私の履歴書⑥ 弊衣破帽
明石康
 終戦になって、進駐軍のチョコレートやチューインガム欲しさに英会話を勉強するのは、なんとなく卑屈に見えたので、そうしたグループの中に入り込む気がしなかった。そのため、後で苦労することになった。岩波英和辞典を編纂した田中菊雄氏がいる旧制の山形高校。一九四八年、英語教育に期待して入学したが、田中先生は古めかしい独特の抑揚をつけて発音した。点数のやたら辛い深町という先生は、イギリス随筆の味わいについて教えた。好き嫌いが激しい私はドイツ語教師になじめず、いまもってドイツ語ができない。
 ひもじいせいもあって、寮の部屋に万年床を敷いて、図書館から借りた本を手当たり次第に読むことにする。分厚いショーペンハウエルやモンテーニュを深刻な顔をしてよむ。左翼思想が学園を風靡していた。小松摂郎というマルクス主義哲学者の講義はむんむんとして立錐の余地もなかった。校内に共産党の細胞ができたという噂だった。今まで幅を利かせていた思想が、ガラガラ崩れた後で唯物史観は確かにわかりよかった。
 講堂ではダンスの講習会が開かれ、私は講師の大胆で優雅なステップにみとれるばかり。羽仁五郎という有名な思想家もやってきて、滑らかな口調で自由主義について熱っぽく語った。秋田から持ちかえったまっ白い米を校庭の片隅で焚火をし、飯盒で炊く。車座になって納豆をかけて食べた。旧制高校らしく弊衣破帽、草履をはいて街を歩く。安い焼酎を上級生に飲まされ、屋台の前にしゃがんで雪の上に吐いた。バンカラ学生のまねごとをしているうちにつまらなくなり、みんなと一緒に寮歌を歌うのはやめてしまった。
数人で十和田湖に旅をする。秋の湖畔は紅葉がみごとだった。泊めていただいた十和田神社で、ついでに御神酒も頂だいしてしまう。八幡平に登山した時は遭難しかけた。地図にあった道は山崩れで切断されていて、迷ったあげく寒さと空腹で休憩。深夜になってたどりついた救援隊により救出された。眠ったら凍死していたにちがいない。
いまの蔵王をしらない。リフトの一つもない時代。山を一歩一歩登って山小屋に到着した。交代で薪をくべて暖をとり、寝袋に入って眠る。ロケの時に原節子が使ったという寝袋の取りあいだった。朝、樹氷の間を新雪に跡をつけてすべった醍醐味。
学制改革になり、東京の大学を受験したものの、すべって浪人をした。秋田中学が新制高校になっていたので、司書として採用される。実に勝手な司書で、自分の読書や勉強のために図書室のドアを閉めてしまったりした。
社会科学や文学を語る仲間がいた。ひとりは憂鬱な詩を書いていた。やさしいまなざしの男だった。別のひとりは、無頼の文学者気取りで、虚無的な目をしていた。もうひとりは、少学校時代の喧嘩仲間。その後大きな商店を開いて繁盛したが、夭折した。心のやさしい人は、神に愛されて早死にする傾向でもあるのだろうか。
郷里に帰る度に、同級生たちが集まってくれる。酒を酌み交わしながら、一別以来のよもやま話に花を咲かす。民謡も歌うが、秋田音頭には替え歌がほとんど無限にある。なかにはかなりきわどい文句のものが交じっている。
一緒に歌いながら、こうした歌にはどこかとぼけた素朴さと土の臭いのするユーモアがあると思う。秋田はまぎれもなく東北地方の一部なのだが、東北的な質実剛健さよりも、地中海的な明るさと楽天性をただよわせている感じがしてならない。(前国連事務次長)
(注:ここでは小松摂郎の講義が大変学生にもてたことが書いてある。新時代の論客として大もてであったが、それだけ反感を持った人も多かったに違いない。それが1949年以降の反共時代になって噴出するのである。明石康は後に国連で働いて著名な人となる)。

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