迷ったあげく寒さと空腹で休憩。深夜になってたどりついた救援隊により救出された。眠ったら凍死していたにちがいない。
いまの蔵王をしらない。リフトの一つもない時代。山を一歩一歩登って山小屋に到着した。交代で薪をくべて暖をとり、寝袋に入って眠る。ロケの時に原節子が使ったという寝袋の取りあいだった。朝、樹氷の間を新雪に跡をつけてすべった醍醐味。
学制改革になり、東京の大学を受験したものの、すべって浪人をした。秋田中学が新制高校になっていたので、司書として採用される。実に勝手な司書で、自分の読書や勉強のために図書室のドアを閉めてしまったりした。
社会科学や文学を語る仲間がいた。ひとりは憂鬱な詩を書いていた。やさしいまなざしの男だった。別のひとりは、無頼の文学者気取りで、虚無的な目をしていた。もうひとりは、少学校時代の喧嘩仲間。その後大きな商店を開いて繁盛したが、夭折した。心のやさしい人は、神に愛されて早死にする傾向でもあるのだろうか。
郷里に帰る度に、同級生たちが集まってくれる。酒を酌み交わしながら、一別以来のよもやま話に花を咲かす。民謡も歌うが、秋田音頭には替え歌がほとんど無限にある。なかにはかなりきわどい文句のものが交じっている。
一緒に歌いながら、こうした歌にはどこかとぼけた素朴さと土の臭いのするユーモアがあると思う。秋田はまぎれもなく東北地方の一部なのだが、東北的な質実剛健さよりも、地中海的な明るさと楽天性をただよわせている感じがしてならない。(前国連事務次長)
(注:ここでは小松摂郎の講義が大変学生にもてたことが書いてある。新時代の論客として大もてであったが、それだけ反感を持った人も多かったに違いない。それが1949年以降の反共時代になって噴出するのである。明石康は後に国連で働いて著名な人となる)。

書架散策 千田夏光 
戸坂潤 科学論 雷鳴のごとき観念論批判
 
敗戦三ヶ月後の某日。学徒出陣でとられた軍隊から解放されたものの家は「満洲」。帰るべきネグラはない。放浪のはて、やっと雨露をしのぐ三畳間をえたが金はない。その日の全財産は二十円だった。新宿にでた。東口の焼け跡にできた青天井のヤミ市でなにか食べ物を考えたのだった。五本十円の蒸し芋が目に入った。十円はその日の全食料費である。よし、と思ったとき、すぐ脇へ地ベタにゴザを敷き古本を山と積んだのがいた。
後から考えると戦時中に逮捕した人の家から押収した“蔵書”、それを敗戦後のゴタゴタのなか警察からカッパラって来たものらしかったが、ふとなかの一冊が目にとまった。十円だという。著者の戸坂潤がどんな人物かなど知らなかった。ただ科学の二文字にひかれたのだった。蒸し芋はあきらめた。夜、空の胃袋を抱えページをめくると心酔しきっていたカントがばさばさと論破されている。『純粋理性批判』『実践理性批判』をとおしカントのいう「物自体は知りえない」となることばを信じきっていた観念論の信徒へ、そこにある「しからば知りえないものをどうして想定しうるのか」のことばは雷鳴のごとくひびいたのであった。さらに四項目にわけ“物の考え方”をじんじんといていくくだりは、二度三度よみかえすなか、いつしか今日の思考方法になっていったのだが、それは後のことだ。
奥付けに三笠書房刊『唯物論全書』第一巻とあった。おろかな私はこのときはじめて唯物論なることばを知ったのだった。
それにしても戸坂潤とはいかなる人物か。翌年二月、ヤミ米担ぎでえた金で彼にくわしいという山形高校(現山形大)の小松摂郎教授をたずねにいった。山形は雪だった。途中で寝ているところを名人技をもった泥棒にはいている靴を盗まれた私は、はだしで雪を踏み先生をたずねた。
戸坂潤が、日本の哲学者のなかでその思想的理論活動のゆえ獄死した最初の人であること、場所は長野刑務所、敗戦直前の八月九日、四十六歳であったことを静かな言葉で教示してくださった。帰りに「これしかないので・・・」とわら草履を下さった。
先生はのちに甲南大学に移られたが『科学論』は三笠書房で復刻され、さらに『戸坂潤全集』全五巻におさめられている。ものの考え方を知りたいという若い方にすすめたいこと切なるものがある。(作家)『戸坂潤全集』第一巻所収  

注:当時私は三歳。こんなことがあったのは知るよしもないが、面白い記事なので、文書館に採用させてもらおうと思う。裸足で山形駅から雪の中あの家まで歩いて行ったのは大変である。靴は無いが草履ならと、草履を与えたというのも何とも時代を彷彿とさせる話ではある。甲南大学に移るというのは間違いだが、関西方面という認識は著者にあったようである。摂郎の日記では残念ながらこの日が何日かは確定できなかった。著者は2000年に亡くなったが、従軍慰安婦という言葉を始めて提起した人として、名を知られている。)

昭和2年小学校6年時の作文である。全部で8篇。この時和郎は諏訪湯の脇に母、姉(次女百枝)と一緒に住んでいた。父親の武平は松本二中の校長として松本に単身赴任をしていた。長男摂郎は第一高等学校生、二男醇郎は松本高校生、長女澪子は諏訪高等女学校教諭、次女百枝は東京女子大国語専攻部の学生、という状態で有った。なかなか大変な高学歴一家であった。長男と和郎の年は、7歳の差があった。若干気がついたところを書いておこう。

どつかの小僧ととうふやのけんか
これは「どつか」に傍点が付いていてこういう技を身に付けていたことが分かる。どこで学んだものか。文中は「けんか」が「けんくわ」になっている。これは漢字につける旧かなの影響だろう。

みずぐさ
このみずぐさというのが分からないのだが、みずは東北地方の万能山菜らしいが、それなのかちょっと不明である。

がらすをこはしてどきょうだめしをした事
「一生けんめいにとんでいく」という表現はこのあたりでは走る事を「飛ぶ」というので方言がそのまま出ている。玄関が「げんくわん」になっていて、振り仮名の「げんくわん」の印象が強いのだろうか。口語的には「げんかん」だろうが、文章にすると振り仮名の「げんくわん」が出てきたのだろうか。

竹馬のれんしゅう
ここには「ばんてんがはり」という言葉がみえる。ちょっと調べると群馬県吾妻郡あたりの方言であるようだが、当時諏訪にもあったのか、興味のあるところではある。

湖水で死んだ人
「おしんめえ」という言葉がある。おしまいの意味だろうが、火を燃やした残り火のことらしい。これももうよほど年の人でないと分からないだろう。「とんでゆく」が「どんでゆく」になっているようだが、濁点はむかしはかなり緩やかであった感じがあるので、こういう一種の間違いも多かったのであろう。

宿なし猫
「風を立てゝ」に傍点が振ってある。ここなど小学生にしては芸が細かい。

以上がちょっと気になった点である。意外の問題点を見出した感がある。

作文
1 がらすをこはしてどきょうだめしをした事
此の間私とおつかさまと、ねえさんとお湯へ行きました。そして、私が上ろうとして、着物をぬぐ所とお湯のある所の境にあるがらす戸を明けやうとして手を引ひたひやうしに、足がすべつたので思はず、がらす戸につかまらうとしたので、手ががらすをつきぬけて向うへ出ました。するとがらすがしやしやんなんて大きい音を立てゝ、お湯の方へも着物の方へも落ちました。私の手足はがらすが下へおちる時にさゝつて、所々小さいきずが八とこも出來ました。其の上、下はセとみたやうなものや、せめんとだので、よけい大きい音がしました。すると、おつかさまは「まあいやですよう」なんて、おつかない顔をして言ひました。おつかさまは、お前は、早く着物をおきなんて言つたので着ました。
其のお湯は諏訪ホテルのお湯なので、ホテルの女中が來ました。するとおつかさまは「まあこんなそそうな事をして申し分がございません」なんて、あやまるやうに言ひました。
女中は、おこつてはいないやうに、いひええ、そんな事はかまひませんなんて言つたが、私には何となくおこつてゐるやうに感じました。女中が行つてから、おつかさまは、ねえさんといろいろ話してゐましたが、それじやあ、かず家へ行つて、紙と、お金五十銭持つておいでなんて言ひましたが、途中には、ホテルの庭があつて、其の庭にはやなぎもあるし、池を飾る石や大きい松や、すゝきがあるし、其の上眞暗だので其のかげあたりから、何か出て來さうで、いやでいやでたまらなんだので、「いやだ」と言ふと、ほんとにしようがない子だね、なんて、おつかさまもねえさんも言つて、しきりに私にすゝめました。私はしようなし、決心して行きました。其の頃はちようど九時ぐらひでしたので私は行く途中後を見るのがいやなくらひでして、後を見ると何かついて來るやうな氣がしましたので、たゞ一生けんめいにとんで行きました。家のげんくわんまで來ると、むねのどきんどきんはおさまりましたが、又あそこを通るのだと思ふとぞつとしました。家へ來て見るとおばあさんはもうねむつてゐました。あんまりあわてたので、家を出る時げんくわんでお金を落してしまひました。私はおばあさんはねえつてゐて家には私一人だと思うと又家でもおつかなくなり出し、私は一生けんめえにたらひの下や、下駄の下を手でさぐつてお金を見つけました。やうやうみつけました。私は大いそぎ家をとび出し一生けんめえに、ありつたけの力で飛んで行きました。がそうおつかなくはありませんでした。
 お湯へ行くとおつかさまは、おゝありがとうと笑ひながら、お金を取りました。私は今度こそ、やれよこつたと思ひました。行つて來た後は、自分が大したいゝ事をしたやうな氣がしてとてもうれしく思ひました。

2 どつかの小僧ととうふやのけんか
此の間私とねえさんと、あんまりさむかつたので、お湯へ行つた。着物をぬぐ処へ行つて見ると、ホテルのおばあさんと、七つぐらひのどつかの男の子とで、しきりに外を見てゐるので、私はどうゆうずら、何かあるかと思つて見ると、すぐ前の道に、とうふ屋の小僧と、どつかの小僧とまだ雨の降るのに兩方ともかさをほうりちらかして、「あゝうるせえてめえたほうが行け。」なんに荒々しい聲で言合つてゐたが、とうふ屋のかさには、あながあいていて、「そこへ雨■つて、びしょびしょになつてゐる所は、かわいさうで見られなかつた。私の來ない■みつさかなんかやつたのか、又やるか、なて言つてゐた。どつかの小僧の手は年が十八九ぐらひで、とうふ屋は、十五六ぐらひであつた。どつかの小僧の方は年が多いだけあつてけんくわはやめろ、なんて、やめようとして、そこにあつたとうふを入れるはこみたような物をとうふ屋の小僧の前へ持つて行つた。すると、とうふ屋は、てんびんぼうでついて來た。とうふ屋の方は一つしようけんめえになつてやつてゐるが、どつかの小僧は「どうせやるなら、何にも持たなんでやれ」なんて言つてゐた。又少しの間、てめえた方が行け、なつて言合つたが何を言つてるのだかちつともわからなんだ。其の、どつかの小僧の方は、水か湯を汲みに行く所だつたので其の小僧は、ばけつをさげた、すると、とうふ屋もかついで二人はちがふ道に別れたが、別れながらもいつかみて言ろなんて互に言合つて行つた。
3 みずくさ
昨日、私と友達二人とで立石へみづぐさを取りに行つた。家を出る時は、十二時半頃でした。ことに其の日は日本晴のやうで、雨の心配はありませんでした。
すぐ家の前の、だんだんを上つて行つたが、昨日は雨が降つたので、ひかげの所はまだ道がわるくありました。
立石の一番上まで上つた時、一人の友達が、おらあ此所らでもと、とても取つたざらまだきつとあるは、なんて、さも知つてゐるやうに、私達の先へ立つてこゝらさ、こゝらさなんて、栗の木がいつぱいある所へつれて來て、首を長くして、あたりを見てゐましたが、「やあ、あそこにあるはや」なんて、下の方をゆびさしました。もう一人の友達も、「おゝそうだぞう」なんてうれしさうに。ばらやなんか、あつてもかまはずとんで行きました。私は、そうじやあゝねえと思つたが、皆の後をついて行きましたが、果してそうではありませんでした。友達は皆がつかりしたやうでした。今度は、上の林へ行けなんて言つて、皆で行きました。すると其所には、みずぐさも二三本ありましたし、小なしがあつたので、皆でうれしがつて取つてゐるとしらぬ間に、太陽は西の山へ近ずいて行きました。すると、友達の一人が、やあへえおそくなつたぞやあ早く行けなんて言つたので、見ると、いつの間にか日があたらなくなつてゐて、風が出て、そこらの黄色いなつてゐる、かやみたやうな物がざわざわとして來て急にさむくなつて來ました。皆は急に、何かに追ひかけられたやうに、それじやあ、おれもとあつた所へいくらゑなんて皆で言つて急に、せかつき出しました。しまいには私のあると言ふ所へ行くやうになりました。行つて見ると、其所は、取りからしで、ごぶといぐにやぐにやした木に、ほそいのがすうすうと二三本出來てゐるきりでした。だが下の畠に近い所には、太い木が四本あつて、それにめえめえいゝ枝があつたので、それを取りました。私は木のぼりが、へたなので、友達に取つてもらいました。
取つたり、しばつたり、折つたり、してゐる、うちに、日はもう少しでしずみさうになりました。それを見た私達はおつかなくなつつて大急ぎで、立石の坂をとんで下りましたが、荷は重い上に高下駄なので、すべりさうで、自由にはとべず、何どしりもちをついたかわかりませんでした。其の上皆はざうりでどんどんとんで來きますので、手におえなくなりました。やうやう鳥小屋まで來た時、日はとつぷり、沈みました。私達は此所まで來ると急にらつくりしたと言ふやうに、歩き出しました。

4スケートに行く約束(斜線で末梢していたが採用――館長)
昨日の朝私は湖水へスケートに行きたかつたので誰かをさそつて行こうと思つて、下駄をはかふと思つて、えんがはへ出て、門の外の方を見たら、たあちやが口ぶえを吹きながら門のそばの雪をばうでたゝくやうに、いぢつてゐた。私はたあちやを、よぼうと思つてゐたので、これはうまいと思つて、いそいでたあちやの所へ行かうと思つて、えんがわを下りつとしたら、家の中で「スケートニ行く、か」と言つたので「え、」と言ふと、それぢやあかぶつてけと言ひました。私はすぐひこうぼうをかぶつて行けと言ふのだとわかりました。私はちよつと、約束に行つて來るだけだでいゝと言をうと思つたが、もしさう大きい聲を出して言つて、たあちやに聞こへて、たあちやが、おらあスケートになんて行かねえぞう、なんて、ことはられりやあ私がちよつときまりがわるいので私はだまつて家を逃げ出しました。それだけれども、すぐスケートに行かねえかあなんて言ふて、ことはられりやあ、きまりが惡いので私はすぐ家の前の池の冰を見たり、乗つたりしながら今朝はしみたああえなんていろいろ言つてつから、おらあ湖水へスケートに行かつかあを言ふと、たあちやも行き(中断)

5 宿なしねこ(斜線で末梢してあったが採用しておく――館長)
此の間私が、何の氣なしに、門の所へ出て見ると、たあちやが、兩方の手にちようど投げかげんの小さい石を持つて、すぐ上の山の方を何かわけがあるやうに見て居た。私を見ると、にこにこ笑ひながら「今其所へなあ、あの尾の太え宿なしねこがなあ行つたぞだで、今すぐ行つて見ろ」なんて、山の方を指さして言ひました。
私は「あの、やたらに人の家のひよこやなんか取るねこずら」と言ふと、「おゝそう」なんて言つて、段々を上り出しました。私が先になつて行つた所が途中の段々の■ぶにゐて、下へ下りて來る所でした私はねこを見ると何だかおつかなくなつたが此の時だとばかりにたゝきつけたら下へ下りつと思つたか私達の方へすごい位の早さで私とたあちやまで私は石を投げなんでゐると、私とたあちやの間へ來たので、私達は此の時だとばかりに持つてゐた石をたゝきつつけたら、一足二足下へ行つたがたあちがゐたので又上つて來て、私のまたの間が五寸ばかりあいてゐたら、其の間を、ぴゆうつと通りぬけてにげてしまひました。私は、足あたりへかみついたと思つてびつくりして、石の上へどつかりしりもちをついてしまいました。兩足をぐいと小しおしてひろげて通つて行つたのでよけえびつくりしました。そして其のねこはたあちやの家の物置き小屋のうらの所へがけをころげるやうに、飛んで行きました。私達は其の後を追つて石を投げたが一つもあたりませんでした。
 宿なしねこ
此間私が何の氣なしに門の所へ出て見ると、たあちやが兩方の手にちようど投げかげんの小さい石を持つて何かわけが有さうに、山の上を一生けんめえに見てゐました。私を見ると、にこにこ笑ひながら「今なあ之山の上の方へ尾の太くてみじけえ宿なしねこが行つたぞ、だで行つて見ろ」と言つたので、私はすぐ「あのやたらに人の家の雞を取るねこずら」と言ふと、「おゝ」なんて、たあちやは一生けんめえになつて言つてゐた。其所で私も石を三つばかり拾つて段々を上りはじめました。所がねこは左がわのやぶみたやうな所から出て來て、下へ下りて來る所でした。私は先に立つて行つたけれどもいざとなつたら、何だかおつかないやうな氣がして石を投げなんでゐると、たあちやが一つ投げました。するとねこはどうしても下へ下りつと思つたかえらい勢で私達の方へ來ましたそして、私とたあちやの間へ來ましたそうするとたあちやはむきになつて石をたゝきつつけたので、いかなごうぢよなねこでも、今度は上へ上つて來て、まうやうに、私がぽかんとして其様子を見てゐたまたの間を風を立てゝ通つて行きました。私はたゞでさへおつかながつてゐる所を、またの間なんか通つたので、私は食つついたと思つて、ひやつとしたと思つたらどつかりしりもちをついて、段々へこしかけてしまひました。ふつう、そんなに強く石の上にこしやなんかかければ、しりがいたくていたくてたまらないのに其の時はびつくりしたせいかちつともいたくはありませんでした。たあちやはすぐ石を持つて逃げて行く所を投げましたが私は、しりもちやなんついてしまつたので、其所では一つも石を投げませんでした。たあちやは又すぐ後をおつかけて行きましたがねこがすぐそばにゐて、石をなげてる時はだれも、何にも言ひませんでした。私もたあちやの後をおつかけて行きました。ねこは、たあちやの家の物置小屋の裏の方へ行く、がけを飛下りて行きました。其の後を私もたあちやも石を投げたが一つもあたりませんでした。

6竹馬のれんしゅう
昨日の夕方五時頃、私が表へ出てゐるとすぐ向ひの家のやすまさ、と言ふ今一年のやつが竹馬に乗つて一間ぐらひ行つては落ち又一間ぐらひ行つてはおちしてゐたので私が、それを見てゐると、私にも乗れさうのやうな氣がして來たので、一つかりてやつてみようと思つて、これかせつと言ふと兄とはちがつてとてもきまりよくかせた、私はこんなものなんだと思つて、やすまさ、の家の、げんくわんの所にうつついて立つた。けれども思ひの外、立つた時はおつかなくて足が出なんだ。竹馬に乗つてゐる時も下駄をはいてゐる時のやうな氣がして一生けんめえに足を持ち上げてゐた。
 私はそれに氣がついたので、いそいで手でぼうを持上げるやうにしつと思つたけれども、もう體のちようしが取れなくなつて、ころびさうになつたので、ぼうを持つたまゝ下りてしました。その時は五寸ぐらひ進んだ。やすまさと、ばんてんがはりにやつて、いよいよ乗れさうになつて面白くなつて來たと思つたら、家で呼んだので、いやいやながら家へ行つた。又大いそぎで家を出て來て見ると、やすまさは一人で庭に何かしてゐた。私はこれはうまいと思つて又かりつと思つてゐると、たあちやが來て竹馬のある所を私より先に見つけて、竹馬を持ち出しました。そして、おれが見つけたでおれつからさなんて言つて先に乗りました。たあちやも生れてはじめてでした。たあちやは私と同じやうにすぐ下りてしまひましたが、ぼうをはなすので、兩方へびしやんとたをしたので横にあつたせんめんきをもう少しで、すぐそばのどぶへ下さつとしました。それで私のばんが來たので、私は思ひ切つて乗り出しましたが一間ぐらひ行つたら、前へころびさうになつたので下りましたが、たあちやのやうにはしませんでした。やすまさは四寸ぐらづつ歩いて行きましたが三間ぐらひ行きました。こうして二三度くりかへすと私はどんどん歩いて、六七間はなれてゐる電信柱まで行き歸りしました。やすまさは、其の前の日よりならつてゐるので、私と同じ位でした。たあちやは同じく、横へぼうをぴしやんところばしてゐました。五六度くりかへすと私はやすまさよりうまくなりました。すると、やすまさの家では、お湯へ行くので、やすまさも行きました。すると間もなく、たあちやの家でもごはんだと言ふので私は一人きりになつたが、一回だけやつて、家へ行こうと思つて、電信の所より乗りはじめた所へ歸つたら、やすまさのけちのにいさんが新聞をくばつて歸つて來ました。私は其の竹馬を返して家へ歸りました。
7 湖水で死んだ人
私は此の間おしんめえを取つてすみを家から持つて來て、其のおしんめえの火ですみをおこし、めえめえだれとだれとと言ふやうに二人か三人ぐらひづつ、一つしよになつて湖水へスケートに行きたいのをこらへてもちをやいてゐると、かくゆうかんの所に人が一つぱいあつまつてゐて、又方々から人がかくゆうかんへ、どんで行くので、私達はきつとだれかおちたか、それともとてもうまい人にすけえとの下駄でけられたかなんて言つてゐました。少し立つて、もちを食べるのもおえて皆家へ歸つてリングスケートに行けなんて言って私が家に帰って見ると、家のねえさんがこたつにあたつてゐて、今湖水へ人が落つて死んだぜ、それで其の人がせつちやんの中學の時のお友達と言つてせつちやんは今家へ歸つて來たけれど、又行つたぜ、だでへえ湖水へは行くなようなんて言ひました。私も其の時はもう湖水へは行くまいと思ひました。そこで、外へ出て見るとたあちやがスケートの下駄をかついで持つてゐました。私はすぐ其の事を言ふと死んだとなんてあきれたやうな顔をしてゐました。少し持つてゐると皆が來たので、其の話をすると。皆死んだと死んだとばか言つてゐて、あんまりびつくりはしませんでした。リングから歸つて見ると、せつちやんがゐて、今小さい方のにいさんに話してゐる時でした。
おれがきしの方をむいて、だれとかゞ沖の方を向いてゐたら落つた落つたと行つたので、すぐ行つて見たらばさばさやつてゐたのて(忘れたのでよす)

8火事のなり始め
一昨日私はいつものやうに一番早く晝のごはんがすんだので、お湯を取りに行こうと思つて、やかんのある所へ行くと、何だかけむいやうな、こげくさいやうな臭がするので、座敷の方を見ると、こたつの人の出た後のやうな所から青いやうな白いやうな煙がもくもくと出てゐて、天井まで一つぱいになつてゐた。私は思はずあつ煙と、ちようどからまつてゐたたんの引つかゝつたやうな聲で叫んだ。私はそれを見ると、もとねえさんが二階に一人で寝てゐて、やぐらを眞黒にして、かけぶとんまで穴を明けた事を思ひ出した。其の時に、おつかさまは、ばけつさら水を持つて行つたので私は此時だと思つてやかんを持かけたのを、そこに置いて、ばけつを持つて飛んで行つた。其の時にねえさんがそうだそうだと言つてゐるやうだつたが、私はむちゆうだつたのでよく聞へなんだ。おつかさまや、おばあさんも、のこのこ飛んで行つた。私がばけつを持つて其の部屋のしきいの所まで行るとおばあさんはこたつを明けてゐた。私は知らぬまに、ばけつをぶらさげたまゝ立つてこたつの中を見てゐた。見ると、こたつの火の中に手ぬぐひが落ちてゐて、其こから、しけた藁をもやしたやうに煙ばか出てゐた。皆手ぬぐひでよかつたとさも安心したやうに言つてゐた。其手ぬぐひはおばあさんが口をふいたり鼻をかんだりする眞黒になつてゐる手ぬぐいなのでしじゆうしめつてゐるのでした。それだのでおばあさんは、こたつに掛けるのでそれが落ちてもえたのでした。

永い間御無沙汰しました。八月二十四日、舞鶴海軍施設部より通知
あり、八月十五日付けにて左記のとおり発令なりました。
             記
     舞鶴海軍施設部建築業務を嘱託す
     但し報酬年額千百參拾圓を給し部内限高等官とす
              (八月十五日海軍省)
以上の如しです
漸く小生も七等の高等官となった次第です。職名は嘱託とい
ふ訳です。之は二三ヶ月の間でそれが過ぎると武官になるか文官に
なるか決定し、武官なれば大尉、文官なれば技師です。
實は二十五、六、七と信州に歸る予定でおりました。二十四日の
晩に、西宮に行って居たのです。二十四日の夕方、舞鶴施設部より
通知あり下宿より直ちに西宮に電報を打ってくれたのです。
本二十五日西宮より急いで舞鶴に歸りました。
明二十六日始めて施設部に出勤してみる積りです。
愈々純軍部の御役人となったわけ、少々身の緊る思ひです。
俸給は安いですが戰時手当其の他がつきます故相当にはなると思ひます。
南にやられる可能性はありますが致し方ありません。
今度は働き甲斐があります故死力を盡して働いてみます。
次に小生の縁談のこと
此の地方の風習に依ると談が決った時に貰ふ方より
「ふところ扇子」なるものを、おくるのだそうです。
それは知りませんでしたが、先日其事を知り、或る店より買ひ
求め酒料、及びさかな料と共に仲人の人に持って行って貰ひました。
以前の御手紙でこちらに来て戴けると思ひ嬉んで居りました處、
本日の御手紙では不明とか、是非来て戴き度いと思ひます。養子に
行くのでは無いのですから、一度位は遠いですけれども舞鶴位迠来て下さい。
貰っても良いと許して下さった以上、もう少し小生の親兄弟が熱を持って
戴き度く思ふのです。それでないと小生が可愛相では無いでせうか。
八月末か九月始めにおかんがこちらへ来て呉れるといふので、娘は
支度に広島へ歸るといふのを、舞鶴に無理に止めて置いたのです。
以上の事をお願ひ旁々東京の友人に相談旁々東京廻り
信州へ歸らうと思って居りました處、最早発令になり
行けなくなりました。是非而も可及的早く来て下さい。
醇つあ達は二日に歸るとか、醇つあ達と一緒に来て下さらば
幸甚であります。お願ひします。
鎌太郎大尉殿の戰死惜しみても余りある次第です。
攝つあの結婚式の時、一度お会ひしただけでしたが、
聡明にして、男性的なる御性格、蔭ながら畏敬して
居た次第でした。
御悔みの手紙も差出さず、甚だ申譯なく思って居ります。
小生自身、鎌太郎氏と同様な運命になるやも知れず、心細い
気が致します。
次に信州の家の事、勞働者が入るとか、入らないとか、の問題は
如何なりましたか。若し誰か常住しなければいけない
のでしたら、そして又住む人が無ければ營団の人で
(塚本で小生と仲の惡かった主任)是非借り度いといふ
人があります。多分東京の人で田舎へ疎開する人
で借り手があるでせうが、その加減で貸せる様ならば
貸してやって下さい。
取り急ぎ取止めもない無いことを記しました。亂筆
御判讀願へれば幸甚であります。

(別紙一枚)時局愈々重大化して來ました。空襲警報鳴る度に多分に重圧を感じます。
大阪と同様に舞鶴も集中爆撃を喰らう恐れあり、安心なりません。
八月二十五日夜            和郎
母上様
延世様

封筒宛先  長野県諏訪郡米澤村埴原田790   小松いさの様
本人住所 舞鶴市西舞鶴驛前定由勇方   小松和郎

両国高校の学友会雑誌の38号(大正10年10月31日)に廣瀬校長の旅行報告があるのを発見し,両国高校同窓会、淡交会に行き雑誌を拝見しコピーをもらってきた。いわば正式の報告は初め
てみたものである。かなり細かく旅程を記していて参考になった。大体こういう旅程であったようだ。
10月3日朝東京発。
10月4日朝下関着。すぐ連絡船で門司へ。附近見物。下関へ帰り、亀山八幡、安徳陵、平家の墓、赤間宮、
御裳川参観。夜9時半連絡船下関発。
10月5日朝9時釜山着。市中見学。東莱温泉泊。
10月6日釜山へ帰る。11時20分発。22時50分京城着。
10月7日京城商品陳列館、中央工業試験所、工業専門学校、經学院大成殿見学。
10月8日京城見学。昌慶園動植物園、景福宮。
10月9日仁川港見学。23時京城発。安東経由奉天へ。
10月10日7時30分奉天着。会議、講演、夜晩餐会。

1枚目
2枚目