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左の写真が祖父母の石塔のところから撮った全体の写真になります。写真の左手、前列の三基は左の二基が明治十年に分家した新家(しんや)のもの、一番右のが私の父母の墓です。三基の大きい墓の後ろに並んでいるのが一番古いもので左から三番目が初代の墓で相当古いので戒名もはっきり読めない状態です。

右の図は全体の墓石を図にして種類で分類したものです。①から⑨までの番号がついているのが、初代から9代までの石塔です。初代から4代までは小ぶりの石塔で、5代からかなり大きいものになります。5代というのは譽平さんとその妻と若くしてなくなった息子の政吉さんの3人の墓です。妻が亡くなったのが明治10年ですから、そのころ建てられたものでしょう。明治になってお墓のスケールも前代とは違ってきたのでしょうか。笠のある墓石はこの5代だけです。2代から5代までがまとまったところにあります。丸にダッシュがついているのは、その代の子供の石塔です。こういうのが4基あります。初代の子供は雪窓道白信士 享保二年(1722)、 2代のは實相體全信士 宝暦五年(1755)、3 代は二人あって、岱含雪應信士 明和八年(1771)と■岸妙樹信女 天明天明三年(1783)となっています。なにやらいわくありげな命名になっているようです。〇は子供のお墓です。何々童女、何々童子という名前がついています。このお墓は光背を背負った仏像がついているスタイルが定型であったようですが時代によって違いが出てきます。これは詳しく別途見たいと思います。

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