百枝の記録
小松百枝は小松家の澪子に次ぐ次女で明治43年(1910)生まれである。百枝が生まれた当時一家は大阪東区東雲町に住んでいた。その後乳武平の勤務先が変って奈良、上田と転居し、大正8年(1919)武平が諏訪中学に転任し、作文が書かれた時は上諏訪町湯の脇に住んでいた。百枝は大正12年(1923)4月諏訪高等女学校に入学、昭和2年(1927)に卒業する。ここで記録する学校に提出した11編の作文は諏訪高等女学校時代の物である。諏訪高等女学校の用箋で書かれたものが、7編ある。「九月一日」、「私の名前」、「繪書きのみち」、「なべの下」、「夏のえんがは(夜)」、「心持ちよき朝」、「淋しい夜」で、そのうち、書かれた時が分かるのは「九月一日」が「第一学年二部」とあり、これは関東大震災の諏訪での様子を書いたもので、諏訪高等女学校に入学した年で、大正12年である。「私の名前」には「二年一部」と書かれているので、大正13年であることが分かる。全部に教師の評があり、赤字で記録した。その字から判断すると、「私の名前」と「なべの下」が二年の時、で他は一年時ということかもしれない。
こまごまとした家庭の状況が書かれているのも面白いが、「繪書きのみち」では朝鮮人が追いかけてくるという恐怖心が書かれていて、震災の時の朝鮮人虐殺を連想したが、このあたりでも朝鮮人への偏見が強くあったのか、調査研究が必要であろう。「言葉」では母いさのが「おまえの悪いくせ」だと言って長男の摂郎を叱るところ、なかなか興味深い。母いさのの存在感がこれらの作文でよく分かる感じがある。
1.心持よき朝
2.きもの
3.なべの下
4.九月一日
5.夏のえんがは(夜)
6.淋しい夜
7.火事になりかけ
8.私の名前
9.言葉
10.十一月十六日の学校へ出る前
11.繪書きの道