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小さいうちに亡くなった子供たちの墓が七つあり、列挙します。戒名の木札には「安政三丙辰天(1856) 智善童女」というのがあるのですが、これはどうも石塔が見つからない。

享保十丁己(1725)(乙巳の間違?)天  幽光童子位 七月二十五日

宝暦五乙亥(1755) 寂音童子 正月九日

宝暦七丁丑天(1757) 遊暫童子  五月初八日

十八日 天保七丙申年(1836) 玉性童子 五月

明治二十九年(1893)游夢童女位 四月廿六日

昭和十七年(1942)釋證晋童子

18世紀の三つとそれ以降のはスタイルが違っているようです。幽光童子と寂音童子は仏像があって光背をもっています。遊暫童子は仏像だけで像の横に遊暫童子という名前が彫られています。19世紀のなると仏像がなくなって玉性童子と釋證晋童子は四角の石柱に名前と日付が彫られていて、游夢童女位は光背のような石に名前と日付があります。なお、この游夢童女は明治10年に分家した造之助の子供です。いずれも何歳で亡くなったかはわかりませんが、釋證晋童子は私の叔父小松醇郎の長男で、生れて間もなく亡くなったようです。死亡は昭和17年3月18日です。彼が生きていれば私と同じ年のいとこが一人いたことになります。

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これは一番古いもの。幽光童子。享保十(1725)丁己天 七月二十五日。

P1020574二番目。寂音童子。寶暦五(1755)乙亥正月九日。

P1020572三番目。游暫童子。寶暦七(1757)五月初八日。

P1020575四番目。玉性童子。天保七(1836)丙申天五月十八日。

P1020519五番目。游夢童女。明治廿九(1896)四月廿六日

日。

P1020579六番目。釋證晋童子。昭和十七(1942)。

いずれも小さい墓石です。小さいお墓の前に親や兄弟がしゃがんでお参りをしただろう様子が思われます。そういう人たちも時間とともにいなくなり、石塔だけが来る人を待ち続けた時間が過ぎてきました。

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