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これが小松家の墓地の全容です。すぐ横に紫雲寺という浄土宗のお寺がありそこが菩提寺ということになります。画面左上に一基墓石があります。これは祖父母のお墓ですが、一段高いところにあり、異彩を放っています。なんでも祖母の要請であったと言われていますが、詳しいことは不明です。右下に墓石が18個あります。一番古いのは300年以上経っていて、表面の字がもうはっきり読み取れません。ここの詳細は別途説明をいたすことにします。

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左の写真が祖父母の石塔のところから撮った全体の写真になります。写真の左手、前列の三基は左の二基が明治十年に分家した新家(しんや)のもの、一番右のが私の父母の墓です。三基の大きい墓の後ろに並んでいるのが一番古いもので左から三番目が初代の墓で相当古いので戒名もはっきり読めない状態です。

右の図は全体の墓石を図にして種類で分類したものです。①から⑨までの番号がついているのが、初代から9代までの石塔です。初代から4代までは小ぶりの石塔で、5代からかなり大きいものになります。5代というのは譽平さんとその妻と若くしてなくなった息子の政吉さんの3人の墓です。妻が亡くなったのが明治10年ですから、そのころ建てられたものでしょう。明治になってお墓のスケールも前代とは違ってきたのでしょうか。笠のある墓石はこの5代だけです。2代から5代までがまとまったところにあります。丸にダッシュがついているのは、その代の子供の石塔です。こういうのが4基あります。初代の子供は雪窓道白信士 享保二年(1722)、 2代のは實相體全信士 宝暦五年(1755)、3 代は二人あって、岱含雪應信士 明和八年(1771)と■岸妙樹信女 天明天明三年(1783)となっています。なにやらいわくありげな命名になっているようです。〇は子供のお墓です。何々童女、何々童子という名前がついています。このお墓は光背を背負った仏像がついているスタイルが定型であったようですが時代によって違いが出てきます。これは詳しく別途見たいと思います。

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小さいうちに亡くなった子供たちの墓が七つあり、列挙します。戒名の木札には「安政三丙辰天(1856) 智善童女」というのがあるのですが、これはどうも石塔が見つからない。

享保十丁己(1725)(乙巳の間違?)天  幽光童子位 七月二十五日

宝暦五乙亥(1755) 寂音童子 正月九日

宝暦七丁丑天(1757) 遊暫童子  五月初八日

十八日 天保七丙申年(1836) 玉性童子 五月

明治二十九年(1893)游夢童女位 四月廿六日

昭和十七年(1942)釋證晋童子

18世紀の三つとそれ以降のはスタイルが違っているようです。幽光童子と寂音童子は仏像があって光背をもっています。遊暫童子は仏像だけで像の横に遊暫童子という名前が彫られています。19世紀のなると仏像がなくなって玉性童子と釋證晋童子は四角の石柱に名前と日付が彫られていて、游夢童女位は光背のような石に名前と日付があります。なお、この游夢童女は明治10年に分家した造之助の子供です。いずれも何歳で亡くなったかはわかりませんが、釋證晋童子は私の叔父小松醇郎の長男で、生れて間もなく亡くなったようです。死亡は昭和17年3月18日です。彼が生きていれば私と同じ年のいとこが一人いたことになります。

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これは一番古いもの。幽光童子。享保十(1725)丁己天 七月二十五日。

P1020574二番目。寂音童子。寶暦五(1755)乙亥正月九日。

P1020572三番目。游暫童子。寶暦七(1757)五月初八日。

P1020575四番目。玉性童子。天保七(1836)丙申天五月十八日。

P1020519五番目。游夢童女。明治廿九(1896)四月廿六日

日。

P1020579六番目。釋證晋童子。昭和十七(1942)。

いずれも小さい墓石です。小さいお墓の前に親や兄弟がしゃがんでお参りをしただろう様子が思われます。そういう人たちも時間とともにいなくなり、石塔だけが来る人を待ち続けた時間が過ぎてきました。

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初代の石塔で以降その前に分家の墓ができたりしてすっかり後列で小さくなっている。右から読んでいくと、正徳元卯天四月八日 清譽浄本信士 覚譽智本信女 正徳二辰天六月廿九日となり、下に各灵(霊の字、中国の簡体字はこれを使っている。)とある。これは二人以前の各灵ということであろうか。正徳元年は西暦1711年で、310年ほど昔である。干支は十二支のみである。この辺の習慣はどういうことか、少し勉強しないといけない。

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これが祖父母の墓石で一段高いところにあります。戒名は祖父が禮禳院義譽恭山良心居士、祖母が純徳院仁譽良室功貞大姉です。昭和12年8月12日、摂郎、醇郎、和郎連名で建てられています。

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これが墓地の全容です。茅野の家の裏の山のふもとにあります。数年前、一本大木が倒れてからこれは大変とほかの大きな木を伐採してしまい、様子がすっかり変わってしまいました。深山幽谷の墓地の感がなくなってかんかんと日が当たるようになり、石塔の表面が変色したり、草が生えるようになりました。しかし、数年経つとまた木が生えてきて今はまたそれなりに日影ができて、以前よりは多少落ち着きがでてきました。伐採以前はこのアングルではなく、右の石塔の列の奥からこちらをみるアングルが大変すばらしく、ここなら私も収めてもらうかと思ったのですが、この状態では如何なものかと考慮中という状態です。閑話休題。菩提寺は紫雲寺といって浄土宗のお寺です。かなり歴史のあるお寺です。この墓地はお寺のすぐ横の山裾に昔からここに墓地がある何軒かの家の墓とならんであります。左の高いところで異彩を放っているのは祖父祖母の石塔です。昭和12年8月には祖父17回忌、祖母7回忌、父7回忌の法要が行われて、法要供物受帳が残っています。祖父母の石塔と曾祖父母の石塔が同じ8月12日の日付で建てられています。この法要を機会に祖父母、曾祖父母の石塔を一緒作ったと思われます。祖父母の石塔は3人の息子の連名で、曾祖父母の石塔は長男の摂郎の名義で建てられています。昭和12年ですから祖母はまだ存命です。祖父の死去については祖母の深い思い入れがあって、このように一段高いところに建てられたように思います。確かではないのですが、祖母が多分長男の摂郎に言ったのだろうと思いますが、ほかの石塔とは別に高いところに作れと言ったという話を聞きました。祖父は東京高師を卒業し、各地の中学などの校長を務め、最後は今の県ヶ丘高校の初代校長を務めました。右下にあるのが初代から九代目(つまり私の父母)までの当主の墓石やその子供たち、幼児のうちに亡くなった子供たちの墓石があります。幅6メートル奥行3メートルぐらいの土地に18柱の石塔が並んでいます。曾祖父母の石塔は画面右下一番手前の大きな石塔です。

ここで歴代当主の戒名と亡くなった年月日を挙げておきます。資料としたのは、大正四年に作られた祖父武平の手になると思われる「我家の歴史」なる冊子が主です。これは前書きで家に伝わる戒名札と小松長兵衛所持の資料と現存する石塔を調べたと書いてあり、非常に貴重なものです。しっかりとした楷書で書かれていて、書いた人の性格が分かります。七代の小松米治までが書かれていますが、大正4年は米治はまだ存命ですから、米治死後誰かがあとから書き足した形跡があります。そのあとは私が今回追加いたしました。

小松家歴代当主

初代 茂右衛門 清譽浄本信士 正徳元年(1711)亡

        覺譽智本信女 正徳二年(1712)亡 妻

二代 俗名不明 昌譽宗(般の下に糸)信士 寛保三年(1743)亡

        本室妙還信女 正徳六年(1716)亡(前妻ならんか)

        正譽栄覺信女 宝暦十年(1760)亡 妻

三代 松譽漢月信士 茂右衛門 寛政四年(1792)亡

   松譽繰光信女 享和二年(1802)亡 妻

四代 盡譽松嚴信士 吉之丞 文政九年(1826)亡 七十歳(碑)

   嚴譽貞松信女 天保十四年(1843)亡 妻 七十四歳(碑)

五代 徹譽英松浄安信士 與兵衛 安政二年(1855)亡 (碑)

   映譽智松妙安大姉 明治十二年(1879)亡 妻 六十七才(碑)

六代 儻譽虧負清生居士 明治八年(1875)亡 吉蔵 四十五才

   清譽糸玉名称大姉 明治四年(1871)亡 妻 四十一才

   (次男造之助分家)

七代 念譽西岸智海大徳 米治 大正九年(1920)亡 六十九才

   寶樹軒攝譽妙願智順大尼 とく 昭和六年(1931)八十六才

八代 禮禳義譽恭山良心居士 武平 昭和5年(1930)55才

   純徳院仁譽良室功貞大姉 いさの 昭和25年(1950)72才

九代 學眞院攝譽諦忍哲心居士 摂郎 昭和50年(1975)67才

恭眞庵延譽亮浄彗大姉 延世 平成13年(2001)83才

「美や己日記」の中の読書

祖母いさのが23歳の時の読んだ本を孫78歳が100年以上経って読んでみるというのは中々珍しい体験であろうか。時代の違い、年の違い、ずいぶん読書環境は違うがでも同じものではある。色々な本を読んでいるが、貸本屋から借りた当時の流行小説が何冊かある。「濱子」「金色夜叉」「魔風恋風」「火の柱」「乳姉妹」などであるが、少し詳しくこの読書をフォローしてみよう。
まず「濱子」は著者、草村北星(明治12年生れ)明治35年金港堂刊、著者初の長編小説。読後感が十一月十四日にあって以下のようである。

げにげにあはれなる濱子の上、彼れの恋人の上、亦ハ忠実のウバが上、げにげに如何に同情の涙にむせばれしか、あゝ不幸なる濱子よ、情のあつき松波よ、あゝ世ハ皆かくあるものか松波ハげに我理想なるよ。気の毒なるハ小町田子爵なり。悪むべきはまゝ母と小菅静馬なる哉。世にかくれて出でざる濱子の生みの母の心中や如何に。濱子の夫輝雄の夫として無責任に見識なく、かゝる人に一生を托したる濱子ハげにもげにも不幸なる哉。少年美術家銀林は同情のよせらるべき人なり。小山田ハやゝ頼母しき面白き人なり。松波が大学卒業後の一夜ノ物語、××由比ヶ浜辺に二人昔の夢に泣きし。あゝ其時の如何なりしぞ。慈愛厚き母とうばと×としたべる松波とに看護せられて世を辞さん濱子、何のうらみぞあらんや。にごりいつわり多き此世を如何に永かりしならんか、只うらむ生の母の枕辺のあるを得ざりしを。

いさのは「松波はげに我理想なるよ」という。松波は医学博士で濱子との結婚もありうる人であるが、それは事情があってかなわなかった人物である。小説の中では信頼できる重要な人物になっている。美人薄命の典型のような濱子を中心に据えて悪人小菅静馬に悪を十分に発揮させて話は展開するが、小菅静馬も小悪人で、濱子が死ぬという予想外の結末に驚き姿を隠すということになっている。小菅静馬の悪ぶりがかなり重要であろうが、結局小悪人ということがこの小説の「家庭小説」たる由縁であろうか。
次は尾崎紅葉「金色夜叉」。『読売新聞』明治30年1月~35年5月。断続的に連載されたが、未完ということであった。 

貸本屋に返し金色夜叉の前編を借り来る。衣も変えざる内に早や読み度きに絶えず。されどまづ雨にぬれし衣変え、又下へ昨日の洋傘修繕費足袋洗代等拂ひぬ。又油を買ひもらひ後それを記入していよいよ読み始めぬ。十一時五十分頃読み終わりぬ。富に眼くらみし宮の心事悪むべき哉。貫一が身の上げに同情の涙に絶えず。宮の両親もあまり見識無かりしよ、富山が如きハげに己れハオートをもよふさん許り。かヽる人間こそげに家庭も何も眼中にハ無く、やがてハ宮の身の上もあやしき哉。宮と貫一と最後の一夜、あゝげに悲惨と云ハんか、只涙にて読みぬ。其時の宮を説く貫一の言、宮の心の少しも動かざるハ、あゝ如何に富にくらみしとてあまり情なし、貫一こそ我理想の夫なるよ。宮の心ぞげにあやしき限りなれ。天地に得難き此夫、最上の×を生むべき此情あつき夫と慈愛深き×とをすてて××をもすてて何××富山等に行かんとハはするぞ。(11月15日)
午後も少し休み居り後、髪結ひ身じまひ等して金色夜叉を読み終る。あゝそれに付いてハ感極まりて一言の評も感も筆にする能ハず(11月22日)

これを見ると金色夜叉には相当感激したようである。前から評判は聞いていて読みたくてしょうがなかったらしい。「貫一こそ我理想の夫なるよ。」という言葉が面白い。
次は「魔風恋風」。

魔風恋風の後編を持ち来る。手紙書き終りて読む。夕飯後までかゝりて読み終る。気の毒にて浮ふ時なかりしハ初野なり。あれほどの学力と品性と強固なる意志と友情とありてあの如き最後に及びたる天の善行に幸し悪に禍する等云ふ語も当てにならず、つまり人ハ運命の手に弄るゝものか、あゝ浄々×日一点の功心もなく悪と云ふ事を露ほども知らぬすゑ可心の清き清き情は渇み××てる、実に乙女として理想とならん。されど悲しい哉世ハにごれる世ハかゝる清き心を久しう保たしめず、あゝ思へバ中々に世ハ複雑なるものよ、處世ハ困難なるものよ。あゝ清きハ芳江の心なる哉。波子は小供とてしかたなし為めに初野は何程困らしめられしか、島井の下宿屋の女将、かかる商賣等せるものハかゝるものかおそるべし。東吾の芳江への離縁を申込且退学を決心せしあたり、初野との関係を生父母にまのあたり有のままに語るあたり誠に心地よし。されど一度初野にちかひし後養家の父母と生父母とになぢられてすゑとの結婚を承諾せし處ハ面白からず。たとへ一時のがれかは知らねど、一時ののがれにてハ尚々男らしくなし。初野死後東吾ハ芳江と婚して夏本の養子とての後半世ハ如何なるものにや。如何に芳江の清き清き情なりとも、五月雨そぼふる孤燈のかげに初野のやさしの面影しのばぬ事もあらめやも。前に返りて初野の家に殿井が来りて、いやさに初野の逃げ出し居りし處へ東吾来り、はしなくも表にて逢ひ×下×の影に二人語れる時、東吾の初野の一身上を引うくるべくちかひし時及初野の東吾の家を尋ねて途中にて逢ひ、二人つれ立ちてそぞろあるきに始めて確くちかひし此一章の対話、げにげに人世の最も美しきものにはあらぬやと思ハれぬ。(12月1日)

けっこう長い感想文である。著者、小杉天外。『読売新聞』明治36年2月~9月連載。その後春陽堂から単行本刊行。大変な人気を博し、新聞の再販という異例の事件もあったとのことである。超美人で学業も超優秀な帝国女子学院の女学生、萩原初野が主人公で、思わぬ交通事故の入院費の問題から話が始まる。美人だけに援助の申し出は複数あるが、彼女の潔癖さはそれを素直に受け入れることをさせない。彼女は家庭的には妾腹の子で世間からの蔑視に気を使う生活を余儀なくされてきた。それだけに学校を優秀な成績で卒業し、勝ち組にのし上がらねばならないという気持ちは非常に強かった。それが金の問題から人生の目標が次々と挫折し、生活上の苦労から脚気を病み心臓発作で死ぬという悲劇物語である。芳江という親友は貴族の出で、この二人の身分の差による生活苦の差は大きく、さまざまな困難が初野の前に立ちはだかって初野を悲劇に追い込んでゆく。このあたりが当時の庶民にとって切実な問題であったのであろうか。いさのにとってはこの問題はどうだったのだろうか。田舎の比較的裕福な家庭の娘としては、この都会における身分の差の問題はあまり実感はなかったかもしれない。芳江の初野に対する愛の美しさに大いに感激したというところであろうか。
次は「火の柱」。

帰りて火の柱をよむ。中々に面白し。ヤソ信者ならば一層おもしろからんと思ハる。(11月28日)
それより前の読みつヾけの火の柱を読み終る。名小説を読みし後とてあまり面白くとも何とも思さしりが、只世の中と云ふものゝ如何に複雑にして又仇の多きもの、一寸も油断のならぬもの、一の好(よき)事あれば必ず四面より敵来るもの等、只おそろしきものとの感を強くしぬ。己れも僅かにして社会に出つべき身の今迠あまり小供にて親の元に我儘許り云て居りしものの如何にして渡り得べきかけにけに思へば重き荷を負る心地して、併し併し只誠の一字を以て貫かば何れの日か成功せざる事ハなかるべしと只思へるのみ。(11月29日)

「火の柱」は著者木下尚江。明治37年1月~3月、『東京毎日新聞』連載、同年5月単行本刊行。著者35歳の時の作品。岩波文庫版(昭和28年)のあとがきによると、編集会議で連載小説をどうするかということになったとき、彼が私が書こうといって決まったとのことである。いさのは28日は「中々に面白し。ヤソ信者ならば一層おもしろからんと思ハる」であったが、読み終わると「名小説を読みし後とてあまり面白くとも何とも思さしりが」ということで、評価が変化した。「濱子」「金色夜叉」「魔風恋風」と読んできたので、その印象が強く、「火の柱」にはちょっと違和感があったのかもしれない。尚江のキリスト教社会主義はいささか付いていけない感じがあったのだろう。(余談だがいさのの娘二人はクリスチャンになった。)世の中の複雑さということにいたく感じて自分の将来に心配もしている。この小説の社会性がすこし硬い感じある印象を持っただろうか。23歳の彼女なら無理からぬところであろうか。
次は「乳姉妹」。

乳兄弟(いさのはこう書いている。小松注。)の中の第一の人物は君子の房江なり。(乳母に君子を預けに来た母親は君江という。乳母には実の娘があり、乳母は君江の名をもらって君江と名付けていた。二人を育てることになった乳母は君子と君江ではあまりに似ているので、君子を君江の母親の名前の房江とした。小松注。)げに女子としての好模範なり。あゝ房江の清き心只に前の良江(「魔風恋風」の芳江のことか。小松注。)の如き無邪気の清きにあらず、道徳的意志の動きし清きたり、宗教家としても又立派の信者たり、房江の心ハ四時如何にのどかならん。
君江ハ又富をのぞみ虚栄心にかられし女子の好いましめなり、しかし死の時にのぞみてハ少しハ許すべしか。
昭信ハ可もなく不可も無き人物、あの様に選ばれしもせん方なかりしならんか。後に君江に心動き出し結婚とかたく思ひ定めしに至りしハおしき事なり。しかし普通の人としてハかくなるが普通か。君子の母ハ慈母としての好模範、母の愛と云ふものハかゝるものか
房江の実父の境遇不幸にして光明あハかりしよ。さすれ愛妻に等しき一女子房江其時に直の子とハ思ハぬ迠もより充分の看護もうけて心のどかに去りしを以ってうらみなし。(12月7日)

「乳姉妹」は著者菊池幽芳(明治3年生れ)。『大阪毎日新聞』明治36年8月~12月(前編)、明治37年1月~4月(後編)連載。単行本4月15日春陽堂出版。大変人気があったようである。単行本著者はしがきに「どういふ所から人気を得たかと考へて見ますと(第一)房江といふ丁度「己が罪」の環のやうに大變に讀者の同情を惹く娘のある事(第二)家庭小説である事(第三)地の文に極めて平易な、また詞遣いの丁寧な言文一致體を用ゐた事。まずこの三點がこの小説を成功せしめた原因であらうと思ひます。」と書いている。
話は姉妹として育てられた二人が実は妹がやんごとなき家の出の娘だということを実母が死の直前に自分の娘、君江に語り、君江は自分がその妹、房江になり替わろうとたくらんだことから始まる。二人とも大変な美女で、姉は性格がきつく負けず嫌いで、妹は静かな娘であった。妹の房江はクリスチャンで教育者になっていく。君江は自ら招いた作為に自らいろいろに苦痛を背負うことになり、最後は貴族になり替わるたくらみの前につい結婚の約束をした男が彼女の秘密を探り当て、それを暴露すると脅迫するにいたる。最後はこの男の刃に彼女は死ぬがその折の彼女の心は自らの虚栄心を恥、死をもって恥をすすぐという気持ちになって、自殺する気持ちであった。このあたり、いさのが「しかし死の時にのぞみてハ少しハ許すべしか。」といっているのはそのあたりのことである。
次は「新夫人」。

昨日持ち来りし新夫人のつヾき読み終る。あまりよい小説とハあらねども、一寸面しろし。剛三郎の人物ハけに名の如く男らしい。併し惜しいかな、あまり情を解せざる。松枝は虚栄心にかられたる女とてかくハ事を誤りたるなり。

作者は小杉天外、明治37年に春陽堂から出版された。桂田剛三郎は自由党の若い政治家で将来は大臣にもなろうかと期待される男で、その妻は松枝といって彼女はバツ一だが美人で上昇志向の極めて強い女である。その二人の間に千代という可愛い娘が入り込んで来て、二人の関係がまずくなる。破局はついに松枝が剛三郎を刺殺しようと家に乗り込んだ時、そこにたまたま千代がその瞬間に立ち会わせてしまう。松枝は憎い千代を代わりに刺し殺してしまう。というような政界のごたごたと夫婦の間の葛藤がないまぜになったような小説である。
次は「女夫波」
此日金色夜叉の後編返し夫妻波(女夫波の間違い?)を持ち来る未だ見ず。クリスマスカロル中々に面白し。(11月19日)
今日ハ醫者に行く事もあらねばゆるゆると起き出で、××事とも××へて朝飯後少し読書し、午前十一時頃帰り給へり。女夫波をよむ×文貸本屋来りしかば後編をよむ。(11月20日)

女夫波は読後感はない。あまり感心しなかったのかもしれない。著者は田口掬汀、(明治8年生れ)、明治37年1月~5月、92回『萬朝報』連載。単行本前編、明治37年7月、後編11月金色社刊行。いさのは出版直後の本を読んだことになる。著者がはしがきで「私が此小説に筆を附けました當初は「清純で深厚なる愛の力は如何なるものをも抱合融和さすべきもので、人の世にある力の最も清く且強いものは、愛の外にはない」と云ふ思想を象に表はさうと企てたので、こゝに以上の語を代表さすべき若い夫婦を點出しまして、此夫婦を働かして行く事象、即ち外圍の事實と人物とは、主に今の社會にあったものを取りまして、一篇の物語を作ったのでございました。されば私は「永遠の力としての愛」を描かうと企てた以外に、此小説が如何なる種類のものとして読まれやうか抔と云ふ事は少しも考えませんでした。」と書いている。単純といえば単純だが、明治時代の良さであろうか。そういうことで話は内務省参事官上村融と妻の俊子が正しい愛の典型で、一群の人々、融の恩人の日頭武則、融の姉、時子は権力欲、金儲けの象徴だが、やがてその虚しさを悟り最終的には正しい道にたどり着く、もう一群の日頭の娘、富美子などはついに覚醒に至らない人物として配置される構成になっている。
実家に帰る直前であるが幸田露伴の「心のあと」が出てくる。 

無意識に私小説くりひろげ居りしに終りに幸田露伴氏の心のあとの抄出あり。新聞にて常に読めども、今日ハ僅かの章なりしと他に心忙しからぬとによりてハ、よくよく妙味とやら幾分ハ伺い知られし心地しぬ。(12月13日)

新聞で常に読んでいたとあるが、「心のあと出盧」は読売新聞に明治37年3月13日に「はしがき」が載り、第一篇が3月14日から28日まで、第二篇が3月29日から4月17日まで、第三篇が6月7日から30日まで、第四篇が7月3日から12月31日まで書かれた。であるから、いさのが読んでいたというのは第四篇であろう。「心のあとの抄出」とあるのが不明だが、「よくよく妙味とやら幾分ハ伺い知られし心地しぬ。」という読後感は作品自体がそう簡単に理解できるようなものではないので、正直な感想であろう。
11月13日に「戦時画報」という雑誌が出てくる。

十一月十三日 日
朝為替取りに行き帰りがけに少々買物に行きて帰る。午後早く来り給へり。夜ハ買ひて置き給ひし戦時画報等よみて伏したり。

この雑誌は国木田独歩がやっていた近時画報社が出した雑誌で、大いに売れた雑誌だった。1号は明治37年2月発行、68号まで出た。11月10日に28号がでているので、見たのはたぶんこの号であろうか。定価は18銭ということである。この「戦時画報」については黒岩比佐子著『編集者国木田独歩の時代』に詳しい記述がある。ここではこれ以上の言及はいまのところ差し控えることにする。
以上で一応いさのの読書のフォローは終了とする。 2021年8月18日。

参考書
濱子 明治家庭小説集 明治文學全集 筑摩書房
金色夜叉 岩波文庫
魔風恋風 岩波文庫
火の柱 岩波文庫
乳姉妹 明治家庭小説集 明治文學全集 筑摩書房
新夫人 国会図書館デジタルコレクション
女夫波 明治家庭小説集 明治文學全集 筑摩書房
心のあと 幸田露伴全集13
編集者国木田独歩の時代 角川選書417
幸田露伴詩と哲学 創言社 瀬里廣明

曾祖父の買った柱時計
この家にかなり古い柱時計があって、まだちゃんと時をきざみ、まめに時刻を間違えずボンボンと鳴らしてくれている。ここでは朝5時と夕方6時にお寺の鐘がなる。この時計もそれに合わせて、ちゃんと5時には五つ、6時には六つなる。曾祖父の明治27年8月7日の記録に時計を買うという記述があるので、この時計はその時曾祖父が買ったのかと思っていたが、証拠がない。しかし、この前曾祖父の残した雑物を整理していたら、なんとその証拠が出てきたのだ。買った店の保証書があった。保証書では曾祖父が買ったという日にちの一週間後の8月12日になっている。時計の写真と保証書をみてほしい。なかなかの古物であり、特にこの保証書は価値がある。買ったときのと、明治32年と明治35年の修理の保証である。

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小松いさの「女教育者の自省」について

この一万余字の文章はいさのが長野県師範学校女子部で明治三十六年二月に学校に課題として提出した文章である。いさのは明治三十六年四月同校を卒業し、その後小学校教諭の経験をし、その折に作った教案が数冊あり、それとともにこの作文があった。二十歳のいさのが女教育者たらんとして些か大げさな見解を述べたものである。(「女教師」という言葉は使っていない。まだ「女教師」という言葉は定着していなかったのだろうか。)

始めに日清戦争の勝利と北清事件で日本が東洋の小国から世界の大国へ発展する時期に至ったことが誇らしげに述べられる。このあたり日清戦争の勝利が日本にもたらした高揚感というものが如何に大きいものであったかを思わせるもので興味深いものがある。そういう国家の情勢において女も家庭だけでなく、何らかの家庭外の社会的貢献をせねばならないと考えたようである。

明治30年代は長野師範において教師・生徒が非常な積極性を発揮した時代であり、女子部においてもその雰囲気は伝わっていたことであろうと思われる。女子部の友人は一生の友となり、友情はいさのの死去まで変わらなかったようである。

いさのがどのようにして教育者としてやっていこうという考えに至ったかははっきりはわからないが、女というものは子供を産み育てるという天職があり、これが女が小学校教育にとっては生来的な適性を持っている由縁だとも言っている。

本論では、七つのテーマをあげる。一、力が足りない。二、確固不抜の主義と勇気を有するや。三、広く目を宇宙に放ち度量を広くすべきこと。四、元気と研究心に乏しきこと。五、卑俗に流るるなきか。六、身を以て卒ゆべきこと。七、家庭につきて。

以上であるが、師範女子部ができて以来、女教育者も増えてきたが、現実は女教育者が十分に力を発揮できるような状態ではない。女教育者自身が努力も不足しているし、女教育者を育むような体制も全く不十分である。そういう中で師範女子部というのは一般のこの時の女性を囲む環境のなかでは女の解放区のようであり、そこでは非常に自由に発言し、研究がなされている。しかし、この彼女たちが卒業して教育現場に入ると一転して彼女達はすっかり元気がなくなり、上からの要請に唯々諾々の存在になってしまうのが現実である。これは一体どうしたらいいのだろうか。社会自体が男中心になっていて、男の教師はそれに乗っていれば安泰でいられる。しかし、女はそうはいかない。どうしたら女が教育界において発展することができるだろうか。六の中でこういう一文をいさのは引用している。

良家ノ女子ヲシテ小學校ノ教員タラシムルワ利益実ニ多クシテ若シ遠慮ナシニ其所望ヲ云ワシメバ女子ノ小學校ノ教員ノ職ニツクコトワ男子ノ兵役ニ於ケルガ如クニシテ未婚ノ女子ヲシテ必幾年ノ間小學ノ教職ニ服スルノ責ヲ負ワシメタシト迠思エド斯ル事ノ容易ニ行ワルベキニ非ラサレバ責メテ女子ノ教職ニ従事スルヲ以テ世間一般ノ風習トナシ此風習ニ従ツテ一度教員ノ職ニツキタル者ニ非レバ容易ニ他ニ嫁スルコトヲ得ザルコト尚裁縫ノ心得ナキモノノ他ニ嫁シ難トニ同様ニ感ズルニ至ラバ大ニ婦女ノ面目ヲ改メ啻ニ小學教員ノ不足ヲ補フニ余リアルノミナラズ女子ヲシテ自営自活ノ道ヲ得ラシメ廣ク人ニ交リ又母トシテ愛児ノ教育ヲ主ドル上ニ無限ノ益スル所見ルベシト

これは出典がないので誰の発言かは不明だが、いさのは読んでハタと膝を打ったに違いない。男子の兵役と女子の小学校教育経験を並べるという考えは女子の社会的地位を男並みにする上で大変な英断であろう。実際はとても実現はしないだろうと発言者も言っているがこれは画期的な考えであろうといさのは思っただろう。

いさのは地元の小学校と武平と結婚して行った大阪の小学校でしばしの教員生活をしたが、教員生活は長くはなく、子供ができて仕事から撤退した。武平は同じ村の出身で東京高等師範を卒業した人で彼との結婚はこれ以上の人はいないという思いであったろう。自分の教育的思想を彼に託したという面もあったのであろう。